【Day4】腹話術の人形と、空っぽの履歴書
「アイスブレイク」という言葉の響きは、私にとってひどく暴力的で、おぞましいものだった。
必修科目である基礎ゼミナールの初回。長机がロの字型に並べられた狭い教室は、二十人ほどの新入生が放つ熱気と、入り混じった柔軟剤や甘い香水の匂いで充満していた。
「まずは親睦を深めるために、四人一組で自己紹介をしてください。趣味や、休日の過ごし方なんかを自由にね」
白髪の教授が手を叩いてそう告げた瞬間、私の体温は一気に急降下した。
氷を砕く。
それはつまり、母が十数年かけて私の表面に張り巡らせた、完璧で滑らかなガラスの防壁を叩き割るという残酷な儀式の要求だった。
「私からいくね。文学部から来ました、紗奈です。趣味はカフェ巡りと、あとネトリフで韓国ドラマを見ることかな」
隣の席に座った女子学生が、コーラルピンクに彩られた唇を滑らかに動かして笑う。彼女の指先には艶やかなジェルネイルが施されていて、空中でヒラヒラと動くたびに、彼女自身の『色』を雄弁に主張していた。
向かいの男子学生も、「俺はサークルでフットサルやってて……」と、自分の輪郭を当然のように他者へ提示していく。彼らにとって、自分の中身を語ることは呼吸と同じくらい自然なことらしい。
「そっちは? 休日は何してるの?」
不意に、紗奈と呼ばれた女子学生の大きな瞳が私に向けられた。
心臓が嫌な音を立てて跳ねた。喉の奥がカラカラに乾き、舌が上顎に張り付いて動かない。
休日の過ごし方。趣味。
私の脳内が激しく明滅し、回答の検索を始める。だが、私の内部のデータベースに保存されているのは、母が入力した『正しい行動記録』のデータだけだ。
休日は母と共にタクシーで美術館へ行き、印象派の絵画の前で指定された秒数だけ立ち止まること。帰宅後は、母が選んだ教養書を読み、感想を原稿用紙二枚にまとめて提出すること。
それが私の生活のすべてだった。しかし、それは果たして私の『趣味』なのだろうか?
「……えっと」
沈黙が長引き、グループの空気に微かな戸惑いの色が混じり始める。早く何かを言わなければ、彼らの『普通』のマス目から逸脱してしまう。
「……クラシック音楽を、少し。主に、バッハの無伴奏チェロ組曲を聴きます」
私の喉から滑り出たのは、母が設定した完璧な『模範解答』だった。
発声のトーン、伏し目がちな視線の角度まで、母から訓練された通りに美しく出力できたはずだった。しかし、それを聞いた紗奈の顔に浮かんだのは、感心ではなく、明確な『距離』だった。
「へえ……お嬢様なんだね。なんか、すごい」
つまらなそうに愛想笑いを浮かべた彼女は、すぐに別の男子学生へと話題を振ってしまった。
透明な壁が、ストンと降りた音がした。
私は彼らに拒絶されたわけではない。
ただ、「自分たちとは違う、関わるのが面倒な展示品」として丁重にショーケースへ戻されたのだ。
別に、彼らに好かれたかったわけではない。
私を絶望の淵に突き落としたのは、他人に拒否されたことではなく、他者へ提示できる『私自身の言葉』が、ただの一つも存在しなかったという残酷な事実だった。
母の書いた台本が通用しない世界に放り出された時、私は一言のセリフも発することができない。私はただ、精巧に作られた腹話術の人形なのだ。術者がいなければ、声帯を震わせることすらできない、中身のない標本。
自分の意志で笑い合う彼らの声が、まるで水槽の外から聞こえるくぐもったノイズのように響く。
この広大なキャンパスの中で、私だけが空洞だった。
苦しい。息ができない。
自分で中身を埋められないのなら、いっそ誰かに、この空っぽの胃袋の奥まで手を突っ込んで、強引に『別の台本』を書き換えてほしかった。母のマス目が通用しないのなら、この世界を生きるための新しいマス目に、私を力ずくで縛り付けてほしかった。
無菌の箱の中で、人形は静かに狂い始めていた。
【本日の水質記録】
• 濁度: 0%
• 状態: 自己の内部が完全な空洞であることを確認。外部との気圧差により、水槽のガラス面に目視可能なヒビが入り始める。




