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恋する金魚は愛で濁った水を啜る  作者: 疾患乙女α


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10/10

【Day9】

 朝。出がけの玄関で、母が私の首元にふわりと顔を近づけた。

「……変ね。なんだか、少し埃っぽい匂いがするわ」

 心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねた。

 昨日の夕方、家に帰る前に駅のトイレで何度も手首を洗い、消臭スプレーを浴びるように吹きかけたはずだった。それでも、母の完璧なセンサーは、私に付着した『彼』の微かな残い香を嗅ぎ取ろうとしている。

「気のせいよ、お母さん。電車の空調のせいかもしれない」

 私は生まれて初めて、母に対して意図的な『嘘』を口にした。

 母は少しだけ不満げに眉をひそめたが、やがて「そうね、帰ったらすぐにクリーニングに出しましょう」と私の頬を撫でた。

 靴を履きながら、私は自分の内側に、真っ黒なインクが一滴ポトリと落ちたような奇妙な高揚感を感じていた。

 母に見つからない、私だけの『汚れ』。

 それは恐ろしくもあり、同時に、私の空洞だった胃袋に確かな重みを与えてくれる初めての秘密だった。

 大学に到着し、午前中の講義が終わる。

 昨日までなら、次の講義までの空白の時間をやり過ごすために、図書館の壁際へ逃げ込んで息を潜めていたはずだ。

 けれど、私の足は無意識のうちに、昨日彼に引きずり込まれたあの裏庭の喫煙所へと向かっていた。

(あの匂いを、もう一度……)

 薄暗い裏庭のベンチ。

 そこに、彼はいた。昨日と同じ、少し毛玉のついたスウェット姿。深く腰掛け、長い脚を投げ出してスマートフォンをいじっている。

 私の足音に気づくと、彼は顔を上げ、気怠げな瞳で私を真っ直ぐに見た。

「なんだ。今日は迷子になってないじゃん」

 その声を聞いた瞬間、強張っていた私の肩からスッと力が抜けた。

 彼は私の名前も素性も聞かない。ただ、そこにいることを当然のように受け入れてくれる。

 私は彼から数歩離れた場所に立ち尽くしたまま、どうしていいかわからず俯いた。

 座っていいのか、話しかけていいのか。指示を出してもらわなければ、私は動けない。

「……お前、いつもそんな息詰まりそうな顔してんの?」

 彼はふっと笑うと、横に置いてあった自動販売機の缶を手に取り、私に向かって軽く放り投げた。

 反射的に受け取ったそれは、百二十円の安っぽいミルクティーだった。

「飲めば。糖分足りてない顔してる」

 その言葉は、私にとって絶対的な『命令』として響いた。

 母が管理する私の食生活において、人工甘味料や保存料まみれの市販のジュースなど、絶対に口にしてはならない猛毒だ。こんなものを胃に入れれば、母の計算した完璧な栄養素の比率は完全に崩壊してしまう。

 やってはいけない。飲んではいけない。

 けれど、彼の「飲めば」という無造作な声が、母の呪縛を上書きしていく。

 私は震える指でプルタブを引き開けた。プシュッという乾いた音と共に、暴力的なまでに甘い人工的な香りが鼻腔を突く。

 目を閉じ、その泥のように濁った茶色の液体を、一口、喉に流し込む。

「……っ」

 甘い。ひどく、甘い。

 舌が痺れるほどのチープな砂糖の味が、無菌だった私の粘膜を容赦なく侵食していく。

「……美味しいです」

 嘘ではなかった。

 チープな砂糖の味が空っぽの胃袋に染み渡っていくのを感じながら、私はハッと気がついて、慌てて背筋を正した。母に仕込まれた『正しい礼儀』が、反射的に顔を出す。

「あの……昨日は、ありがとうございました。助けていただいて」

 彼はこちらを見向きもせず、紫煙を吐き出しながら「ん」とだけ喉を鳴らした。

 相手の反応が薄いことに戸惑いながらも、私は無意識に缶を両手で強く握りしめ、言葉を続けた。

「私、水澄朱里(みすみあかり)といいます。文学部の……あなたは?」

 生まれて初めて、親の指示なしに「自分の意志」で他人に名前を告げた。それは自分の輪郭を、見知らぬ他者に丸ごと差し出すような、恐ろしくて甘い感覚だった。

 彼はくわえていた煙草を指に挟み、ようやく気怠げな視線を私に向けた。

周防(すおう)。……お前、朱里っていうのか」

 周防さんは、私の名前を舌の上で転がすように呟いた。

 母が呼ぶ時の、冷たくて美しい響きとは違う。ざらついていて、低くて、ひどく熱を帯びた響き。たったそれだけで、私の名前が『彼のもの』に塗り替えられてしまったような気がした。

「……はい」

 私は小さく頷き、残りの泥水をすがるように飲み干す。

 漂ってくる紫煙の匂いが、私を別の水槽へと閉じ込める新しい蓋のように思えた。


【本日の水質記録】

 • 濁度: 3%

 • 状態: 人工的な不純物(甘味料)の摂取を確認。母の引いたグリッド線の一部が溶解。新しい水質への適応が始まる。

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