第8話 シラムの夏
六月になってノンノ(クロユリの根)が取れる。「大地の米」とも呼べる重要な炭水化物源だ。ニヴフ伝統のあく抜きをして、鍋で蒸し上げ、十三湊から持ち込んだ「豆板」や干し味噌と和えて、少し炙ってみた。味噌の塩気と百合根の甘みが混ざり合い、故郷の風味が口いっぱいに広がる。
数に限りがある味噌を、トグルやチュフ、ナズ達に振る舞った。
「何これ! ノンノを炙ったの?」
ナズが満面の笑顔だ。チュフもトグルも同じく笑顔だった。
ここで味噌が作れればいいが、大豆が取れないので無理だ。せめて塩だけでも——と思い、密かに計画している。その手助けをトグルに頼むと、
「ナズを嫁に貰って覚えさせろ」
と言った。覚悟はしていた。しかし、名前が出た瞬間、浜の声が耳に戻ってくる。
(カスク、また来い)
出航の朝、ナズが叫んだあの声だ。嫌ではない。ただ、自分でも決めかねていることがある——俺はここに根を張ろうとしているのか、橋を架けようとしているのか。その答えが出ていないまま、誰かの人生を引き受けるのはどうか、という迷いだった。
「酒作りは、一人では手が足らぬ」
と、答えをはぐらかすように言うと、トグルは煙管を置いて、
「シラムよ。お前は外から来た人だ。我らの様に氏族の縛りが無い。嫁の相手なら、ナズのはるか北のシュミ(オハ付近)の氏族を除いて、儂が探しておく。それとは別に、酒作りの手が要るなら、ナズの弟のヴィズ(風)を預ける」
と言う。彼らにとって結婚は個人の自由ではなく、一族の絆を維持するための義務と契約に近いものだ。誰が来るか分からないが、ここイドイー村で事業を進めるには、地元の人手がいる。
答えを保留したまま、俺は頭を下げた。
―――
翌日、鉄次の様子を見に行った。メルは真面目に仕事をこなし、コルも真剣だ。ここ数ヶ月で言葉も覚え、鍛冶仕事の基本は日ノ本の言葉で身につけた様だ。
「若、基本的な事はメルは覚えました。コルはもう少しだな、下準備はできるぞ! 最近は村人の刃物の砥ぎや刃の調整の依頼があります。……それと若、儂、この年になって……」
「あー、村長のトグルから聞いている。目出度い事だ。これでイドイー村の一員として認められる。良い事と思うぞ」
「お恥ずかしい限りで」
「来月、石炭やピート、土瀝青、春に取れた毛皮、ウィルタ(オロッコ)から仕入れたトナカイの製品(毛皮、角)、毛皮獣(クロテン、キツネなど)——これを十三湊まで運ぶ。鉄次、お前はどうする?」
「若、しばらくここにいます。……後、酒は欲しいですけど、後、鉄も」
「鉄は酒のあとか! まぁ、仕方がない。武器は狩にも使うから頼むぞ」
「へい、分かりました」
翌月、船は二隻で出ることになった。往復で四か月はかかるだろう。欲しい物を書いて渡しておいた。今回もチュフ達が同行する。俺は残り、数名の人員の入れ替えを行うことにした。
―――
出航の朝、浜は静かだった。
チュフが荷を確かめ、振り返らずに船へ乗り込む。
波が靴先に触れた。
十三湊から戻ってきたあの春、チュフは同じように振り返らずに乗り込んだ。あの時は俺が船にいて、チュフの背中を見送った。今日は逆だ。チュフが海へ向かい、俺がここに留まる。どちらが正しいということはない——ただ、橋というのは両端に人がいなければ、橋にならない。
「チュフ」
声をかけると、船の上からチュフが少し顔を向けた。言葉はない。それだけで十分だった。
船が沖へ出るのを、ナズが隣で見ていた。しばらくして、
「チュフは、戻るか」
と聞いてきた。当たり前のことを聞く、と思ったが、ナズの目は海を向いたままだった。兄のことを聞いているのか、それとも自分に言い聞かせているのか、分からなかった。
「戻る」
それだけ答えた。
懐のイナウに手が触れた。チュフが作ったあの小さな木幣は、今日も温かかった。
夏。七月から八月は、交易と祭りの季節である。 一年で最も活気にあふれる、短い「黄金の季節」だ。
十三湊から五郎太たちが操る準構造船が到着した。ルィヴンの浜には、米や酒、鉄鍋が並び、代わりにアザラシの毛皮や大陸の製品が積み込まれていく。
「途中で、先月出した船と擦れ違いましたぞ」
と五郎太が報告してきた。順調なら、来月にはあちらが戻ってくる頃合いだ。
船からチュフが降りてきた。
「鉄を持ってきた」
それだけ言って、荷を運び始めた。六月に送り出した時と同じ背中だった。ナズが浜の端でそれを見ていた。何も言わなかったが、肩の力がわずかに抜けるのが分かった。
ニヴフの村長トグルと、父の名代である由利源兵衛との間で、アムール川流域の情勢——特に元の軍勢の動きについて、重要な会談が持たれた。
頭の中があっさりと解説する。 ――今、モンゴル軍はこの地について、毛皮の産地という以上の価値を感じていない。降伏した直後の段階では、まだ現地に強力な統治機構が置かれているわけではなく、主にアムール川下流域の部族単位で、クロテンなどの毛皮を納める約束が交わされた。実態は形式的な主従関係が中心であり、官吏が常駐して厳密に管理するというよりは、定期的に使節を送って貢納させる「辺境の朝貢」に近い形である。
(このまま、緩い朝貢を続けさせる)
俺の野望はそこにある。アイヌの脅威は、自分たちの手で撥ね退ける。そのためには武力を身につけ、必要以上にモンゴルの支援を受けないこと。大陸からの輸入の担い手となり、それによって安東家を富ませ、いざというときに支援できる体勢を整える。
俺は構想を文に起こし、由利源兵衛に託した。あわせて、武芸者の派遣を父に願い出た。これは、ニヴフのためと言うよりも、まずは自分自身のための備えである。
―――
村ではホロムイイチゴの収穫が始まっていた。湿原全体がオレンジ色に染まり、甘い香りが風に乗って漂ってくる。俺は、ヴィズやナズと共にベリーを摘み、秋の交易に向けた保存食の支度を進めていく。
並行して、鍛冶場の隣に酒造り用の小屋を建てている最中だった。由利源兵衛が運んできた荷の中には、十三湊の鋳物師・猪目が仕上げてくれたペチカの部品——焚き口、通気口の蓋、グレート、ゲートバルブ——が二組、しっかりと収められていた。
これを自宅と、酒小屋のペチカに使う。鋳物の珍しさに、村長のトグルは興味深げに、いつまでも撫で回している。鋳物については、事前に大まかなところは伝えてあった。
「この鋳物で、新しいペチカの試作をする。上手くいけば、他の家でも取り入れを検討してほしい」
「例の、燃える石が使えるようになるという、あのペチカか?」
「それもある。風の流れを調整できるから、長い時間焚けるのだ。石炭を併用すればなおさらだが、薪だけでも十分に効果はある」
「ほう。それは、面白い」
出来上がった小屋で、早速試運転に入った。手順通りに焚き口へ火を入れ、通気口で煙を誘導する。火が安定したところで、温度をゆっくりと上げていく。詰まりも逆流もなく、すんなりと運転できた。
イドイーの夏は、最高でも気温が二十度ほどしかない。夜から朝にかけては冷え込む。だから体の弱い者や、子供、老人には暖が要るのだ。
―――
ヴィズやナズと大量に集めたホロムイイチゴで、いよいよ酒造りの稽古を始める。
菌を扱うので、まずは手をしっかりと洗わせる。煮炊きした米と米麹、そして潰したホロムイイチゴを、木桶へ順に入れていく。あとは炉端の暖かい場所に置き、数日間、じっと発酵を待つだけだ。
(ホロムイイチゴの酸が、雑菌の繁殖を抑える助けになる)
雑菌を抑え込むには、最低でも度数八%は欲しい。だがこのやり方ならば、九%を超えていくはずだ——現代のビールよりも強く、ワインよりは少し弱いといったところ。
翌日、桶の蓋をヴィズが開けた。
「この匂い、昨日と違う」
まだ発酵の途中だが、変化に気づいている。すぐに口に出す性分だが、鼻の感覚は確かなようだ、とひそかに思った。
数日後、桶の蓋を開けると、琥珀色——ホロムイイチゴの色を映した琥珀だ——の混じった、甘酸っぱく芳醇な酒が出来上がっていた。果実の酸味が強いため、度数を上げすぎるとどうしても味のバランスが崩れる。米の甘みを残した「甘酸っぱい中程度の酒」という落としどころが、結局のところ最も現実的だった。
今回、特に真剣だった姉のナズが、ほっと胸を撫で下ろしている。早速、試飲のためにトグルを呼んだ。
「前のコケモモの酒より、米麹を使った分、若干強いと思う」
「ほう……これは、これで良い酒だ」
トグルは木杯を口元から離さない。
「今回でナズとヴィズは仕込みを覚えた。次からは二人だけで仕込めるはずだ」
「俺はまだ無理だー!」
弟のヴィズが情けない声を上げると、ナズに横から叱られていた。微笑ましい光景である。
「これは、神に捧げるに相応しい酒だ」
トグルが静かに称えてくれた。
(地元の材料で、地元の民が作った酒だ)
俺もそう思う。この民の神も喜んでくれるだろう。
出来た酒は、神との仲立ちとなるシャーマニズムの儀礼「カチャ」に用いられる。カン(意味、針)と呼ばれる巫女が、この酒を使って神の声を聴くのだ。ここのカンは五十代の女性で、十年ほど前に選ばれたのだと教えてもらった。甘い物に目が無い、気のいいおばさんだ。




