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『カスク(犬の子)と呼ばれた男 〜十三湊から北樺太へ、漂流転生記〜』  作者: 山田村


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第3話 北の果ての太陽の血




建長三年(1251年) 初夏・ルィヴン(北樺太)イドイー集落


 ここに漂着して以来、気になってならないのはピートの存在だ。北の湿地帯に広く分布するその黒褐色の泥炭層は、踏めばぶわりと沈み込み、乾燥すれば炭のように燃える。十三湊でもピートの話を聞いたことはあったが、こうして地面の下に果てしなく広がっているのを目の当たりにするのは初めてだった。


 俺が最初に考えたのは、地下資源を利用して刃物や生活用品を作ることだ。延暦寺での修行など遠い夢になった今、生きることが先決であり、何か「価値のあるもの」を生み出せなければ、この集落での立場はいつまでも客人のままだ。


(ここには何がある)


 そう念じると、頭の中にあのイメージが流れ込んでくる。俺が生まれながらに持つ特別な能力だ。人を見れば、その人物を取り巻く状況が記憶のように浮かぶ。場所を念じれば、その地の情報が流れる。


「ここは鉄・銀・銅は取れません。地下資源は石油・天然ガス・石炭・泥炭・ゼオライト・砂金になります」


 肩が落ちるのを感じた。刃物を作ろうにも鉄がなければ話にならない。しかし、それで諦めては極寒の地では生きていけない。気を取り直し、砂金はどのあたりかと念じると、


「ランギ(ランゲリー)川流域(北部)、ミフ・テュング(シュミット)半島(最北部)にあり、ここからでは北に直線で二百キロメートル以上はあります」


 遠すぎる。今は無理だ。


 次に考えたのは麦を使って酒を造ることだった。ニヴフの村に外から入ってくる、特別な力を持つ品として扱われている酒を自分たちで作れれば、一気に立場が変わる。しかし、麦はここでは取れない。これで最初に頓挫した。念じると、頭の中があっさりと解説する。


「ピート(泥炭)層が広がる土壌は強い酸性であり、そのままでは麦などの穀物は育ちません。麦の栽培には、春から夏にかけて一定以上の気温(積算温度)が必要です。ルィヴン(北樺太)は夏が短く、麦が実る前に秋の霜が降りてしまいます」


 米も麦も無理と切り捨てられた。そもそもそんな土地だから、ニヴフは移動しながら獲物を追う生活をしており、一つの場所に留まって土を耕し草を抜く「農耕」という概念自体が希薄だ。食べるものは動く獲物しかない。ただし、ピートは燃料として売ることができる。それは頭の片隅に置いておいた。


 俺はそれでも炭水化物にこだわった。酒を造るにもデンプンが要る。「麦の代わりは?」と念じると、


「オオウバユリの根(トゥフ)。麦の代わりになる最も重要なデンプン源です。初夏に掘り出し、砕いて水にさらしてデンプンを取り出します。これを乾燥させて保存し、冬に粥のようにして食べます。次に水生植物の根、湿地帯に生える植物の地下茎なども食用にしています」


 そうか。タカ(食料貯蔵庫)に保存されていたあの白い塊がそれだ。住居の横に必ずといっていいほど設けられた高床式の頑丈な貯蔵庫で、ヒグマやキツネなどの野生動物から、冬越しのための乾燥サケ(ユコラ)やアザラシの油を守るためのものだ。柱にはネズミ返しのような細工が施されている。ここにある食料の備蓄量が、その家族の豊かさと生存の可能性を象徴していた。


 念のため続きを聞くと、頭の中が補足する。


「また、ニヴフは交易を通じて麦や米を手に入れています。一つには大陸(山丹)からの流入で、アムール川上流の農耕民(女真族など)から毛皮と交換でキビや麦が持ち込まれることがありました。もう一つは和人(安東氏)からの流入で、十三湊からの船には食料として、あるいは交易用として米や麦(麦焦がしなど)が積まれていました。ただし、それは十四世紀後半からのことになります」


 安東氏という名に思わず期待したが、話には続きがあった。実現するのは百年以上先だという。今の俺には、まるで関係のない話だ。


 ニヴフが数千年かけて築き上げた「魚と獣だけで生きる知恵」の重さを、俺は日々つくづくと思い知っていた。漂着した船の残骸から見つかったわずかな「麦焦がし(麦を炒って粉にしたもの)」を、試しにニヴフの子供たちの口に含ませてやると、香ばしい匂いに子供たちは目を丸くした。


 俺自身もその匂いを嗅いだ瞬間、気づいたら指先が震えていた。


 十三湊の黄金色の麦畑が、脳裏に広がった。寺で出される麦飯の湯気が、鼻の奥に戻ってきた。五郎太が横で何か言っているのに、耳に入らなかった。それほどの匂いだった。


(嘆いても変わらない)


 それだけを念じて、手を動かすことに戻った。「自力ではどうにもならない自然の掟」を悟るより他はなかった。ニヴフの食文化、魚の脂をたっぷり使う食事に適応していかないと、この地では生きていけないのだ。


 漂着した船に積まれていたわずかな「麦の袋」や「米の俵」は、ニヴフにとって「神の国の食べ物」として儀式用の特別な供物になっていた。それがある意味で俺たちの命綱でもあった。


 ニヴフの家には、北側の壁に「神の窓」と呼ばれる神聖な場所があり、そこから海や山の神々がやってくると信じられており、イナウ(木幣)などの祭具が置かれていた。建長二年の冬から春にかけて「ト(竪穴式住居)」の生活の中で、寺での作法を知る俺たちは、言葉は通じずとも、この神聖な場所に対して自然と敬意を払っていた。それが、ニヴフの人々から「礼節を知る者」として信頼を得る細い糸になっていったのかもしれない。


 ある日、戦士チュフが焚き火の傍らで静かに言った。


「日ノ本の者がここまで来たのは、お前たちが初めてだ」


 その身の丈は一九〇センチを超えようかという巨軀で、岩のように無口な男だった。俺が最初に頭だと見抜いたのもこの男であり、漂着したあの日、浜に静かに立って全体を制していたのもこの男だ。その言葉の重さを、俺は理解した。


―――


 酒のことを俺が考え始めたのは、その年の初夏のことだった。


 ニヴフにとって酒は、大陸から運ばれてくる特別な交易品であり、いわば外交上の切り札だった。ニヴフが手にする酒は、主にアムール川(黒竜江)の下流を経由して、大陸の女真族(後の清の祖先)やモンゴル、あるいは明朝の役人からもたらされる「中国の酒」だ。主に穀物を原料とした強い蒸留酒(焼酎の原型のようなもの)や、発酵させた濁り酒が中心になる。酒は単なる飲料ではなく「神への最高の捧げ物」だった。彼らの儀式、特にクマ送りには欠かせないもので、交易においても毛皮数十枚と交換されるほどの高い価値を持っていた。これを自分たちで作れれば、村での俺の地位は盤石になる。それが酒へのこだわりの正直なところだった。


 俺が乗っていた船には本来、小浜や敦賀、さらには鎌倉への手土産や儀礼用として、十三湊の銘酒(日本酒)が積まれていた。嵐を乗り越え、割れずに残った酒樽があった。それがニヴフの村において「神の雫」として扱われたのは言うまでもない。その樽を囲む村人の目を見て、俺は確信した。酒はここで何より力を持つ。


 俺は安東氏の御曹司として、酒の正式な注ぎ方や作法を心得ていた。ニヴフの村長トグルたちの前で日本の酒を披露した際、その香りと味の良さに彼らは腰を抜かすほど驚いていた。神に捧げる所作として振る舞ったその作法は、宗教的な意味合いを兼ね備えるものとして、確かに彼らの心に届いていた。


 輸入物の酒が尽きると、彼らは自然界からわずかに得られる「酔い」を楽しんだ。白樺のサップ(樹液)は、春、雪解けとともに木から溢れ出す甘い樹液だ。これをそのまま飲むだけでなく、放っておいて自然発酵したものを微アルコールの飲料として楽しむ知恵があった。夏に採れる大量のベリーを潰し、偶然発酵したものを口にすることもあったが、日本酒のような完成された味には程遠いものだった。


 秋の夜長、あるいは儀式の際、貴重な酒が振る舞われる。ニヴフは酒を飲む前に必ず指先を酒に浸し、火の神や海の神に振りまく。イナウという祭具に吸わせることもある。仏門に入るはずだった俺は、本来「不飲酒戒(ふおんじゅかい=酒を飲んではならない)」を守るべき立場だ。しかしこの極寒の地でコミュニティに受け入れられ、神々と繋がるためには、差し出された酒を拒むことはできない。ましてや転生者として酒には慣れていたし、仏門に入っても酒は程々に飲むつもりでいた。それが俺の正直な気持ちだった。


―――


 俺は村長のトグルに酒の基本的な作り方を知っていると伝え、作らせてほしいと頼んでみた。トグルは「作ってみせろ」と言葉少なに許してくれた。できるかできないか、試しているのだろう。知識はもう頭の中に入っている。まずは材料集めから始めた。


 国人の息子でありながら俺が率先して動いているからこそ、船乗りの大人たちも働くし、由利源兵衛も動く。漂着してこの集落に命を拾われた以来、俺たちが生きていくためには「役に立つこと」しかなかった。道具の修繕、地図の記録、星を読んでの天候予測。そうして少しずつ積み上げてきた信頼が、今回の「酒造り」への許可に繋がっている。


 雪解けとともに、湿地や森の縁で最初に顔を出すベリーを集める。


 頭の中が二種類を教えてくれる。


 クロミノウグイスカズラ(ハスカップ)は楕円形の青紫色の実で、味は爽やかな酸味とわずかな苦みがある。ビタミン含有量が非常に高く、冬に向けたジャム作りにも用いられる。


 ホロムイイチゴ(クラウドベリー)は湿原に自生し、熟すと赤からオレンジ色(琥珀色)に変わる。別名「北極の金(Arctic Gold)」と呼ばれ、クリーミーで独特の芳香があり、非常に希少で高価だ。


 俺は源兵衛と鉄造、波介の四人で採れる場所を共有し、あまり離れないよう声を掛けながら探し始めた。一つ注意がある。人間が欲しがるそれを、熊も狙っているのだ。


 森の奥に入り込んで半刻ほど経った頃、前方の藪が揺れた。


 音もなく、揺れた。


 源兵衛が止まり、波介が息を呑む気配がした。鉄造が後退りしかけた、その瞬間だった。


 チュフが、無言で俺たちの前に出た。


 いつからそこにいたのか分からない。腰の短刀に手を添えたまま、まっすぐに藪を見据えて立っている。しばらくして藪の揺れが遠ざかり、重い沈黙だけが残った。チュフは何も言わなかった。ただ少し振り返り、顎を前方に向けた。「続けろ」という意味だと、今の俺には分かる。


 背中が冷えていた。礼を言う言葉が出てこなかった。チュフはもう歩き始めていた。


 昼近くまで収穫して、二種を二つに分けて木桶に入れ、手で押し潰した。湯冷ましのわずかな水を加え、炉端の少し暖かい場所に置く。


 それから三日から五日後、早くも発酵臭が漂い、ピリッとした酸味のあるアルコール飲料になった。味は非常に酸っぱく、野性味溢れる「シードル」や「サワーワイン」に近い。


 トグルからは伝統的な酒の作り方など聞いていない。しかし十一歳の子供が主体でこの酒を造ったことに、驚きと敬意を払ってくれた。試作なので全員には行き渡らなかったが、俺はこう告げた。


「この酒は弱い。しかしこれから作る、オオウバユリを足した酒はこれより強くなる。味も良い」


 村長のトグルはその話を真剣に聞いていた。俺は続けた。


「酒を沢山造り、他の村から毛皮と交換する。大陸の女真族やモンゴルから麦を仕入れ、麦の酒を造り、また毛皮に変えて麦や鉄や銅を仕入れる」


 村長のトグルには何を言っているのか半分も伝わったかどうかだった。しかしトグルは目だけで頷いた。


「やってみろ、カスクの言う強い酒を」


 それで十分だった。


 俺はオオウバユリが取れるまでの間、ベリーの収穫を続けた。鉄造と波介は「酒を造る」という言葉に引っ張られてここまでついてきている。二人は本音では船を直して日ノ本へ戻りたいと考えているが、今はまだ叶わない。この集落での信用が足りなければ、修理の協力を得ることもできないからだ。漂着した当初は一番衰弱していた二人が、今こうして動けているのはニヴフの食と温もりのおかげだ。そして昨年からそれぞれ村の娘と良い関係を結んでいる。酒で信頼を勝ち取れれば、船の修理に向けた協力も現実味を帯びてくるはずだった。


―――


 酒作りが本格的に始まった。


 大量に収穫できたオオウバユリの根を砕いてデンプンを取り出し、糖化させた粥(甘酒の原型)を仕込む。そこにコケモモ(リンゴンベリー)を「発酵スターター(酵母源)」として投入する。これは、ベリー単体の発酵よりもデンプン由来のアルコールが加わることで度数が高くなる計算だ。ベリーの酸味が雑菌の繁殖を抑える防腐剤の役割も果たし、液体は日を追うごとに色鮮やかな赤に変わっていった。


 冬の足音が聞こえる十月、最初の雪が降った夜。俺は仕込んでいたこの赤い液体を、村長のトグルの前に差し出した。


「……」


 トグルは木杯を両手で包み、ゆっくりと鼻に近づけた。そこには、ルィヴン(北樺太)の土が育んだオオウバユリの力と、夏の太陽を浴びたベリーの魂が溶け合っていた。


 火のそばに控えていたチュフが、低く呟いた。


「……太陽の血だ」


 それがこの酒の名になった。


 村長のトグルはそれを一気に飲み干し、しばらく目を閉じていた。


「……酸っぱいが、腹の底が熱くなるな」


 それから俺を見た。


「カスク、お前は今、誰かに捧げたいものがあるか」


 問いが来るとは思っていなかった。答えようとして、口が止まった。


 あの日、波に消えた男の顔が浮かんだ。マストに俺を縛り付けて、次の瞬間には波に飲まれていた。そのまま戻らなかった。ここまで来て、まだあの顔が出てくるのか、と俺は思った。


 名前を、知らなかった。


「……捧げたい人がいます。名前を、聞きそびれた人が」


 トグルは頷いた。静かに、杯をイナウに近づけ、指先に一滴だけ付けて神の窓の方角へ振った。


「神の国に届く。カスクが作ったのだから」


 炉の火が揺れた。赤い酒の色と、あの日の波の色が、一瞬だけ重なって消えた。


「……ありがとうございます」


 声が掠れた。それ以上は言えなかった。


 トグルが静かに言った。


「カスク、お前は立派な、ルィヴンの民だ」


 延暦寺の僧侶になるはずだった十一歳の俺は、その夜だけは南の空を見なかった。


(1264年、モンゴルが攻め来る前までと、心に秘める)


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