第6話 北の誓い酒
ウイスキーの仕込みは四つの工程に分かれる。
源蔵が書物を広げ、俺の言葉を指でなぞりながら聞いている。鉄次が横から覗き込んで、「難しい話だな」と漏らした。難しくはない。ただ、順番を間違えなければいい。
一、原料の処理。麦を蒸して麹菌を植え付け、麦麹を作る。乾燥の火種には持参したピート(泥炭)を使う。この煙が麦にまとわりつき、独特のスモーキーな香りが定着する。
(日本の麹の技術で糖化し、北の泥炭の煙で香りをつける――)
ここで源蔵が顔を上げた。
「若様、一つ聞いてもよろしいですか」
「何だ」
「麦から麹を作る、とございますが……麹ならうちに米麹がございます。米麹で麦を糖化できれば、この麦麹を作る工程は省けるのではないかと」
俺は手を止めた。
(米麹で麦を……)
頭の中のレシピが本式から離れていく感覚があった。麦麹を使うのはスコットランドの製法だ。だがここは十三湊であり、蔵元が日常的に扱うのは米麹だ。米麹の酵素力は高い。麦のデンプンを糖化できないわけがない。
「……試す価値はある。麦を蒸して、米麹を混ぜて糖化させる。やったことはあるか」
「米麦混ぜての仕込みは聞いたことがありませんが、米麹で芋を糖化させる蔵は聞いたことがあります。理屈は同じかと」
「その方が手間が一つ減る。北から持ち帰ったピートは乾燥用に使えばいい」
源蔵がわずかに目を細めた。
「つまり……麦を乾燥させる際にピートの煙を当てて、糖化には米麹を使う。大陸の技法とも、今の酒の造り方とも違う」
「そうなる」
「それは……安東のやり方、ということになりますな」
俺は少し考えてから答えた。
「そうかもしれない」
(本式にこだわる必要はない。この土地の道具と人間でできる酒を造ればいい。それが結果として別の何かになるなら、それで構わない)
書物の一に、細い字で書き加えた。「米麹にて代用可」。
二、仕込み。乾燥させた麦に米麹と水を合わせ、大桶に仕込んで発酵させる。この段階では酸味の強い、ビールに近いどぶろくのような状態だ。
「これは飲めるのですか?」と源蔵が聞いた。
「飲める。ただし旨くはない。これはあくまで蒸留前の仕込みだ」
三、蒸留。大釜の上に底を抜いた木桶を載せ、一番上に冷水を張った青銅の鍋を置く。釜の下でピートを燃やして加熱すれば、麦の香りとピートの煙の粒子がアルコールとともに蒸発する。天面の冷たい鍋底で冷やされた蒸気が滴となり、桶の中に吊るした陶器の皿に溜まる。これが原酒だ。
「つまり……湯気を冷やして、酒だけを取り出すわけですか」
「そういうことだ」
四、熟成。樽が完成したら中で寝かせる。それまでは備前焼や常滑焼の壺に、火で炙ったミズナラの枝を直接投入して代用する。数年経てば、ピートの煙の香りとミズナラ由来の伽羅のようなオリエンタルな薫りが混ざり合い、度数の高い琥珀色の酒が完成する。
なんせ頭に入っているレシピだ。失敗はない。
「これは出来立てでも売れるのでしょうか?」と源蔵が聞いた。
「若くても飲める。今は水のように無色だが、大陸では焼酎と呼ばれて流通している。ただ、寝かせるほど高く売れる。最低三年、できれば十年だ。今回は試作だから売ってはならん。樽の分の酒代と手間賃は払う」
「ありがとうございます。目処が立ったら販売するのですか?」
「そうだな。他の蔵元も誘って販売すると思う。その時は不知火の源蔵が頭となって指導を頼む。五年か十年先になるが、専用の酒蔵になるはずだ。それと――まだ先の話だが、父と相談の上で、販売に際して年貢の仕組みも考えている」
「へい、分かりました」
源蔵の目の色が変わっていた。最初の「忙しいところだ」という仏頂面は、もうどこにもない。
(職人というのは、自分が知らない世界を見せてやると、こういう顔をする)
――
鉄次には次の指示を出した。鉄を大量に仕入れること、刃物を数多く作ること。特に斧、つるはし、鍬、のこぎり、それから短刀・刀・槍。春までの課題とした。
米、酒、塩、鉄鍋、漆器、陶磁器、絹織物については、買い求める方向で調整している。不知火の源蔵から酒麹を仕入れるのは最後になる予定だ。
やることは山積みだ。しかし、延暦寺に送られるはずだった十一の俺が、北の果てを生き延びて十三湊に戻ってきた。それを思えば、準備の手間など苦でもなかった。
――
数ヶ月が経った。
購入した二石釜に合わせて中間の桶が完成した。猪目は鉄の箍をすんなり仕上げ、冷却鍋はもう少しかかるという。樽は反り目の安吉が今も奮闘中だ。そんな折、父から呼び出しを受けた。
「話は聞いている。酒が成功すれば、この地から新たな産業を生み出せる。期待しているぞ。それと、石炭――あれは使えるかもしれん」
父は少し間を置いた。
「最後に、千代丸。今月、元服の儀を執り行う」
「ははーっ、謹んでお受けいたします」
こうして俺は千代丸から時季となった。兄の阿久丸も盛季となり、外から兄を支える立場になる。元服を終えて部屋に戻る俺を見て、由利源兵衛がぽつりと言った。
「……よく生きて戻られましたな、若様」
俺は答えなかった。答える言葉が見当たらなかった。
――
元服から間もない頃、猪目から冷却鍋の完成の報が届き、初の蒸留実験を行った。
源蔵が火の加減を見ながら釜を温めている。鉄次が腕を組んで見守り、安吉が「本当に滴が出るのか」と身を乗り出している。その隅に、チュフが壁際で静かに腕を組んで立っていた。
最初の一滴が陶器の皿に落ちた。次の一滴、また次の一滴。やがて細い流れになる頃には、全員が息を呑んでいた。
初回は保存用の常滑焼の壺が五個ほど取れた。四個には火で炙ったミズナラの枝を入れて保存に回し、残りの一個を源蔵、猪目、鉄次、勘兵衛、安吉、そして俺の、それぞれの杯に注いだ。
全員が口を揃えた。
「うぉっ、これは!」
透明な液体に、皆が目を丸くした。ほんのり煙臭い、しかし鋭く喉を抜けるその感触は、この場にいる全員にとって初めての体験だった。
「これだけでも欲しいという奴は出るな」と猪目が言い、皆が頷いた。
「これを樽で寝かせると、もっと旨くなるのか?」と反り目の安吉が目を輝かせた。
「ああ。今は荒々しい。だが寝かせると、角が取れて深みが出る。色もついてくる」
安吉はしばらく杯を眺めた。それから静かに言った。
「……ならば、俺の樽に入れてみたい」
その一言が、この場で一番嬉しかった。
由利源兵衛はといえば、一口含んだ途端に目を白黒させ、「こ、これは……強すぎる」と小声で呻いて杯を膝の上に置いた。体は正直なものだと思った。
壁際のチュフへ目を向けると、彼はまだ杯を持ったまま動いていなかった。口をつけてから、ずいぶん長い時間が経っている。
「どうだ」
チュフはゆっくりと俺を見た。
「……火だ」
それだけだった。「太陽の血」と名付けた男が、今度は蒸留酒に「火」という言葉を当てた。チュフの名はニヴフの言葉で火を意味する。本人がそれを意識していたかどうかは分からない。しかし俺には、この男がまた物事の核心を一言で射抜いたように聞こえた。
なかなかの好評だった。蔵元の源蔵は手応えと自信を得た様子で、盃を置く手がしばらく動かなかった。俺は原酒を父のもとへ持参し、試飲してもらった。
「ん……これは」
父も同じように、盃の前でしばし黙った。
それだけで十分だった。
――
約半年が過ぎ、我らは二隻でルィヴン(北樺太)へ向かう日を迎えた。チュフたちも日ノ本の習慣や言葉に慣れ親しんだが、今日は故郷へ帰る船に乗る日だ。
波止場に立ち、北の風を胸に受けながら、俺はふと思った。
(寺でスローライフを送るつもりだったはずが、こんな場所で、こんな酒を作っている)
出港の合図が鳴った。チュフが振り返らずに船に乗り込む。その大きな背中に向けて、俺は一言だけ言った。
「また来る」
チュフは振り返らなかった。しかし、肩がわずかに動いた。
隣で由利源兵衛が小声で言った。
「若様……いや、時季様。またあの寒い所へ」
「寒いぞ」
源兵衛が少し困った顔をして、それから黙って頷いた。
寺で静かに歳を重ねるはずだった人生が、気づけばこんな形になっている。
それも、悪くない。
―――
※地名表記について 舞台は13世紀ですが、位置関係の分かりやすさを優先し、本文中では現代の呼称を便宜的に採用しています。
※「二石釜」について 「石」という体積の単位が明確に定着するのは、この時代よりも少し後のことになります。




