【Day5】
金曜日。
午後四時を過ぎたキャンパスは、初めての週末を目前に控えた新入生たちの熱気で、むせ返るようなアルコールと香水の匂いが入り混じっていた。
「今日、この後みんなで駅前の居酒屋行かない?」
「いいね! 紗奈ちゃんたちも来るでしょ?」
講義室を出るなり、あちこちで交わされる週末の予定。彼らにとっての金曜日は、抑圧からの解放であり、自分の絵の具をキャンパスの外へぶちまけるための祝祭の始まりなのだ。
けれど、私にとっての金曜日は全く別の意味を持っていた。
明日からは土日。つまり、四六時中、母の冷たく美しい視線が私の輪郭を舐め回し、ミリ単位のズレを修正し続ける『完全監視下』の二日間に戻るということだ。
月曜日の入学式から今日までの五日間。
私は一人きりで、見えない母のマス目を維持し続けてきた。座る姿勢、歩くスピード、視線の角度。母がいない場所でも、母の引いた完璧な比率から逸脱しないよう、呼吸すらも制限して生きてきた。
その異常な緊張感は、私の精神を限界まで削り取っていた。
ふらつく足元を必死に正し、人波を避けるようにして正門へ向かおうとした時だった。
――ぷつん、と。
ごく微かな音がして、右足の甲に違和感が走った。
立ち止まり、視線を落とす。
母がこの日のために特注で誂えてくれた、柔らかなカーフスキンのローファー。その右足の縁から、本当にごくわずかな、一ミリにも満たないほどの細い黒糸が一本、ほつれて飛び出していたのだ。
心臓が、ヒュッと冷たい音を立てて収縮した。
「……あ、」
喉から、無音の悲鳴が漏れる。
他人から見れば、気づきもしないような些細なほころびだ。だが、私にとっては違った。それは母の完璧な作品に生じた、取り返しのつかない致命的な『エラー』だった。
どうしよう。直さなければ。このまま家に帰れば、母の完璧を汚した罪で、私が私でなくなってしまう。
けれど、どうやって?
ハサミはない。引っ張ればもっとほつれるかもしれない。自分で直そうとして、さらに形を歪めてしまったら?
『自分で選んで、対処する』という経験を奪われてきた私にとって、その一ミリの糸くずは、世界を崩壊させるに等しい絶望だった。
「ねえ、邪魔なんだけど」
背後から声がして、肩をドンと強く押された。
週末の予定に浮き足立つ学生の集団が、道の真ん中で立ち尽くす私を忌々しそうに避けて通り過ぎていく。よろけた拍子に、大切に抱えていた革の鞄がアスファルトに擦れ、白い傷がついた。
終わった。
靴のほころび。鞄の傷。
母の完璧な比率は、この五日間の終わりと共に完全に崩れ去ってしまった。
金曜日の夕暮れ。駅へ向かう人々の群れの中で、私は一人、足元のほつれた糸を見つめたまま一歩も動けなくなっていた。
誰か、助けて。
この壊れかけた私を、いっそ粉々に砕いて、全く別の箱に閉じ込めて。
頭の中で鳴り響くSOSは、誰の耳にも届かないまま、キャンパスの喧騒に吸い込まれて消えた。
【本日の水質記録】
• 濁度: 0%
• 状態: 表面張力の限界に到達。物理的なエラーの発生により、ガラスの防壁が崩落寸前。




