第一章 空白
人間が死ぬ瞬間を、正確に測った人間はいない。
心臓が止まった瞬間なら、心電図に残せる。
脳波が消えた瞬間も分かる。
呼吸が止まった時間も分かる。
だが――
「死」が始まった瞬間だけは、誰にも測れない。
神崎玲司は、そう考えていた。
だから彼は、死そのものではなく、その周辺を測っていた。
午前二時十三分。
地下研究棟の一室で、玲司はモニターを見つめていた。
室温二十一・三度。
湿度四十二パーセント。
気圧一〇一三ヘクトパスカル。
測定台の上には何もない。
四基のロードセル。
高感度アンプ。
データロガー。
そして、十万分の一グラムまで読み取れる電子秤。
研究室には、機械が発する低い駆動音しかなかった。
玲司は画面の右下に表示された時刻を確認した。
02:13:00
次の秒。
02:13:01
何もない。
02:13:02
何もない。
02:13:03――
数字が跳ねた。
0.0000 kg
だった表示が、
0.0213 kg
になった。
玲司は瞬きをした。
数字は消えない。
0.0213。
21.3グラム。
測定台には、何もない。
玲司は椅子から立ち上がった。
その瞬間だった。
数字がさらに変わった。
0.0426 kg
42.6グラム。
さらに。
0.0639 kg
玲司の顔から眠気が消えた。
「おい……」
次の瞬間。
数値は、
0.0000 kg
へ戻った。
わずか四秒。
玲司は時計を見る。
02:13:07。
何度もモニターを確認した。
測定台。
配線。
電源。
アンプ。
室温。
すべて正常。
「……過渡応答か?」
玲司は呟いた。
ロードセルが一瞬だけ異常な値を返した。
それなら説明できる。
説明できるはずだった。
彼は測定データを保存した。
ファイル名を入力する。
2026̲10̲04̲0213
備考欄。
――原因不明の過渡的荷重変化。
そこで手が止まった。
玲司は少し考え、
もう一行加えた。
――最大値63.9g。
保存。
そのまま立ち上がろうとした。
しかし。
モニターの数字が、
再び変化した。
0.0213 kg
玲司は動きを止めた。
0.0426。
0.0639。
今度は、
ゆっくりだった。
数字が増えていく。
0.1065。
0.2130。
0.4260。
そして、
0.7800 kg。
七百八十グラム。
玲司は息を呑んだ。
測定台の上には、
何もない。
それなのに、
七百八十グラムの荷重が存在している。
「……誰だ」
自分でも馬鹿げたことを言ったと思った。
返事などあるはずがない。
だが。
その瞬間。
研究室の奥で、
床が一度だけ軋んだ。
玲司は振り返った。
誰もいない。
ドアは閉じている。
窓もない。
地下三階。
外から人が入ることなどできない。
それでも――
床の上に、
濡れた足跡が一つあった。
裸足の足跡。
玲司は息を止めた。
足跡は、
測定台の横から、
彼のいる方向へ向かっていた。
一つ。
また一つ。
そして三つ目で、
途切れている。
その先には、
何もない。
玲司は動けなかった。
測定台の数字だけが、
静かに、
0.7800 kg
を示していた。
そのとき。
背後から、
声がした。
「……まだだ」
玲司は振り返った。
誰もいなかった。
声は、
自分自身のものだった。




