【Day10】
水曜日。午前の講義が終わると同時に、私は早足でキャンパスを抜け、裏庭へと向かっていた。
(あの匂い。あの甘い毒……)
昨日の夜は、一睡もできなかった。
ベッドの中で目を閉じても、舌の奥にはチープな砂糖の痺れが残り、鼻腔にはざらついた紫煙の匂いがこびりついて離れなかった。母が焚いた高級なアロマの香りが、ひどく薄っぺらで退屈なものに思えて仕方がなかったのだ。
足早に裏庭の隅へ向かい、生垣を抜ける。
しかし、昨日彼が座っていた古びたベンチには、誰もいなかった。
「……あ、」
つま先から急激に温度が奪われていくような感覚に襲われ、私は立ち尽くした。
いない。周防さんが、いない。
よく考えれば当たり前のことだ。
ここは彼の指定席でもなければ、彼と待ち合わせの約束をしたわけでもない。
彼だって講義に出るだろうし、大学以外の生活がある。
頭では理解しているのに、私の身体は激しいパニックを起こしていた。
彼がいない。彼が私に、新しい『命令』を下してくれない。
途端に、キャンパスの喧騒が再び私を押しつぶす暴力的なノイズとなって迫ってくる。母の引いた見えないマス目が、容赦なく私の首を締め上げ始めた。
苦しい。また息ができなくなる。
私はふらつく足でベンチに歩み寄り、昨日彼が座っていた場所にそっと腰を下ろした。
(落ち着きなさい、朱里。背筋を伸ばして、呼吸を整えて……)
母の教えを脳内で反芻しながら、私は震える手で自分の革鞄を開けた。
そして、母の定めた完璧な教科書やノートの奥深くに隠してある、ハンカチに包まれた硬いものにそっと指先を触れる。
――昨日、彼が私に投げ渡した、ミルクティーの空き缶。
家に帰る前にトイレで中身を洗い流し、誰にも見つからないように鞄の底に忍ばせていたのだ。
冷たいアルミの感触を指の腹で撫でる。
そこにはもう、あのひどく甘い泥水は入っていない。けれど、これを握っている間だけは、
私の内側に「周防さん」という確かな重みが存在するような気がした。
ふと、足元のコンクリートに目を落とす。
そこには、昨日彼が靴の裏で揉み消した、一本の煙草の吸い殻が転がっていた。
誰かが捨てた、ただの汚いゴミ。
母が見たら悲鳴を上げて目を逸らすような不浄なもの。
私は無意識のうちに鞄からスマートフォンを取り出すと、
その吸い殻にカメラを向け、シャッターを切っていた。
『カシャッ』という乾いた音が、裏庭に響く。
写真フォルダの一番上に保存された、薄汚れた煙草の吸い殻の画像。
それは、私だけが知っている彼の痕跡だった。
私はベンチに座ったまま、その画像を画面に映し出し、狂ったように見つめ続けた。
背筋は曲がり、膝は開き、母が定めた美しい姿勢は完全に崩れている。今の私は、親の作品としては最低の欠陥品だ。
でも、構わない。この画像の奥から微かに漂ってくる(ような気がする)彼のタバコの匂いだけが、今の私を繋ぎ止める唯一の酸素だったから。
会いたい。
早く彼に会って、私をめちゃくちゃに汚して、新しいマス目に閉じ込めてほしい。
無菌の箱の中で、金魚は水槽のガラスに顔を押し付けながら、外の濁った水をひたすらに渇望していた。
【本日の水質記録】
濁度: 3%(維持)
状態: 汚染源との接触なし。強度の禁断症状を発症。外部環境(母のルール)よりも、汚染源の痕跡への執着が上回り始める。




