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恋する金魚は愛で濁った水を啜る  作者: 疾患乙女α


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3/10

【Day2】

 海へ抜けるなだらかな坂道を登りきると、キャンパスを囲む重厚な赤レンガの門が見えてくる。

 歴史ある洋館を模した校舎の群れは、潮風を含んだ湿った空気に沈み込み、どこかよそよそしい威圧感を放っていた。

 昼休みのチャイムが鳴ると同時に、私はひどい眩暈に襲われた。

 講義室から吐き出された何百人もの学生たちが、一斉に巨大な学食へと流れ込んでいく。彼らの靴音がタイルを叩く音、入り乱れる笑い声、そして、換気扇から絶え間なく吐き出される、安い揚げ油と煮詰まった醤油の暴力的な匂い。

 そのすべてが、無菌室で育った私の粘膜を容赦なく刺激した。

 学食の入り口に鎮座する巨大な券売機の前で、私はもう十分以上立ち尽くしていた。

「次、いいですか?」

 後ろに並んだ男子学生の苛立った声に、私は弾かれたように列を外れ、券売機の横に逃げ込んだ。心臓が肋骨を突き破りそうなほど脈打っている。額には冷たい汗が滲んでいた。

 光るアクリル板の向こうには、百を超えるプラスチックのボタンが並んでいる。

『カツカレー』『醤油ラーメン』『日替わり定食A』。

 赤、黄、青と色分けされたそれらのボタンは、私に向かって「さあ、自分の意志で選べ」と強要してくる。

 母が管理する実家の食卓には、常に完璧な比率で計算された食事が並んでいた。

 百五十グラムに計量された白米、八十グラムの良質なタンパク質、彩りとビタミンを補うための有機野菜の小鉢。それは食事というよりも、私の身体という精巧な機械を維持するための、正しい『部品』の供給だった。

「あなたはこの栄養素を、この順番で摂取しなさい」

 母の指示通りに箸を動かせば、私は常に完璧なマス目の中にいられた。そこに私の『これが食べたい』という意志(ノイズ)が入り込む余地は一ミリもなかったし、必要もなかったのだ。

 けれど、ここには母がいない。

 誰も私に、どのボタンを押せば『正解』のマス目に収まるのかを教えてくれない。

 もし私が、あの脂ぎった唐揚げ定食のボタンを押してしまったら?

 それは母の構築した完璧な比率を破壊する『エラー』だ。一口でも胃に流し込めば、私は私でなくなってしまうような気がした。では、うどんなら正しいのか? サラダボウルなら許されるのか?


 わからない。


どう計算しても、母のマス目に完璧に合致するメニューが、この百個のボタンの中には見当たらない。

「あ、ごめん。通して」

 横を通り抜けようとした女子学生のトートバッグが、私の肩にぶつかった。

 その衝撃で、母が今朝一時間かけてアイロンを当ててくれた純白のブラウスに、見えない皺が寄った気がした。

 ひっ、と短い息が漏れる。

 崩れていく。私が、私の形を保てなくなる。

『自分の意志で何かを選ぶ』という機能が、そもそも私には実装されていないのだ。

 この巨大な券売機は、私という存在がいかに中身のない、空っぽのショーケースであるかを容赦なく突きつけてくる拷問器具だった。

 私は逃げるように学食を飛び出した。

 潮風の吹き抜ける中庭のベンチに座り、震える手で持参したミネラルウォーターの蓋を開ける。生ぬるい水を喉に流し込みながら、私は自分の胃袋が、どうしようもなく空洞であることを自覚していた。

 早く家に帰りたい。


 帰って、母の用意した冷たくて正しい食事を摂りたい。

 そして、私を再び、あの完璧で息苦しいマス目の中に固定してほしかった。


【本日の水質記録】

 • 濁度: 0%

 • 状態: 栄養素の供給停止。外部環境からの強い圧迫により、水温が低下。ひどく酸素が薄い。

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