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恋する金魚は愛で濁った水を啜る  作者: 疾患乙女α


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8/10

【Day7】印象派の牢獄と、決められた呼吸

 日曜日の午後は、母が定めた「教養のための時間」だった。

 私たちはタクシーに乗り、都内の美術館で開催されている印象派の展覧会を訪れていた。

「このモネの色彩は、あなたの感性を磨くのに最適よ。一枚につき、二分間見なさい」

 母の指示に従い、私は絵画の前に立つ。

 頭の中で秒数を数えながら、指定された通りにカンバスを見つめる。ここには、私が「この絵が好きだ」とか「退屈だ」とか感じる余地はない。母が「美しいから見なさい」と定めたものを、指定された時間だけ網膜に焼き付ける。

 それが私の役割だ。

 美術館の静謐な空気の中、すれ違う人々は皆、美しい母娘の姿を振り返った。

 母が選び抜いた淡いブルーのワンピース。乱れ一つない髪。背筋の伸びた完璧な歩き方。私たちは間違いなく、この美術館の中で最も洗練された『展示品』だった。

 けれど、キャンパスという混沌を知ってしまった私の身体は、この完璧すぎる無菌状態の中で、悲鳴を上げ始めていた。

(息が、苦しい……早くこの時間が終わればいいのに………)

 一歩歩く歩幅、瞬きの回数、絵画を見る角度。すべてが母の引いたグリッド線の上に固定されている。少しでもマス目からズレれば、昨日と同じように『検品と修復』の時間が待っている。

 完璧であることを維持するための極度の緊張感が、じわじわと私の首を締め上げていた。

 ショーケースのガラスは、すでに限界まで冷え切っている。

 自分が自分でなくなっていくような安堵感と、空っぽのまま押しつぶされそうな息苦しさ。その二つの矛盾した感情が、私の内側でギリギリの均衡を保っていた。

 明日からまた、あの大学という巨大な海へ放り出されるのだ。

 母のマス目を一人で維持しなければならない、あの恐ろしい月曜日がやってくる。

 もう、私一人ではこの完璧な『無色透明』を保てない。誰か、いっそこの分厚いガラスを叩き割って、めちゃくちゃに壊してほしい。

 そんな不敬で異常な祈りを抱きながら、私はモネの睡蓮の前で、ただ静かに百二十秒を数え続けた。


【本日の水質記録】

 • 濁度: 0%

 • 状態: 極限の密閉状態。水圧が異常に上昇。明日の外部曝露によるガラスの崩壊確率は99%。

1...2...3...4...5...6...7...8...9...10...11...12...13...14...15...16...17...18...19...20...21...22...23...24...25...26...27...28...29...30...31...32...33...34...35...36...37...38...39...40...41...42...43...44...45...46...47...48...49...50...51...52...53...54...55...56...57...58...59...60...61...62......63...64...65.........66...67...68...69...70...71...72......73...74...75...76......77...78...79...80...81...82...83...84...85......86...87...88...89...90...91......92...93...94...95......96.........97...98...99...100...101...102...103............104...105...106...107...108...109......110...111...112...113...114...115......116.........117............118...............119........................120

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