第4話 北の果ての帰路
村長トグルが俺に問いかけてきた。
「カスクの船の修理を、助けてもよい」
思いもかけない言葉だった。
「ありがとうございます」
「カスクには沢山の物をもらった。そしてここで新しい酒も造った。我らは進化する。何千年と同じ暮らしをしてきたが、この地から新しい変化を目にした。その変化を神に供えることができ、神も喜んでいるだろう。感謝する」
時間をかけて信頼を勝ち取るつもりでいたのに、急展開になった。
(一年だ。この人たちと過ごした時間は、たった一年だ)
だが、頭の中に刻まれた記憶はそれ以上に濃い。極寒の竪穴式住居で体温を分け合って眠り、犬ぞりで吹雪の雪原を駆け抜け、サケを素手で捕まえた日々。言葉がうまく通じない最初の頃、チュフが無言で焚き火の隣に座ってくれたあの夜のことを、俺はおそらく生涯忘れない。
「カスクよ、家に帰り父に会い、また戻ってこい。その時はお前を大人として認めよう」
「ありがとうございます。必ず帰ってきます。ただ、船を動かすには人が足りません。お願いできますか」
「心配するな、任せろ」
トグルは優しく肩を撫でた。岩のような大きな手だった。
―――
俺は考えた。流氷が来る前に出れば、北風に乗って一気に南下することができる。
俺たちの幸運は、船乗りと地元民の双方が、縫い合わせによる造船技術を共有していたことだ。共通の技術基盤「板綴り(いたつづり)」というやつだ。
頭の中があっさりと解説する。
――十三世紀の和人やアイヌの「準構造船」も、ニヴフが使っていた「板綴り船(ニヴフ語で『ム』など)」も、根本的な仕組みは同じだ。板に穴を開け、植物の繊維で縫い合わせるという工程に、言葉の壁を超えた共通言語がある。
修理の工程はこうだ。割れた板を、山から切り出した木材に差し替える。地元民が熟知しているシナノキの内皮の繊維を撚って紐を作る。アザラシの脂や植物の樹脂を防水材として使う。
素材の宝庫であるルィヴン(北樺太)の山地と森には、修理に必要な材料がすべて揃っていた。木材となるカラマツやエゾマツが豊富に自生し、イドイー近郊には地表に露出した天然のアスファルト(土瀝青)や泥炭・泥状の樹脂が存在していた。これらが船の接ぎ目を埋める最強の防水材となった。
船の修理が始まった。イドイーの海岸では、俺たちとニヴフが共同で作業する。
「もっと紐を強く締めろ!」
「この樹脂を塗れ!」
壊れた船を直すための「材料(木と樹脂)」「道具(鉄の斧)」「共通の技術(縫い合わせ)」の三つが揃っていたため、イドイーでの現地修理は短時間で完了した。
由利源兵衛が修理を終えた船体を眺め、目を細めた。
「若様……よくここまで。正直なところ、あの嵐で船が形を取り戻すとは思っておりませんでした」
源兵衛は普段あまり弱音を吐かない男だ。それだけ、漂着したときの船の惨状が凄まじかったということだろう。
(俺も思っていなかった)
黙ってうなずいた。
船が直ったお祝いに、村長トグルが豪華な魚料理で宴を開いてくれた。宴の席に、俺は「太陽の血」を一壺持ち込んだ。チュフが「太陽の血だ」と呟いた夜に完成した、オオウバユリとコケモモで醸した赤い酒だ。
トグルが杯を受け取り、ゆっくりと口をつけた。長い沈黙があった。
「カスクよ。お前が造ったものを、お前が旅立つ夜に飲めるとは」
それだけ言って、また口をつけた。宴の席の端で、チュフが杯も持たずに炎をじっと見ていた。
その宴席で、航海に必要な食糧も手渡された。深々と頭を下げて礼をした。この食糧はこれから厳しい冬を乗り越える者たちの命を繋ぎとめる大切なものだ。それを分けてもらうことに、深く感謝した。
―――
秋から冬にかけて吹く強い北西の季節風を利用するために、風を待った。この風があれば、帆(獣皮の帆)を張って一気に南下できる。冬本番になるとサハリン北部は流氷に閉ざされるため、流氷が来る直前の「一瞬のチャンス」を見極める気象観測眼が必要だった。
外洋を突き進むのではなく、常に陸地を見ながら進む「地乗り(じのり)」航法を取る。俺は皆に伝えた。
頭の中があっさりと解説する言葉をかいつまんで説明する。
――イドイーから島と大陸を隔てる海峡(間宮海峡)沿いに南下し、樺太から蝦夷ヶ島(宗谷海峡)横断する。ここが最大の難所だ。潮の流れが最も緩やかになる「潮止まり」を待ち、一気に蝦夷地へ渡る。秋から冬の北西の季節風を帆に受けて十三湊を目指す航海は、時間との戦いだ。この時期の日本海は非常に荒れやすいため、船を浜に引き上げられ、かつ食料や水の補給ができるアイヌの拠点的集落や天然の良港が、重要な補給地となる。
次に、想定される主要な補給地ルートを説明した。
一、宗谷海峡横断の拠点。宗谷海峡横断で消耗した体力の回復。干し魚・水の補給。北樺太の毛皮を贈答品として渡す。
二、天塩川河口の避難港。宗谷から南下して最初に出会う大きな河口で、北西の風が強すぎた際の逃げ場となる。川を少し遡れば海上のしけから船を守れる。川魚と焚き火用の薪を補給する。
三、増毛または留萌。難所の前の休息地。ここから南は神威岬(積丹半島)など険しい崖が続く難所が始まるため、準備を整える場所。最終確認と飲料水の補給。
四、余市または忍路。交易の中継地。積丹半島を回り込んだ後の穏やかな湾内で、十三湊の状況や津軽海峡の荒れ具合などの噂を聞く「情報の拠点」となる。
五、瀬棚または江差。最後の待機場所。津軽海峡を渡る手前、北海道西海岸の南端付近。津軽海峡の激しい潮流と風を見極めるための「最終待機」の地。
以上が行程だ、と発表した。最後に付け加えた。地乗り航法は夜間は原則として航行しない。夕方にはこれらの補給地付近の砂浜に船を引き上げ、野営を張る。
説明を聞いていた鉄造が、感心したような顔で頭をかいた。
「若様、どこでそのような……」
「頭の中に入っている」
それ以上の説明はしなかった。鉄造は「はあ」と言って、それ以上は聞かなかった。この一年で、船乗りたちは俺の「頭の中」については深く尋ねないことを学習していた。
五郎太と鉄造は余市まで行ったことがあり、十三と波介は江差までだと言う。油断しなければ十三湊に到着するだろうと、俺は楽観的に考えていた。
―――
朝、良い風が吹き出した。チュフを中心にニヴフの民四名と我ら六名は船に乗り込む。村人全員が見送りに来た。チュフたち四名はこの村の代表として、初めて日ノ本へ渡る英雄だった。
出航の直前、チュフが俺の前に立った。
いつもと同じ無表情だった。言葉もなかった。ただ無言で右手を差し出し、俺の手のひらに何かを押しつけた。小さな木の塊だった。荒削りだが、確かにイナウの形をしていた。
(チュフが、自分で削ったのか)
聞けなかった。チュフはもう踵を返して船に乗り込んでいた。
俺はそれを懐に入れた。イドイーに流れ着いた最初の夜、言葉も通じないまま焚き火の隣に座ってくれた男が、最後に選んだのは、やはり言葉ではなかった。それで充分だった。
「カスク。また来い」と浜のチュフの妹ナズ(星)が言う。
「必ず来る」
船は出航した。村人からの声援が聞こえる。励ます者、泣く者、様々な顔で見送ってくれる。犬たちが浜を走りながら吠えた。去年の秋、あなじに流された俺たちを拾い上げてくれたこの浜が、みるみる遠ざかっていく。
順調に宗谷海峡を抜け、宗谷に到着した。地元アイヌに贈答品を渡し、体力の回復を図る。天塩、増毛と進み、余市に到着した。増毛沖で一度だけ風が荒れかけた夜、俺は懐のイナウに手をあてた。嵐にはならなかった。偶然だと思う。たぶん。
強風を避けながらの航行で二十八日かかった。五郎太と鉄造が安堵の表情を浮かべる。
「若! 遂にここまで来ましたぞ」
と奇声を上げた。ここからは経験者の存在が頼りになる。行きは必死でただ流されるだけだったため、どこをどう進んだか記憶も定かでない五郎太が、今は自信みなぎる表情でたくましく頼りになった。
余市で情報収集を開始した。
「あれ? また来たのか? 先月で今年は終―だと言っていたが?」
地元の者が首を傾げる。俺たちは一年前に難破し、ルィヴン(北樺太)から一か月前にここへ向けて出発してきたと話すと、余市の住民は仰天していた。
「ルィヴンから……? 生きて帰ったのか、そこから」
「見ての通り」
「こいつは化け物だ」と誰かが笑った。誰かが「神の子だ」と言い、また別の誰かが「安東の御曹司だと? まだ子供ではないか」とひそひそした。俺は聞こえていないふりをした。
江差が見えると、我らは全員明るくなった。
「ここから後ひと踏ん張りだ!」
と波介が奇声を上げた。
「かもめ島だ! やっと見覚えのある浜が見えた」
と十三が言う。その声が少し震えていた。
俺を先頭に由利源兵衛が続き、安東家の詰所へ向かう。中から五名の男たちが出てきた。
「貴様ら、どこの者だ!」
といきり立つ。
「待て待て、儂は安東家家臣、由利源兵衛。こちらは安東千代丸様だ」
「え、若様……?」
男たちの顔色が変わった。死んだと聞いていたはずの御曹司が、北の果てから戻ってきた。それも獣皮の帆に土瀝青で黒く塗られた異形の船に乗って。
「もし、貴殿は浅利藤兵衛殿のお身内か? その奥の……」
と源兵衛が言う。
「何故それを……。いかにも、藤兵衛は我が伯父……」
「其方が幼かったから忘れたのは仕方ないが、七年前に当家から豊を藤兵衛の嫁に出したのだがのう」
「豊は……。これは失礼いたしました。確かにお身内で。して、何故ここに」
詰所に招かれ、五名は平伏している。
「これ、そう硬くなるな。全ては不問だ。それより皆に温かい物を頼む。できれば酒も」
そういうわけで我らは「潮待ち・風待ち」で数日を過ごし、十三湊へと向かった。
―――
十三湊に入る直前、冬の荒れた日本海を背に「小泊」付近を通過するとき、船乗りたちはついに十三湊の灯火を見た。
「着いたぞ! 十三湊の灯だ!」
一番元気な五郎太が泣いていた。声を上げることもなく、ただ涙が流れていた。その横顔を見ていると、この一年間で積み上げてきたものの重さが、ようやく俺にも実感として降りてきた。
(よく、帰ってきた)
ふと、あの夜のことを思った。嵐の中、俺をマストに縛りつけた後、波に飲まれた男のことを。名前も知らないまま、あの人はこの灯を見ることができなかった。五郎太の涙を見ながら、俺はそれだけを考えた。
源兵衛も泣いている。俺もうるっときたが、頭の中から言葉が流れ込んできた。
――長い旅の終わりに近づいています。おつかれさまでした。お帰りなさい。
そんな影響からか、感動が少し覚めてしまった。
(……相変わらず、水を差すのが上手い)
薄暗くなり始めた頃、ゆっくりと入港していく。まるで幽霊船のように、予定にない黒い船が現れたのを見てか、数十名の者が待ち構えていた。獣皮の帆に土瀝青が塗られた黒い船体が、静かに岸壁へと近づいていった。
「皆の者、ご苦労。千代丸じゃ、出迎え大儀」
と言って、約一年ぶりに故郷へ帰った。




