【Day6】優しい修復と、剥製の週末
土曜日の朝。私が恐れていた「検品」の時間は、朝食後の静かなリビングで始まった。
「……どうしたの、これ」
ソファに座る母の膝の上には、昨日私が傷をつけてしまった革の鞄と、糸がほつれたローファーが乗せられていた。
母の声に怒りは微塵も混じっていない。ただ、精巧に作り上げた自慢の芸術作品に、信じられない『傷』を見つけてしまった純粋な悲しみと、静かな絶望が滲んでいた。それがひどく恐ろしかった。
「ごめんなさい、私……昨日、人にぶつかられて」
「動かないで」
言い訳を遮るように発せられた冷たい声に、私の全身は強張った。
母は立ち上がり、音もなく私の背後に回る。そして、両手で私の頭を優しく、けれど絶対に逆らえない強い力で固定した。
「右肩が三ミリ下がっているわ。
それに、呼吸が浅い。
不安な時に瞬きが増える悪い癖、治っていなかったのね」
母の細い指先が、私のこめかみから首筋、そして肩のラインへと滑り降りていく。
その指が触れるたび、キャンパスで歪んでしまった私の輪郭が、母の引いた見えない『完璧なマス目』へと強制的に押し戻されていくのがわかった。
「あのね、お母さんは怒っているんじゃないのよ。ただ、あなたが傷つくのが可哀想でならないの。あなたは、この完璧な状態でいる時が一番美しいのだから」
母はそう言って、私の髪にそっと口づけを落とした。
その瞬間、私の内側にあった張り裂けそうな恐怖は、奇妙な安堵感へとすり替わってしまった。
自分で直せなかった靴のほころびを、母が完璧に修復してくれる。自分で選べなかった正解を、母がすべて決めてくれる。
私はただ、息を潜めて母のマス目の中に収まっていればいいのだ。自分の意志などという不純物さえ持たなければ、私はこの無菌室で、永遠に美しい剥製として愛される。
大学のあの広大で、誰も正解を教えてくれない恐ろしい自由の世界より、母の支配下の方がずっと息がしやすい。
自分が一人の人間ではなく、ただの精巧な『モノ』に成り下がっていくことを受け入れた瞬間、私の心はひどく静かに凪いでいた。
【本日の水質記録】
• 濁度: 0%
• 状態: 外部からの侵食を完全に修復。再び強固なガラスの箱に密閉される。自我の溶解が進行中。




