【Day11】
木曜日の夜。入浴を終えた私は、リビングの鏡台の前に座っていた。
背後には母が立ち、特注の豚毛のブラシで私の長い黒髪を丹念に梳かしている。
「……大学には、随分と下品な色をした学生が多いでしょう」
一定のリズムでブラシを下ろしながら、母は冷ややかな声で言った。
「あなたが染まる必要はないのよ。泥水の中に咲く蓮のように、あなたはただ、あなたの完璧な純白を保っていればいいの」
泥水。
その単語を聞いた瞬間、私の背筋にゾクッと甘い電流が走った。
母は何も知らない。私がすでに、その泥水の一滴を自ら飲み込んでしまったことを。そして、そのチープな甘さに飢え、喉から手が出るほど渇望していることを。
「はい、お母さん」
鏡越しに、私は完璧な『従順な娘』の微笑みを作ってみせた。
自室に戻り、重厚なマホガニーの扉を閉める。
鍵をかけることは許されていない。母はいつでも、ノックなしにこの部屋へ入り、私の空間を検閲する権利を持っているからだ。
私は足音を忍ばせてクローゼットを開け、一番奥にしまってある冬物のコートのポケットに手を入れた。
カサ、と小さな音がして、指先が冷たいアルミの感触に触れる。
ハンカチに包んで大切に隠してある、あの百二十円のミルクティーの空き缶だ。
母がこの部屋のすべてを把握しているからこそ、隠し場所には細心の注意を払わなければならなかった。もしこの空き缶が見つかれば、私は二度と大学へ通うことを許されず、本当の無菌室に幽閉されるだろう。
それは絶対的な恐怖であると同時に、私の内側をドロドロに溶かすような、初めて味わう『背徳の悦び』でもあった。
私はベッドの隅にうずくまり、両手で空き缶を包み込むように握りしめた。
目を閉じると、周防さんの気怠げな声と、あのざらついた紫煙の匂いが鮮明に蘇ってくる。
(ああ……)
母の絹のようなブラッシングは、私の髪を一本の乱れもなく美しく整えてくれる。けれど、今の私が本当に欲しているのは、そんな冷たくて正しい手入れじゃない。
私の前髪を乱暴に掻き回し、完璧な比率をめちゃくちゃに壊してくれた、あの熱くて無作法な手だ。
月曜日と火曜日に彼に会ってから、もう丸二日もあの匂いを嗅いでいない。
体内から急速に周防さんの成分が抜け落ちていくような焦燥感。息が浅くなる。私は震える手で、空き缶の冷たい飲み口にそっと自分の唇を押し当てた。
もう一滴の泥水も残っていない、無機質なアルミの匂いだけが微かに鼻腔を掠める。
明日。明日、あの裏庭に行けば、また彼に会えるだろうか。
会いたい。早く会って、この狂おしい乾きを、あの泥水で満たしてほしい。
私は薄汚れた空き缶を胸に抱きしめたまま、静かに、深く息を吐き出した。
完璧な白鳥の剥製は、その空っぽの腹の中に、たった一つの汚いゴミを宝物のように隠し持っている。
その事実だけが、今の私を繋ぎ止めるたった一つの『自我』だった。
【本日の水質記録】
濁度: 4%
状態: 禁断症状の悪化。自己の内面に意図的な「秘匿空間(汚れ)」を形成。管理者(母)に対する明確な欺瞞が成立し、内面的な濁りが微増。




