【Day7】印象派の牢獄と、決められた呼吸
日曜日の午後は、母が定めた「教養のための時間」だった。
私たちはタクシーに乗り、都内の美術館で開催されている印象派の展覧会を訪れていた。
「このモネの色彩は、あなたの感性を磨くのに最適よ。一枚につき、二分間見なさい」
母の指示に従い、私は絵画の前に立つ。
頭の中で秒数を数えながら、指定された通りにカンバスを見つめる。ここには、私が「この絵が好きだ」とか「退屈だ」とか感じる余地はない。母が「美しいから見なさい」と定めたものを、指定された時間だけ網膜に焼き付ける。
それが私の役割だ。
美術館の静謐な空気の中、すれ違う人々は皆、美しい母娘の姿を振り返った。
母が選び抜いた淡いブルーのワンピース。乱れ一つない髪。背筋の伸びた完璧な歩き方。私たちは間違いなく、この美術館の中で最も洗練された『展示品』だった。
けれど、キャンパスという混沌を知ってしまった私の身体は、この完璧すぎる無菌状態の中で、悲鳴を上げ始めていた。
(息が、苦しい……早くこの時間が終わればいいのに………)
一歩歩く歩幅、瞬きの回数、絵画を見る角度。すべてが母の引いたグリッド線の上に固定されている。少しでもマス目からズレれば、昨日と同じように『検品と修復』の時間が待っている。
完璧であることを維持するための極度の緊張感が、じわじわと私の首を締め上げていた。
ショーケースのガラスは、すでに限界まで冷え切っている。
自分が自分でなくなっていくような安堵感と、空っぽのまま押しつぶされそうな息苦しさ。その二つの矛盾した感情が、私の内側でギリギリの均衡を保っていた。
明日からまた、あの大学という巨大な海へ放り出されるのだ。
母のマス目を一人で維持しなければならない、あの恐ろしい月曜日がやってくる。
もう、私一人ではこの完璧な『無色透明』を保てない。誰か、いっそこの分厚いガラスを叩き割って、めちゃくちゃに壊してほしい。
そんな不敬で異常な祈りを抱きながら、私はモネの睡蓮の前で、ただ静かに百二十秒を数え続けた。
【本日の水質記録】
• 濁度: 0%
• 状態: 極限の密閉状態。水圧が異常に上昇。明日の外部曝露によるガラスの崩壊確率は99%。
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