第5話 北の土産
一年ぶりに降り立った十三湊で、俺の周りは当然、騒ぎになった。
兄の阿久丸が真っ先に飛び出してきた。兄は俺の腕をつかみ、何も言わず、ただ腕をつかんでいた。普段は口達者な男が何も言わないのは、めずらしかった。母も外に出てきていた。これもめずらしかった。
父が来たのは最後だった。
人垣をかき分けてきた父は、俺の前で立ち止まり、一瞬だけ目を閉じた。昨夜、位牌に手を合わせながら「最後に頭を撫でてやった日」を思い出せずにいた男が、今、目の前に立っている。
(父上)
何も言わなかった。父も何も言わなかった。ただ一歩近づいてきて、岩のような手で俺の頭をひとつ撫でた。乱暴なくらい、力強く。
「……よく帰った」
それだけだった。それで充分だった。
その夜はゆっくりと一年間の話をして、ゆっくりと休んだ。
話の中で、一つ奇妙な報せがあった。建長三年、遠く離れた讃岐の海を荒らしていた海賊たちが、あろうことか「蝦夷島」への流刑に処されたというのだ。本来なら死罪か、せめて伊豆や隠岐への流罪が相場。それをわざわざ地の果てまで送り込むという幕府の異例な差配に、港の連中は「北を固める布石か」と、にわかにざわめき立っていた。
翌朝、チュフたち四名は恩人として歓迎された。まだ寝ている者もいた――酒が抜けていないのだろう。
―――
俺は父に、ニヴフ(吉里迷)からの品々を見せた。
クロテン(黒貂)の毛皮。イドイー周辺のタイガで獲れるクロテンは質が良く、漆黒の輝きは「毛皮の宝石」と呼ばれる品だ。
ラッコ・アザラシの皮。防水性に優れ、武具(箙/えびら)や防寒具の材料として重宝される。赤ギツネ・リスの皮も、大量に確保しやすい品として揃えてあった。
蝦夷錦。最重要品。元の官服に使われるような龍の刺繍が入った豪華な絹織物だ。
青磁・白磁。大陸で作られた美しい磁器。壊れないよう、干し草やベリーの絞りかすの中に埋めて慎重に運んできた。
ガラス玉・首飾り。大陸経由でもたらされた色鮮やかなビーズ。
鷲の尾羽。矢の羽根にするため、サハリン北部に生息するオオワシやオジロワシの羽を集めてきた。特に黒白の斑があるものは最高級品だ。
クジラのひげ。強靭で弾力があるため、弓の補強材や工芸品として使われる。
父は一つひとつを手に取り、目を細めて確かめた。商人の目だ、と思った。蝦夷錦を広げたとき、しばらく無言だった。
「……これが、北からの道か」
呟くように言った。
最後に壺を取り出した。
「これが、北の酒です」
「酒か。色が赤い」
「北の地の木の根と、ベリーで造りました。現地では『太陽の血』と呼ばれています」
父は杯に受けて、ゆっくりと口をつけた。甘い、酸っぱい、それだけではない何かが混じる、妙な飲み物だ。父はしばらく杯を見つめていた。
「……これを造ったのか、お前が」
「はい」
「僧侶になるつもりだったのに、北の果てで酒を造るとは」
そう言って、静かに笑った。久しぶりに見る、父の笑顔だった。
ここまでは父も価値を充分に知っていたが、次の品には「何だ、この臭い土は」という顔をした。品名を言えば「これが泥炭か」という具合で、まだ価値が分かっていない。
「天然のアスファルト(土瀝青)と乾燥させた泥炭、泥炭・泥状の樹脂、そして石炭です。これが無尽蔵にある。これがこれから大変な利益に繋がります」
と父に説明した。
「土が、か。まことか」
「土が、です」
父はしばらく臭い土の塊を眺め、それからゆっくりと俺を見た。死んだと思っていた息子が、北の果てから「臭い土が宝だ」と言って帰ってきた。笑えばいいのか、信じればいいのか、迷っている顔だった。
俺は続けた。寺行きを止めて、ルィヴン(北樺太)で暮らすことを提案した。父はしばらく考えて言った。
「一度死んだと思い、諦めた命だ。お前の好きにしろ。但し、たまには顔を見せろ」
―――
翌日、俺は初めて竹若丸を見た。
聞いてはいた。俺が漂流した後、四男が生まれたと。港でひそかに「安東の若様の生まれ変わりだ」と囁かれているとも。
抱いてみると、まるまると太った赤子が俺をじっと見上げてきた。
(……生まれ変わり、か)
笑えなかった。笑えるはずがなかった。俺自身、どこかから来た魂だという自覚が、ないわけではない。
赤子はそのうち、「ぶー」と口から泡を出した。
(……深いことを考えて損した)
母が笑いながら受け取った。
―――
俺はその後、紙に今まで書き留めた物をまとめ、写本してもらった。それは地図だ。特にイドイーから余市までの航路図。写本が完成したものを父に見せた。
「ほう、これだけで値千金だ。でかした」
と褒められたが、俺は続けた。
「ここから先は行っていませんが、金が取れます。帰ったら、いずれ現地の地図を書きます」
「なんと」
「それから、あの土の有効な使い方の説明書と現地語の翻訳書も、写本して残しておきます」
「あい、わかった」
父が地図を丁寧に巻き直しながら、ぽつりと言った。
「千代丸よ。お前は変わったな」
「……そうですか」
「変わった。だが、悪くない」
それだけだった。それで充分だった。トグルの言葉と同じ温度だ、と俺は思った。
来春の四月まで渡ることができないので、この冬は必要な物と人材を準備する。
今回の荷物は我が家にとんでもない利益をもたらすだろう。特に毛皮と大陸の商品を京内に持ち込めば、良い商いができる。その北の窓口に俺がなると、父は踏んでいると思う。
もちろんそうはするが、心に秘めた他の目的も、すでに芽生えてきていた。
(宝は、土の中だけではない)
懐のイナウに、一度だけ触れた。頭の中に刻まれた北の記憶と、その先にあるはずの道のりを思いながら、俺は静かに筆を執った。
―――
一二五二年 冬・十三湊
元服の話を聞いたのは、その朝だった。
父・貞季に呼ばれて部屋へ入ると、「今月、元服の儀を執り行う」と、それだけ言った。炭火の前に座った父の背が、心なし丸く見えた。
「謹んでお受けいたします」
「……チュフとやらは、達者にしているか」
不意打ちだった。父が北の者の名を口にしたのは、これが初めてだった。
「はい。日ノ本の習慣にもずいぶん慣れてきました。春にはまた共にルィヴンへ渡ります」
「そうか」
父はそれ以上何も言わなかった。俺も言わなかった。しかし部屋を出る時、背中に父の視線を感じた気がした。
――
俺は春までに人材の確保を考えていた。父に頼んでいた鍛冶屋の手配だ。
あちこちに声をかけて見つかったのは、五十手前の男――鉄次である。刃物から家庭用品まで何でもこなせる腕の持ち主で、「老い先短いから、俺が行く」と真っ先に名乗りを上げてくれた。
(ちょうどいい。欲が少なく、腕だけがある。そういう人間が一番使いやすい)
俺は図面を広げた。蒸留用の兜釜式の仕掛けだ。下部に大釜、中部に木桶の胴体、上部に冷却用の青銅鍋を重ねる三段構造。ルィヴン(北樺太)で頭の中に宿った「イメージ」が教えてくれた構造を、帰路の船の上で書き留めておいたものだ。
「鉄次、こんな物が作れるか?」
「……これは鋳物師の仕事だ。俺は畑違いだ」
「知り合いはいませんか?」
「いないことはないが……庶民の鍋や農具を作る職人で、猪目という男がいる」
「下の部分が二石釜、真ん中が木桶の胴体、上が冷却用の青銅鍋になる。中に受け皿を吊るす。常滑焼あたりが使えるだろう。図はこの通りだ」
「二石釜は注文すれば手に入ると思う。出来るかどうかは猪目に聞いてみれば分かります」
「では、連絡を取ってくれるか」
「若、これは何ですか?」
鉄次が図面を指で辿りながら首を傾げる。
「新しい酒を造る仕掛けだ」
「へーっ、これが! そりゃあっしも猪目も張り切りますよ」
鉄次はそう言うなり、猪目のところへ飛んでいった。その背中を見送りながら、俺は内心でひとつ確認した。
(ピート由来の蒸留酒――後の世でウイスキーと呼ばれるものに近い。麦麹で糖化し、兜釜で蒸留し、ミズナラで熟成させる。ピートは北から持ち帰った。熟成に使うミズナラはこの土地にある。問題は職人だ)
問題は腕ではなく、「前例のない仕事」に付き合ってくれるかどうかだった。
(……覚源師なら、何と言うだろう)
ふとそんな考えが過ぎった。師は俺が僧侶を目指すことを最もよく理解していた人だ。「不飲酒戒を破るとは何事か」と叱るだろうか。それとも、「お前が造るなら仕方あるまい」と苦笑するだろうか。どちらも想像できて、どちらも少し辛かった。
――
「若、こいつが猪目です」
「猪目、よろしく。これを見てくれ」
図面を広げると、猪目は顎に手を当てて、しばらく黙って眺めた。 そして一言。
「若、猪目と申します。二石釜は寺の炊き出しに使うようなやつを買った方が早うございます。樽用の鉄の箍と上の銅鍋は変わった形ですが、造れます」
(話が早い。これはいい職人だ)
購入と製作をそれぞれ頼んで、その場を後にした。戻り際に、鉄次へ樽の手配の話を振った。
「桶屋で作れると思うか?」
「下の釜に合う大きさ、ということですね。釜の仕入れ先からの方がいいんじゃないですか?」
「それもそうだが、保存用の樽が要るんだ。三年から五年、いや十年単位で中身を寝かせる」
「へーっ、そんなに長く? すぐ飲めないので?」
「飲めないわけではないが、味が変わる。旨くなる。それに高く売れる。年数の限りはあるが、毎年味が良くなると聞いている」
「そりゃー是非味わってみたい」
「言い忘れていたが、普段の酒より酒精が強い」
「ほーっ、それは楽しみだ。結桶屋の親方のところへ行きましょう」
鉄次の顔に、一瞬で灯がともった。酒と聞いた途端にこうなる。どの時代も、どの土地も、男というのは変わらないものだと思った。
――
桶屋の勘兵衛に樽の話をすると、「それは俺ではなく、反り目の安吉が適任かもしれん」という。中間の桶は問題ないが、ミズナラ樽の無茶振りを最も面白がってくれそうな親方を選ぶなら、反り目の安吉だそうだ。
早速、安吉のもとへ向かった。
「親方、お忙しいところすまない。桶屋の勘兵衛さんから、親方の眼力と腕をお借りしたくて相談に来たんだ。実はな、誰も見たことがないような、とっておきの酒を造ろうと思っている。それには、親方が普段作っている杉の桶じゃダメなんだ。親方も知っているだろ、硬くて強情な水楢の木だ。あいつを使って、何年経っても一滴も漏らさない頑丈な樽を仕立ててほしいんだよ」
安吉は腕を組んで黙った。目が図面の上を静かに動いている。
俺は図面の五つの要点を指し示しながら説明を続けた。
一、材の選定と火曲げ――「材はここの水楢だ。杉のごとく素直には曲がらない。船大工が船板を曲げるように、火でじっくりと炙り、粘りを与えてから、この図面の通りの円筒に組み上げてくれ」
二、厚みとサネの加工――「酒が染み出さぬよう、板の厚みは通常の倍、一寸(約三センチ)以上は持たせてほしい。板と板の継ぎ目には深くサネ(溝)を彫り、米糊と檜の皮を噛ませて、一滴の漏れもなきよう頼む」
三、内面の焼き(チャー)――「組み上げる前に、板の内側を松明で真っ黒に焼き焦がしてくれ。表面が炭のごとく逆立つまでだ。これが酒に命の色と薫りを吹き込む儀式となる」
四、鉄の箍による結束――「水楢の反り返る力は凄まじい。竹の箍では到底持ちこたえられぬ。此度、鋳物師に特注した鉄の箍を用意する。これを力任せに打ち込み、十年の歳月を経ても微動だにせぬよう締め上げてくれ」
五、鏡板(蓋)の密閉――「この器は上を開け放してはならぬ。上下ともに厚い鏡板で蓋をし、わずかな隙間も松脂で封じてくれ。ただし上部の一箇所にだけ、酒を出し入れするための栓を穿ってほしい」
「これが完成すれば、俺が夢見る黄金の酒は日の目を見る。十三湊の船大工をも唸らせる親方の技、この一樽に注ぎ込んでくだされ。礼金は惜しまぬ」
長い沈黙だった。安吉は一度だけ大きく息を吸い、ゆっくりと腕を解いた。
「……ふん。水楢を焦がして酒を寝かせるか。正気の沙汰とは思えぬが、そこまで言うなら、わしの結桶人生を懸けて漏れぬ樽を造って見せよう」
嬉しい言葉だった。安吉の目の奥に、職人の火が宿っているのが見えた気がした。
(前例のない仕事ほど、本物の職人は燃える。それはいつの時代も同じだ)
――
次は蔵元だ。
「鉄次、この辺りで安東家に協力してくれそうな蔵元はどこだ?」
「北海屋が地域一番の蔵元ですが……若の酒なら不知火でしょうな。元は船大工だった変わり者です」
不知火の源蔵のもとを訪ねると、「今、忙しいところだ。何か用か?」とぶっきらぼうな返事が返ってきた。
「新しい酒を作ってもらえる人を探している」
「その新しいとは何だ?」
「酒精の強い、香りのよい酒だ」
「何だと――強い酒だ……俺が試行錯誤していることを、お前が?」
「こらっ! 源蔵、言葉に気をつけろ。こちらは安東の若様だぞ!」
「へっ! これは失礼いたしました。それで、その酒は?」
「大陸の技術をもとに、ここ十三湊で作る技法だ」
「へーっ、向こうではそんな技能が。恐れ入ります」
「まずこの図を見てくれ」
源蔵はじっくりと眺めた。しばらく黙ったかと思うと、顔を上げて言った。
「若様、仕組みは分かりました。よく考えておられます。しかし、これを作る銭がございません」
「試作品はすでに発注してある。樽は反り目の安吉、桶は桶屋の勘兵衛、鋳物は猪目に頼んだ。後は酒造りだ」
「恐れ入ります。ぜひやらせてください。お願いいたします」
よい返事をもらった。壺や受け皿、布の類は蔵元が自前のものを使えるという。そこから作り方を記した書物を渡し、説明を加えた。




