【Day8】
月曜日のキャンパスは、先週よりもさらに暴力的だった。
正門から続くメインストリートは、新入生を狙うサークル勧誘の群衆で完全に埋め尽くされていた。飛び交う怒号のような歓声、押し付けられる極彩色のビラ、そして無数の他人の体温。
母が私に課した『見えないマス目』は、このカオスの中でいともたやすく歪められていく。
「新入生? テニス興味ない!?」
「インカレの飲みサーなんだけど、今日空いてる!?」
前後左右から浴びせられる言葉の波に、私の足は完全に竦んでしまった。
右へ避ければ誰かの肩にぶつかり、立ち止まれば後ろから押される。
見知らぬ男子学生の熱を帯びた手が、私の肩を掠めた。
その瞬間、母が整えてくれた私の『完璧な輪郭』に、醜い手垢がベチャリと付着したような気がした。
息ができない。
どう動けばいいのかわからない。母の指示がない空間で、私はただの障害物になり果てていた。
パニックで視界が白く明滅し、後ろから誰かの大きな鞄が強くぶつかって、無様にバランスを崩した――その時だった。
「ごめん、この子連れだから」
ふいに、右手首を強く引かれた。
振り返る間もなく、私はその強い力に引かれるまま、人波を掻き分けて進み出した。
私の視界いっぱいに広がったのは、少し色褪せた、重みのあるグレーのスウェットの背中だった。私の腕を掴むその手から、そして彼が纏う空気から、古い布の匂いと、微かな煙草の香りが漂ってくる。
それは、無菌室で育った私にとって、完全に『未知の不純物』だった。
母が与えるシルクや高級ウールの、滑らかで冷たい感触とは正反対の匂い。私の手首を掴む彼の指先も、ひどくざらついていて、熱かった。
それなのに、なぜだかそのゴワついた見知らぬ服の感触と匂いに、私はひどくホッとしてしまったのだ。
「……息、止まってたよ」
群衆を抜けた先の、裏庭の静かな喫煙所。
彼は手を離すと、ポケットからくしゃくしゃの煙草の箱を取り出しながら、振り返って面白そうに笑った。
前髪の間から覗く、少し気怠げな瞳。
彼は私に、名前も、学部も、趣味も聞かなかった。「自分で自分を説明しろ」という、あの恐ろしい強要をしてこなかった。
ただ、私を物理的な力で引きずり出し、彼が立っている場所に強制的に立たせたのだ。
「あ、の……」
「新入生でしょ。あんなとこで突っ立ってたら、食い殺されるよ」
カチッ、とライターの音が鳴り、紫煙が細く立ち昇る。
その煙が私の顔にふわりとかかった瞬間、私の無色透明だった水槽の中に、ポトリと、最初の一滴の泥水が落ちたのがわかった。
母のマス目から完全に外れた、見知らぬ男。煙草の匂い。ざらついた手。
それらはすべて、私の世界を汚す『濁り』であるはずなのに。
私はその濁った空気を、生まれて初めて「自分の意志で」肺の奥深くまで吸い込んでいた。
冷たくて息苦しい無菌の箱の中で死にかけていた金魚は、この泥のように濁った水の中でなら、呼吸ができるような気がしてしまったのだ。
【本日の水質記録】
• 濁度: 1%
• 状態: 未知の不純物が混入。水面にわずかな波紋。微かに古い布と煙草の匂いがする。初めての『呼吸』を確認。




