【Day2】
海へ抜けるなだらかな坂道を登りきると、キャンパスを囲む重厚な赤レンガの門が見えてくる。
歴史ある洋館を模した校舎の群れは、潮風を含んだ湿った空気に沈み込み、どこかよそよそしい威圧感を放っていた。
昼休みのチャイムが鳴ると同時に、私はひどい眩暈に襲われた。
講義室から吐き出された何百人もの学生たちが、一斉に巨大な学食へと流れ込んでいく。彼らの靴音がタイルを叩く音、入り乱れる笑い声、そして、換気扇から絶え間なく吐き出される、安い揚げ油と煮詰まった醤油の暴力的な匂い。
そのすべてが、無菌室で育った私の粘膜を容赦なく刺激した。
学食の入り口に鎮座する巨大な券売機の前で、私はもう十分以上立ち尽くしていた。
「次、いいですか?」
後ろに並んだ男子学生の苛立った声に、私は弾かれたように列を外れ、券売機の横に逃げ込んだ。心臓が肋骨を突き破りそうなほど脈打っている。額には冷たい汗が滲んでいた。
光るアクリル板の向こうには、百を超えるプラスチックのボタンが並んでいる。
『カツカレー』『醤油ラーメン』『日替わり定食A』。
赤、黄、青と色分けされたそれらのボタンは、私に向かって「さあ、自分の意志で選べ」と強要してくる。
母が管理する実家の食卓には、常に完璧な比率で計算された食事が並んでいた。
百五十グラムに計量された白米、八十グラムの良質なタンパク質、彩りとビタミンを補うための有機野菜の小鉢。それは食事というよりも、私の身体という精巧な機械を維持するための、正しい『部品』の供給だった。
「あなたはこの栄養素を、この順番で摂取しなさい」
母の指示通りに箸を動かせば、私は常に完璧なマス目の中にいられた。そこに私の『これが食べたい』という意志が入り込む余地は一ミリもなかったし、必要もなかったのだ。
けれど、ここには母がいない。
誰も私に、どのボタンを押せば『正解』のマス目に収まるのかを教えてくれない。
もし私が、あの脂ぎった唐揚げ定食のボタンを押してしまったら?
それは母の構築した完璧な比率を破壊する『エラー』だ。一口でも胃に流し込めば、私は私でなくなってしまうような気がした。では、うどんなら正しいのか? サラダボウルなら許されるのか?
わからない。
どう計算しても、母のマス目に完璧に合致するメニューが、この百個のボタンの中には見当たらない。
「あ、ごめん。通して」
横を通り抜けようとした女子学生のトートバッグが、私の肩にぶつかった。
その衝撃で、母が今朝一時間かけてアイロンを当ててくれた純白のブラウスに、見えない皺が寄った気がした。
ひっ、と短い息が漏れる。
崩れていく。私が、私の形を保てなくなる。
『自分の意志で何かを選ぶ』という機能が、そもそも私には実装されていないのだ。
この巨大な券売機は、私という存在がいかに中身のない、空っぽのショーケースであるかを容赦なく突きつけてくる拷問器具だった。
私は逃げるように学食を飛び出した。
潮風の吹き抜ける中庭のベンチに座り、震える手で持参したミネラルウォーターの蓋を開ける。生ぬるい水を喉に流し込みながら、私は自分の胃袋が、どうしようもなく空洞であることを自覚していた。
早く家に帰りたい。
帰って、母の用意した冷たくて正しい食事を摂りたい。
そして、私を再び、あの完璧で息苦しいマス目の中に固定してほしかった。
【本日の水質記録】
• 濁度: 0%
• 状態: 栄養素の供給停止。外部環境からの強い圧迫により、水温が低下。ひどく酸素が薄い。




