第1部 終焉戦争の末路・中編
終焉戦争、最終日。
その朝、エリアーナは目を覚ました瞬間から、胸の奥に小さな違和感を抱えていた。
何かが起きる。
精霊たちが告げたわけではない。敵軍から特別な情報が届いたわけでもなく、王立騎士団からの作戦説明も、これまでと大きく変わるものではなかった。
それでも――今日は、何かが違う。
そんな気がした。
「……今日が……その日なのかも」
身支度を整えながら、エリアーナは小さく呟いた。
窓の外には朝の光が差している。
いつもと同じ王都。
いつもと同じ王城。
けれど、その景色さえ少しだけ違って見えた。
戦争が終わる。終わるのなら、それでいい。
ずっと願っていたことだから。
けれど、終わる直前だからこそ。
――怖い。
戦争を終わらせたくない人間がいる。
自分が生きていると困る者もいる。
精霊使いの本懐を使わせたい人間も、きっとまだ、どこかにいる。
「エリアーナ」
背後から静かに呼ばれた。
振り返れば、すでに戦装束を整えたノクスが立っている。
白銀の髪。普段はラフにおろしている前髪も、今日は戦場仕様にオールバックでまとめられている。
二本の長剣。黒銀に紫を纏う、エリアーナの装備と対になる甲冑に大きな外套。
何度も戦場で見てきた姿だ。
「準備できた?」
「うん」
「じゃあ行くぞ」
「……うん」
返事をしながら、エリアーナはノクスの背中を見つめた。
ずっと、この背中を追いかけてきた。
十四歳で初めて戦場へ立った日から。
怖くて。震えて。
それでも、この人の後ろなら――前を向けた。
今日……それが『最後』になるかもしれない。
そう思った瞬間、言葉が勝手に口から零れた。
「ノクス」
「ん?」
「今まで、ありがとう」
ノクスの足が止まった。
✦ ───────────── ✦
ノクスの振り返った顔には、何の表情もなかった。
「……何?」
低い声。たった一言『何』とだけの返事に、エリアーナは少しだけ驚いた。
「え?」
「今、何て言った?」
「……ありがとうって」
「その前」
「今まで……」
言い終える前に、ノクスが一歩近づいた。
「それ」
声が冷たい。
「二度と言うな」
エリアーナの身体が、びくりと震えた。
「……ノクス?」
「今までありがとう、って」
怒っている。
それも、今までエリアーナが見たことがないくらい。
怒鳴らない。だが確実に、ノクスの怒りがエリアーナへ伝わっている。
ノクスは一度目を閉じ、強く息を吐いた。
そして次の瞬間――エリアーナをぎゅっと抱きしめた。
「……っ」
お互いの戦装束越しでも分かる。
いつもより強く抱きしめられている。
「勝手に最後にするな」
エリアーナの耳元に、震える声が響く。
「前に約束しただろ」
十五歳の誕生日。
死にたくないと初めて口にした夜。
二人で生きて帰ると約束した日。
「でも、今日……」
「今日が最後だったとしても」
ノクスの腕に、さらに力が入る。
「戦争が最後になるだけだ」
エリアーナは息を呑んだ。
「お前の人生まで、今日で終わるみたいに言うな」
「……」
「俺、あの日言ったよな?」
生きろ。
一緒に帰ろう。
「最後まで足掻くんだろ?」
「……うん」
「なら」
ノクスは身体を離し、エリアーナの肩へ両手を置いた。
淡い紅の瞳を、深い蒼色の瞳が真正面から見る。
「最後なんて決めないで、二人で足掻く!」
エリアーナの目に涙が滲んだ。
「二人?」
「ああ」
「ノクスも一緒?」
「当たり前だろ」
少しだけ、いつもの顔に戻った。
「俺は専属護衛だぞ」
「……うん」
「護衛対象に一人で格好良く死なれたら、俺の仕事なくなるだろ」
「今……それ言う?」
「今だから言うんだよ」
エリアーナは、泣きながら笑った。
ノクスも、少しだけ笑った。
「帰るぞ」
「どこに?」
「家」
エリアーナは少し考えて。
「……ルシアン家?」
「そうだ」
「帰ったらフェリアおかあさまのご飯食べる」
「うん」
「お庭のネコちゃんも抱っこする」
「うん」
「あと……」
エリアーナは涙を拭った。
「ノクスに、明日も大好きって言う」
ノクスは、少しだけ目を細める。
「じゃあ決まり」
剣へ手を添えた。
「今日は死んでる暇ないな」
「……うん!」
二人はゆっくりと歩き出す。最後の戦場へ向かうために――。
✦ ───────────── ✦
戦場指定地のルミナリア王国内砂丘地帯へ到着すると、嫌な予感は現実になった。
侵攻国側。ルミナリア王国の精霊資源を狙う三国連隊。
兵士の数は、これまでとは比較にならない。
さらに、魔導人形。飛行型魔導兵器。遠距離魔導砲。
ありとあらゆる兵器が砂丘の向こうへ並んでいた。
王立騎士団長ヴァルクは敵陣を見渡し、小さく息を吐いた。
「……全部持ってきやがったな」
「和平交渉が始まる前に、一度叩いておきたいんだろ」
ノクスが答える。
「だろうな」
ヴァルクは大剣を肩へ担ぎ、後ろにいるエリアーナを見る。
「姫さん」
「はい」
「怖いか?」
エリアーナは少しだけ考えた。そして――。
「怖いよ」
正直に答えた。
以前なら、言えなかった。言葉に出来なかった。
怖い。
死にたくない。
そう言うことは、弱いことだと思っていた。
でも、もう違う。
「でも」
国王アルシオン自らの手で作られた両手杖を握る。薄桃色の大きな精霊石が静かに光る。
「帰るって決めたから」
ヴァルクはにやりと笑った。
「上等だ! ……エリアーナ、一緒にルシアン家へ帰るぞ!」
開戦の合図が、砂丘に響いた。
✦ ───────────── ✦
エリアーナは、最初から全力を出した。
けれど、以前のような。何もかも自分一人で守ろうとするそんな全力ではない。
守るもの。止めるもの。壊すもの。
それぞれを、分ける。
稀代の大魔導士でもあるフェリアから、教わったこと大切なことを思い出しながら。
『全部を助けようとすると重くなるのよ』
『じゃあどうするの?』
『誰に、何を、どこまで。術式に役割を与えるの』
あの時は、分からなかった。でも――今なら、分かる!
「精霊さん、お願い!」
六つの光が、砂丘へ広がった。
味方も敵も関係ない。
人間を守る結界。
爆風を受け止める結界。
倒れた者へ張る、小さな防護壁。
その一方で、命を持たない魔導人形。魔導兵器。人工兵器。
これかの動きは、確実に止める。
「――バインド!」
純白の光が砂丘を走る。
騎士団員を避ける。侵攻国兵士も避ける。
そして、魔導人形だけ正確に絡め取った。
腕。脚。術式中枢。
エリアーナが一人繰り出す制御魔法で次々と動きを止めていく。
「ノクス!」
「おう!」
エリアーナの魔力が、一気にノクスへ流れる。
紫色の焔が二本の剣へ宿った。
熱くない炎。紫色の焔は紅と蒼に分かれ、それぞれの剣で静かな焔となる。
紫焔。
これまでは二人の心を繋ぐために、使っていた魔力共鳴。エリアーナとノクスだけが取り扱える、唯一無二の精霊術だ。
その炎が、この日初めて――明確な武器になる。
ノクスが二刀を構えた。
「……なるほど」
手を伝う感覚から分かる。説明などいらない。確実に剣で切れる。兵器に組み込まれている魔導術式そのものを。
「人には使わないでね!」
「分かってる!」
ノクスが砂を蹴った。
一体目。
紫焔が、魔導人形の術式中枢を断つ。
二体目。
三体目。
拘束され、動けない魔導人形だけを正確に壊していく。
「おとうさま!」
エリアーナは叫ぶ。次はヴァルクへ――ノクスの実父であり、王立騎士団長でもある『おとうさま』へ。
「おう!」
エリアーナは片手を伸ばす。
ヴァルク自身の魔力へ、自分の魔法を静かに重ねる。
ヴァルクの大剣に、漆黒の炎が一気に広がった。
「……へえ」
ヴァルクが楽しそうに笑う。
「こりゃいいな」
「人には使わないでね!」
「分かっとるわ!」
「絶対だよ!」
「誰に言ってんだ!」
ヴァルクが大剣を振るった。
広範囲に黒炎の斬撃が走る。
光に拘束された魔導人形だけが、まとめて薙ぎ払われる。
ノクスが、一体ずつ正確に。
ヴァルクが、広く一気に広範囲に。
二人の――父と子。
ルミナリア王国で、二人だけの魔法剣士。
そのすぐ背後、エリアーナは両手杖を握ったまま戦場全体を見ていた。
以前、自分の目の前にあったのはノクスの背中。
ノクスの外套に隠れるように、いつもその後ろから戦場を見ていた。
今日は違う。
エリアーナは顔を上げた。
怖い。
でも――自分の目で見る。
誰が傷ついている?
どこに兵器がある?
どこを止めれば、戦いが続かなくなる?
(……分かる)
不思議なほど、戦場全体が見える。
「危ない!」
侵攻国側の兵士が、暴走した魔導人形に巻き込まれそうになる。
結界展開!
透明な壁が、人間と兵器を分けた。
侵攻国側の兵士は、目の前に展開された結界に驚き砂丘に座り込み、言葉が漏れた。
「……精霊使い……か?」
エリアーナは答えない。
次は味方。次は敵。彼女にとっては関係ない。人間だったら命を守る。ただそれだけを考えていた。
✦ ───────────── ✦
やがて、前線の兵士たちは少しずつ気づき始めた。
ルミナリア王国の精霊使いは、自分たちを攻撃しない。
どれほど力を持っていても、人間へ攻撃魔法を一切向けない。
その代わり、戦争を続けるための命を持たない兵器だけを確実に仕留めていく。
「……何なんだ、あれ」
誰かが呟いた。
戦場の女神。
そう呼ばれていた。
けれど、今日の姿は――癒すだけの女神ではない。
誰を守るか。何を止めるか。何を壊すか。
その境界を、一人の少女が決めている。
剣を振るわず。攻撃魔法も使わず。
それでも一人の少女が、戦場そのものを支配していた。
✦ ───────────── ✦
侵攻国三国連合側陣営。
後衛には、大勢の魔導士が一つの巨大な術式を組み上げ始めている。
エリアーナは、すぐに魔力の異変に気づいた。
「……っ!」
砂丘に流れる魔力量。
今までとは桁が違う。
複数の魔導士たちの共同術式だ。
前線そのものを消し飛ばす、大規模魔法を発動させようとしている。
「ノクス!」
紫焔が二人の心を繋げる。
(なんだ!)
(下がって! おとうさまも! 全員!)
ノクスは理由を聞かない。が、即座に叫ぶ。
「親父! 全員下げろ!」
「了解!」
ヴァルクが声を張る。
「全員後退!! 姫さんが何かやるぞ!!」
前線にいる騎士団員が一斉に下がる。
エリアーナは、両手杖を強く握った。
――守るよ。
ノクス。おとうさま。騎士団のみんな。
そして――この戦場にいる侵攻三国連合の人たちも。
みんなを守る硬いもの。
壁ではない。壁じゃダメだ。魔力を跳ね返すのではなく受け止める。
受け止めた魔法を包んで散らす。全部を柔らかく受け流す。
エリアーナの頭の中へ、護る形が浮かんだ。
花。小さな花びらたち。花びらたちをひとつの『護る形』へ――。
「……できる」
エリアーナは両手杖を砂丘へ突き立てた。
「――フローリス!」
瞬間。
砂丘に花が咲き誇った。
白、淡い桃、薄い黄色。無数の小さな花びらが、風へ舞い上がり、重なり絡みあう。
小さな花びらたちは、瞬時に大きな一枚の盾となる。
同時に。
侵攻三国連合の魔導師たちの術式が完成した。
巨大な魔力の奔流が一直線に飛んでくる。
轟音がうねり、砂上の空気が震える。
ノクスは剣を握る。ヴァルクも大剣を構える。
だが、二人とも動かない。
今は、エリアーナを信じる。
そして、魔力の奔流が小花の大盾に激突した。
「――っ!」
花びらの盾が大きく波打った。
一枚、花びらが散る。
そこからまた小さな花が生まれる。
また攻撃がぶつかる。
今度は白。次は桃。次は黄色。
爆炎ではなく、砂丘に花が舞う。
砂しかない戦場を、色とりどりの花々が埋め尽くしていく。
エリアーナは両手杖を握りしめた。
「負けない……!」
十五歳の誕生日。
死にたくないと言った。
今日、生きて帰ると決めた。
だったら、守る。
自分も。ノクスも。おとうさまも。敵も。味方も。みんな、みんな――。
「みんな……生きて帰るの!!」
最後の魔力の奔流が花びらの盾へ吸い込まれる。
そして、ふわりと一面の小花へ変わり、舞いながら砂上へと落ちていく。
戦場地の砂丘地帯全域が静寂に包まれた。
残ったのは、吹き抜けるからっ風と一面の砂。
そして、色とりどりの花びらたち。
誰も、傷ついていなかった。
ノクスが前線からエリアーナを見る。
ヴァルクも見る。
エリアーナは、両手杖を握ったまま、砂丘の馬の背に立っている。
十五歳。
精霊使い。第一皇女。戦場の女神。
そんな肩書きは、もう意味をなさなかった。
ただ、生きたいと願った一人の少女が立っている。
そして彼女の選択が、今、戦場そのものを変え始めていた。
人間を殺さない。
兵器だけを止める。
戦う者へ力を預ける。
そして――攻撃を、花へ変える。
その日、エリアーナ・ルミナリアは、初めて自分の命を使わず精霊使いとしての全力を使った。
十五歳で死ぬ。
実母や誰かから語られた、古い運命など必要なかった。
生きたまま、守れる。
生きたまま、戦える。
生きたまま、未来を変えられる。
それを、彼女自身が証明し始めていた。
そして――
紫焔を纏った二刀と黒炎を纏った大剣が、再び砂丘を駆け抜ける。
エリアーナの意思を、剣へ変えて。
ノクス・ルシアンと。
ヴァルク・ルシアン。
父と子。
二人の魔法剣士が、残された魔導兵器へ向かう。
その背後で、エリアーナは、もう俯かなかった。
戦争を終わらせるために、自分が死ぬのではない。
自分も、みんなも、生きてこの戦争を終わらせる。
十五歳の精霊使いが最後に選んだのは、たった一つの悪あがき。
それは、誰かの命を奪うことではない。
誰一人、命を失わない未来を、諦めないことだった。




