第7話 シラムの春
建長四年(1252年)四月、我らはルィヴン(北樺太)のイドイーに戻ってきた。
「もうじき到着だ」とチュフが言う。すると、海の中にそそり立つ「三本岩」が見えてきた。荒波を越えるたびに、俺はこの岩が好きになっている。変わらずそこにある、それだけで十分な気がした。
ほどなく、霞の向こうに村がぼんやりと浮かびあがる。
「おーい、戻ったぞーっ!」
チュフが声を上げると、浜から人影が動き始めた。見覚えのある村人がチラホラと見える。その中心に村長のトグルが立っていた。
無事に帰還した我らを、皆が浜まで出て迎えてくれた。船を引き上げる手も惜しまず、大歓喜の出迎えだ。チュフ達は荒波を乗り越えて戻った英雄として迎えられ、俺達もそれに準じた扱いとなった。
浜の喧噪の中、ナズが駆け寄ってきた。
「カスク。また来たな」
出航の朝と同じ顔で言う。ただ、今回は少し胸を張っていた。
―――
荷下ろしを進めた。タカ(食料貯蔵庫)には麦や米、酒といった食料品を収めるが、それでもかなりの量になる。分けて収めるため、村長のトグルが「新しいタカを作る」と言い出し、村ではさっそく作業が始まった。このタカが、いずれ安東家の出店になるはずだ。
俺はまず、トグルから預かった村の持ち物と、安東家が用意した品との交換を始めることにした。斧、つるはし、鍬、のこぎり、短刀・刀・槍、米、麦、塩、鉄鍋、漆器、陶磁器、絹織物。最後は酒である。これらは前回預かった分と随時交換すると伝えてある。
「預かった物が、沢山の品と交換できた。村に分配するから、少し待ってくれ」
紙に記入した人と物を代金に換算し、それに準ずる表をもとに村人が欲しい物と交換する。鉄次の作る工具や刃物、修理代に準じる形にしているが、村人限定でかなり割り引いている。この村に対しての、税金のようなものだ。
俺はトグルに、近くで取れる石炭やピートの採掘を交渉した。
「ピート(泥炭)と燃える石(石炭)が欲しい」
地下資源を掘り出して船で運ぶ許しを願い出ると、
「勝手に持って良い」
と言う。だがあえて、何かと交換することを提案した。
「村人の労力も借りる時があるはずだから」と言ったら、
「その時は頼む」
と落ち着いた。
石炭はいずれ冬場の暖房に役立つはずだし、鍛冶には今からでも役に立つ。そう伝えると、トグルは首を振った。
「黒い石は地の底の毒を含んでいる。家の中で焚けば、二度と朝日は拝めないぞ!」
使い方によって変わるが、今はその様な使い方はしないと伝え、鍛冶の仕事には使えることを説明した。そして俺は、鉄次をトグルに紹介した。
「この者は『てつじ』という鍛冶屋だ。村で鍛冶を覚えたい者がいれば、この者が教える」
「なんと、その様な技を我らに!」
トグルが大声を上げた。
「鉄は我らが用意しよう。この鉄次はその為に連れてきたのだから」
「それは有り難い。では皆に声を掛けよう」
早速、トグルは村人を集めて話を始めた。
―――
十三湊では約半年の期間で素焼きのレンガを作り、ペチカを作る予定だったが、時間が足りず図面を残してここに帰ってきた。猪目に頼んだペチカの焚き口、通気口の蓋、グレート、ゲートバルブなどが完成すれば製作できる。それは次回帰った時に考えよう。
次の日、鍛冶屋の募集にトグルが希望者を連れて現れた。姉のメル(ゆり根)十六歳、弟のコル(鮭)十三歳。両親を亡くしており、村長が勧めたようだ。
名前を聞いた瞬間、鉄次が俺の顔を見た。
「コル——鮭、か。若、不思議なもんだな」
チュフの名は「火」を意味する。そのチュフが「火」と命名した蒸留酒を積んで、俺たちはここへ戻ってきた。そして鍛冶の弟子の名が「鮭」で、鍛冶に使う炎を扱う。言葉は違っても、この土地には火の縁が流れている気がした。
鉄次はまだニヴフの言葉が分からないが、
「言葉で覚えるものじゃ無いから、何とかなるだろう」
と楽観的だ。初めは俺もついて基本的な補助をしたが、それを見守るトグルは、
「道具や武器を、我ら自ら手入れや生産が出来れば、この村の力になる」
と頷いていた。メルとコルが技を覚え、次の者に伝えることができれば、ニヴフは発展できる——俺もそう思う。
トグルから「禁忌」についても教えてもらった。火に唾を吐く、火を跨ぐ、祈りなしに炉の中で刃物を焼く——いずれも一族に災いをもたらす最大の禁忌だという。鉄次に伝えると、
「十三湊でも鍛冶をするときは、神棚に祈って仕事する。ここでも同じなんだな」
と感心していた。
十三湊では鍛冶に炭を使っていたが、ここルィヴンでは炭を作る習慣がない。そこで石炭を炭代わりに使うことにした。
「若、これは炭並! いや、炭以上の熱が出ますなー……」
「そーだな。ここは鉄は取れないが、こういう物が近くに沢山転がっている。薪を沢山用意しなくても長く燃えて、しかも熱い。使い方で大化けするぞ」
メルとコルは、石炭がこんなに燃えるのを初めて見て目を丸くしていた。家の中では使わないようにとトグルが言っていたことを、二人にも伝えておく。下手に使って中毒で死んでしまうのは敵わない。石炭に関しては、熟練の鉄次が工夫して使うだろう。
―――
春の四月から六月は、目覚めと移動の季節だ。氷が解け、大陸(アムール川下流)からの風が吹き始め、流氷の去り際の時季である。沖合の流氷が消えると、アザラシやトドの猟が最盛期を迎える。皮は袋に、肉は食料に、脂は燃料や防腐剤になる。安東家から派遣された者も数名、手伝いとして猟に参加していた。
俺も数回見学したが、凄まじかった。自然の猛威と人間の知恵がぶつかり合う、静寂と熱狂が入り混じった光景だった。
アザラシは氷の上に這い上がって休息や出産をする。猟師はその皮を被るか白い布を身に纏い、氷の色に溶け込む。息を殺し、指先ひとつ動かすのにも時間をかけ、数十分、時には数時間かけて這い進んでいく。
氷が擦れ合う「ギギギ」という音だけが響く中、アザラシがふと顔を上げればピタリと止まり、石のように動かなくなる。
十分に近づくと、木製の柄に鋭い鉄や骨の返しがついた回転式離脱銛を打ち込む。命中した瞬間、アザラシは水中に逃げ込むが、銛先は皮下に残り、長い綱で猟師の手元と繋がっている。
「ドパァン!」
水しぶきが上がり、綱が猛烈な勢いで引き出される。猟師は氷の角に綱を引っ掛けて耐えるのだ。赤く染まった海水が白い氷に飛び散り、生命のやり取りが視覚的に刻まれていく。
アザラシが水中に消える瞬間、綱が張り詰める音の中で、ふと思った。
(名前を、聞いていなかった)
延暦寺へ向かう船が嵐に飲まれた夜、波にのまれた供の者のことだ。命が水の下へ引かれていくという光景が、何かを引き連れてくるのだろう。猟師が綱を手繰り寄せるのを、黙って見ていた。
この地において、アザラシやトドは単なる獲物ではない。毛皮、食用肉、そして冬を越すための燃料(脂肪灯火用)をもたらす、神からの贈り物として深い敬意を持って扱われる。一つも無駄にしない。
毛皮に関しては、他の村からも仕入れることをトグルに伝え、主に酒と刃物で交換する後押しをお願いしている。沿岸中心のニヴフとは生活圏の違うウィルタ(バイカル型のツングース系、日本では「オロッコ」)——内陸をトナカイを追って移動する部族との交流も図りたい。トナカイの製品(毛皮、肉、角)や毛皮獣(クロテン、キツネなど)と交換できれば、取引の幅が広がる。
―――
この時期、村中で山菜採りが始まる。雪解けとともにギョウジャニンニク(プクサ)が芽吹き、冬の間に不足した栄養を補うため、皆が採集に励む。ウド、タラノメ……特にタラの芽を見た時、急に天ぷらを思い出した。
指先が動きかけて、止まった。
油がない。それだけのことで、あの味は消える。十三湊でも、ルィヴンでも、作れない。頭の中で工程を辿りかけたが、途中で手が動かなくなった。
(この土地にあるもので、作れるものを作る)
源蔵の声が頭をよぎった。「安東のやり方ということになりますな」——あの時、書物の端へ「米麹にて代用可」と書き込んだことを思い出した。本式を手放した瞬間に、何かが始まったのだ。
タラの芽は、今年は別の食べ方を考えよう。来年も春は来る。
竪穴住居から風通しの良い高床式の小屋へと移った。
―――
数ヶ月が過ぎた頃、村長のトグルから呼ばれた。
「カスクよ。お前は村に貢献した。お前は父から大人として新しい名前(時季)をもらったと聞いた。我らもお前に大人の名前を与える——シラム(意味:時する者)だ」
しばらく、言葉が出なかった。
カスクと呼ばれた夜のことを思い出した。船が壊れ、言葉も通じず、積み荷の全てを差し出して受け入れを乞うた、あの冬の夜だ。何者でもなかった俺に、トグルが与えた最初の名前。あの夜、俺は犬の子だった。それから一年半が過ぎて、今度は「時する者」をもらった。
何者に向かっているのか、まだ分からない。ただ、間違いなく動いている。
「ありがとう」
それだけ言うと、トグルは頷いて煙管に火をつけた。
俺はシラムになった。木の板にカタカナで「シラム」と書いて家の前に置いた。すると皆が「名前を書いてくれ」と頼んでくる。約八十人ほどの名前を書くことになった。子供から老人まで、木の板を大事に抱えて、笑顔で喜んでくれた。




