第二章 21グラム
神崎玲司が「21グラム」という数字を初めて知ったのは、大学院生の頃だった。
研究室の先輩が、酒の席で話していた。
「人間って、死ぬと二十一グラム軽くなるらしいぞ」
「魂の重さですか?」
「そうそう」
当時の玲司は笑った。
そんな話を科学だと思ったことはない。
むしろ逆だった。
科学者が最も嫌うもの。
それは、
測れないものを、測ったことにすること。
1907年。
アメリカの医師ダンカン・マクドゥーガルは、死の前後で人間の体重が変化するかを調べた。
いわゆる「21グラム実験」。
複数の患者を大型の秤が組み込まれたベッドに寝かせ、死亡時の重量変化を測定した。
結果は一貫していなかった。
だが、その中に一つだけ、
約21グラムの急激な減少を示した例があった。
それが後世、
「魂には21グラムの重さがある」
という話になった。
玲司は、その数字を知ってから一度も忘れたことがなかった。
21.3グラム。
不思議な数字だった。
中途半端で、
だからこそ、
妙に現実的だった。
そして二十年以上後。
玲司は、その数字が自分の研究室で現れることになる。
ただし、
死者の身体ではなく。
誰もいない、
空っぽの測定台の上に。
*
午前八時。
玲司は研究室の責任者である黒田教授の部屋を訪れた。
「先生」
「どうした」
黒田は新聞から顔を上げた。
七十代。
白髪。
細い眼鏡。
研究者らしい無愛想な顔をしている。
玲司はノートパソコンを開いた。
「昨夜、異常値が出ました」
「どんな?」
「一度目は63.9グラム」
「ロードセル?」
「たぶん」
「たぶん?」
「二度目が780グラムです」
黒田の指が止まった。
新聞を畳む。
「……もう一度言え」
「780グラムです」
黒田は玲司を見た。
「いつ?」
「午前二時十三分」
「記録は?」
「あります」
玲司が画面を見せる。
黒田は波形を確認した。
何も言わない。
数秒。
十秒。
やがて、
「そのデータ、誰にも見せるな」
玲司は眉をひそめた。
「なぜです?」
「いいから」
「先生?」
黒田は立ち上がった。
棚の奥へ歩く。
鍵を取り出す。
そして、
普段は開けることのない引き出しを開いた。
古い紙束が出てきた。
「これを見ろ」
玲司は受け取った。
一番上に、
1987
と書かれている。
「……何ですか、これ」
「私が若い頃にやった実験だ」
「重量測定?」
「そうだ」
玲司はページをめくった。
動物。
死亡時刻。
体重。
測定値。
波形。
そして、
赤いペンで囲まれた数字。
779.8g
玲司の目が止まった。
「……780グラム」
「正確には779.8だ」
「同じ現象?」
「ああ」
「じゃあ、なぜ今まで――」
「論文にしていない」
「どうしてです?」
黒田は答えなかった。
代わりに、別のページを開いた。
そこには一枚の写真が貼られていた。
古い白黒写真。
研究室。
測定台。
その上に横たわる動物。
そして、
その横。
人間らしき黒い影。
玲司は写真を凝視した。
「……これ」
「見えるか?」
「何ですか、これ」
「質問に答えろ」
玲司は写真を見た。
「人……ですよね」
黒田は目を伏せた。
「そう見える」
「実際には?」
「撮影時、そこには誰もいなかった」
玲司は顔を上げた。
「……先生」
「何だ」
「この写真、誰が撮ったんです?」
黒田は答えなかった。
ただ、
写真の裏側を指差した。
そこには手書きで一言だけ書かれていた。
「死ぬ前に、来る。」
玲司はその意味を理解できなかった。
このときは。




