第1章 おやすみの続き
君との別れは永遠であり、そして…永劫だった。
人は、一生のうちに何度「おやすみ」を言うのだろう。
一万回だろうか。二万回だろうか。
そんなことを考えたのは、君がいなくなってからだった。
最後に交わした言葉が何だったのか、僕は今でも覚えている。
「おやすみ」
たった五文字。
あのときの僕は、それが最後になるなんて思ってもいなかった。
だから、いつもと同じように答えた。
「うん、おやすみ」
もっと何か言えばよかった。
好きだとか、会いたいだとか。
明日も電話しようね、でもよかった。
けれど僕は、何も言わなかった。
明日になれば、また話せると思っていたから。
*
君がいなくなって、半年が過ぎた。
季節は春から夏へ、夏から秋へと移り変わり、今は冬の入り口に差しかかっている。
僕の部屋には、まだ君のものが残っていた。
洗面台に置かれた歯ブラシ。
本棚に並んだ、君が好きだった小説。
クローゼットの奥には、去年の冬に君が置いていったマフラーがある。
どれも片づけようと思えば片づけられた。
けれど、そうしなかった。
捨てられなかったわけじゃない。
ただ、君がまた取りに来るような気がしていた。
もちろん、そんな日は来ない。
それくらいは分かっている。
分かっているのに、僕は今日も君の歯ブラシを捨てられずにいた。
午後十一時四十二分。
スマートフォンが震えた。
大学の友人からだった。
『明日、講義終わったら飯行かない?』
少し考えてから、『ごめん、また今度』と返した。
最近は、こんなやり取りばかりしている。
誘われて、断って。
また誘われて、また断る。
友人たちは何も言わなくなった。
きっと、気を遣ってくれているのだと思う。
ありがたい。
けれど、少しだけ寂しかった。
僕はスマートフォンを伏せ、ベッドに横になった。
天井には、薄い染みがある。
君は以前、それを見つけて笑った。
「ねえ、あれ、犬に見えない?」
「どこが?」
「ほら、耳があって、鼻があって」
「いや、全然分かんない」
「想像力ないなあ」
そう言って、君は僕の腕を軽く叩いた。
僕は今でも、あの染みが犬には見えない。
ただの染みだ。
でも、君がそう言ったから、僕はずっとそれを見ている。
いつか犬に見える日が来るんじゃないかと思って。
*
君と出会ったのは、大学一年の春だった。
最初の印象は、よく笑う人。
それだけだった。
君は特別目立つ人ではなかったし、僕も人の輪の中心にいるような人間ではなかった。
それでも、気がつけば一緒にいる時間が増えていた。
昼休みに食堂で会って、帰り道が同じだからと駅まで歩いて。
いつの間にか、毎晩電話をするようになった。
君は電話を切るのが下手だった。
「じゃあ、そろそろ寝ようか」
そう言ってからが長い。
明日の天気の話をして、今日見た動画の話をして、突然思い出したように昔の話を始める。
結局、いつも一時間くらい余計に話していた。
ある夜、僕は聞いたことがある。
「そんなに話すことある?」
すると君は、少し考えてから答えた。
「ないよ」
「ないの?」
「うん。でも、切りたくないから」
その言葉に、僕は何も返せなかった。
電話越しに、君が笑う声が聞こえた。
「なに、照れてる?」
「別に」
「絶対照れてる」
「寝るぞ」
「はいはい」
少しの沈黙。
それから、君はいつものように言った。
「おやすみ」
僕も答えた。
「おやすみ」
その翌朝。
目を覚ますと、君からメッセージが届いていた。
『おはよう!』
それが、僕たちの日常だった。
何も特別なことはない。
けれど、今になって思う。
あれほど幸せな日々は、ほかになかった。
*
君がいなくなってから、僕は夢を見なくなった。
正確には、見ているのかもしれない。
ただ、覚えていない。
朝起きて、顔を洗って、大学へ行く。
帰ってきて、適当に夕食を済ませる。
そして眠る。
そんな毎日を繰り返していた。
不思議なものだ。
あれほど一緒にいた人なのに、思い出そうとすると、顔がうまく浮かばないことがある。
写真を見れば分かる。
声だって、動画を再生すれば聞ける。
でも、何も見ずに思い出そうとすると、少しずつ輪郭が曖昧になっていく。
それが怖かった。
君を失ったことよりも、君を忘れてしまうことが怖かった。
だから僕は、毎晩寝る前に君の写真を見た。
二人で海に行った日の写真。
君が僕の誕生日に作ってくれたケーキの写真。
何の記念日でもない日に撮った、君の寝顔。
その一枚一枚を眺めながら、今日も君を覚えていると確かめる。
そして、眠る。
君のいない明日を迎えるために。
*
その夜、僕は久しぶりに夢を見た。
夢だと気づいたのは、目の前に海が広がっていたからだ。
季節は冬のはずなのに、空は青く、潮風は暖かかった。
見覚えのある場所だった。
大学二年の夏。
君と初めて遠出した海。
駅から三十分も歩いて、ようやくたどり着いた小さな砂浜。
観光地でも何でもない。
近くには古びた自動販売機と、屋根の色が褪せた休憩所があるだけだった。
君はあのとき、靴を脱いで海へ走っていった。
そして振り返って、僕に手を振った。
「早くおいでよ!」
その声が、聞こえた。
僕は顔を上げた。
砂浜の向こうに、一人の女の子が立っていた。
白いワンピース。
風になびく髪。
眩しそうに細めた目。
見間違えるはずがなかった。
君だった。
「……え?」
思わず声が漏れた。
君は不思議そうに首をかしげた。
「なにしてるの?」
僕は答えられなかった。
心臓が、ひどく速く動いていた。
君がこちらへ歩いてくる。
一歩。
また一歩。
そのたびに、僕は後ずさりしそうになった。
怖かったわけじゃない。
ただ、信じられなかった。
「どうしたの?」
君は僕の顔を覗き込んだ。
「変な顔」
そう言って笑った。
その笑い方を、僕は知っていた。
目尻が少し下がって、口元を手で隠す癖。
嬉しいとき、君はいつもそうやって笑った。
「……本当に?」
「ん?」
「本当に、君なの?」
君はきょとんとした。
それから、少しだけ頬を膨らませた。
「なにそれ。失礼じゃない?」
僕は何も言えなかった。
ただ、君を見つめていた。
すると君は、困ったように笑った。
「ねえ、そんなに見ないでよ」
その声を聞いた瞬間、涙がこぼれた。
自分でも驚いた。
泣こうと思ったわけじゃない。
悲しかったわけでもない。
ただ、君がいた。
それだけだった。
「ちょっと、どうしたの?」
君が慌てて近づいてくる。
「どこか痛い?」
僕は首を横に振った。
「じゃあ、なんで泣いてるの?」
答えようとした。
けれど、言葉にならなかった。
半年間、何度も思い出そうとした声。
何度も夢に出てきてほしいと願った顔。
もう二度と会えないと思っていた人が、今、目の前にいる。
僕はようやく言った。
「……会いたかった」
君は目を丸くした。
それから、いつものように笑った。
「なにそれ」
少し照れたように、君は続けた。
「さっきまで一緒にいたじゃん」
そうだった。
君にとっては、きっとそうなのだ。
この夢の中では、僕たちはまだ恋人同士で。
何も失っていなくて。
明日も、明後日も、一緒にいられる。
僕は手を伸ばした。
君の指先に触れる。
温かかった。
夢なのに。
確かに、温かかった。
「ねえ」
君が言った。
「今日は何する?」
僕は答えられなかった。
君は海の方を指さした。
「せっかく来たんだし、もうちょっと歩こうよ」
そう言って、僕の手を引いた。
僕はその手を握り返した。
今度こそ、離したくなかった。
*
どれくらい歩いただろう。
僕たちは波打ち際に座り、夕日を眺めていた。
君は隣で、どうでもいい話をしていた。
大学の友達のこと。
昨日見たテレビのこと。
帰りにアイスを買いたいということ。
僕はその一つ一つを、忘れないように聞いていた。
やがて、空が暗くなり始めた。
君は小さくあくびをした。
「眠くなっちゃった」
その言葉に、胸が締めつけられた。
もうすぐ、夢が終わる。
僕は知っていた。
どれだけ幸せな時間でも、朝になれば消えてしまう。
君は立ち上がり、服についた砂を払った。
「そろそろ帰ろっか」
僕は立ち上がらなかった。
「……もう少し」
「ん?」
「もう少しだけ、ここにいよう」
君は僕を見つめた。
そして、何かを察したように隣へ座り直した。
「いいよ」
そう言って、僕の肩に頭を預けた。
波の音が聞こえる。
遠くで鳥が鳴いている。
君の髪が、風に揺れている。
このまま時間が止まればいいと思った。
けれど、君は静かに言った。
「ねえ」
「うん」
「明日も会えるよ」
僕は君を見た。
「……本当に?」
「当たり前じゃん」
君は笑った。
「そんな心配しなくても、私、どこにも行かないよ」
その言葉が、嬉しかった。
同時に、どうしようもなく悲しかった。
君は知らない。
自分がもう、この世界にはいないことを。
僕は何も言わなかった。
言えるはずがなかった。
君は僕の手を握った。
「じゃあ、また明日ね」
僕はうなずいた。
「……うん」
君は目を細めた。
そして、いつもの言葉を口にした。
「おやすみ」
その瞬間、世界が白く染まった。
*
目を覚ますと、見慣れた天井があった。
薄い染み。
カーテンの隙間から差し込む朝日。
遠くで車の走る音がする。
僕はしばらく動けなかった。
右手を持ち上げる。
君とつないでいた手。
そこには、もう何もなかった。
スマートフォンを見る。
午前七時十三分。
いつもと変わらない朝だった。
けれど、僕は確かに君に会った。
声を聞いた。
手を握った。
一緒に海を歩いた。
あれほど鮮明な夢を、僕は今まで見たことがなかった。
僕はベッドから起き上がり、机の上の写真立てを手に取った。
そこには、あの日の海で笑う君がいた。
白いワンピース。
風になびく髪。
そして、あの笑顔。
写真の中の君と、夢の中の君は、何も変わらなかった。
僕は写真を胸に抱いた。
そして、半年ぶりに声を出して泣いた。
悲しかったからじゃない。
嬉しかったからだ。
もう二度と会えないと思っていた君に、会えたから。
ひとしきり泣いたあと、僕は窓を開けた。
冷たい風が部屋に流れ込んでくる。
冬の匂いがした。
夢の中とは違う、冷たい朝。
それでも、不思議と嫌ではなかった。
僕は空を見上げた。
そして、小さくつぶやいた。
「おはよう」
返事はなかった。
けれど、その日の僕は、少しだけ笑うことができた。
今夜も眠れば、また君に会える。
そう信じていたから。




