書薦の儀:文倉アリス③
1LDKのアパート。家賃は六万七千円。
それが現在の我が家だった。
大学入学と共に一人暮らしを始めて二年、実家から総引っ越しをさせた書籍の数々は今や本棚には収まらず、その脇にうず高く積みあがっている。それだけでは飽き足らず、押し入れの中に詰め込んだ段ボールの中にも既読の本が詰め込んである程だ。
読書家であれば誰しもが直面する問題が、俺にも突き付けられていた。それは、本の収納場所が無くなってしまって困る問題だ。
今は電子書籍という媒体が普及しているものの、やはり紙の質感、ページを捲る音が好きな俺はついつい紙の本を買ってしまう。
それが続いた結果が、これだった。床に積み上がった本の塔を眺めながら、小さく息を吐く。
この中から、アリス先輩に薦める本を決めなければならない。と言っても、実はもうある程度当たりは付けてあった。
俺は本棚に並ぶ背表紙を順番に眺めながら、目的の本を探し出して手に取る。
その表紙を見ただけで、初めて読んだ時の感情が蘇ってくるようだった。
自然と、口元が緩む。俺の大好きな作品だ。だからこそ、アリス先輩に読んでほしいと思った。
俺はその時の感情を思い出しながら、本を開いた。
◇ ◇ ◇
【杉井光著・神様のメモ帳】
どこか流されやすく目立たない普通の高校生である少年がある日、ニート探偵を名乗る天才少女アリスと出会う。
アリスは引きこもりながらも、独自の情報ネットワークを駆使して、数々の難事件を解決している人物だった。
彼女の周りには個性豊かなニートたちが集まり、彼らはそれぞれの得意分野を生かしてアリスの探偵業を支えていた。
そんなアリスの助手として、主人公の高校生は半ば強引に事件へ関わっていくことになる。
扱う事件は単なる「日常の謎」ではなく、ときに命を懸けた危険なものへと発展していく。
◇ ◇ ◇
この作品の小気味良い展開と、魅力的な登場人物達との掛け合いに何度笑ったことだろうか。
今でもキャラクター達のやり取りを思い出すだけで、クスリと笑みが零れてしまう。
ただのラノベ探偵ものではない。シリアスな事件や、人間ドラマが色濃く描かれているのが特徴的だ。
探偵アリスの推理と、高校生である主人公の成長が交差するストーリーには、とても惹きこまれたのをよく覚えている。
ジャンルとしては、ホワイダニットに重点を置いたミステリだ。
ある事象が何故起きたのか。そこが物語の軸となっている。
そして、ニート探偵を名乗る天才少女アリス。そう、偶然にも物語の中心的な登場人物の名前はアリスなのだ。
文倉アリス。
ミステリというものをこよなく愛する彼女に紹介する本としては、打って付けのように感じた。
アリス先輩は、この作品をどう読むだろうか。探偵アリスというキャラクターを気に入るだろうか。それとも、ミステリとして別の感想を抱くだろうか。
そんな事を考えていると、不思議と少し楽しくなってくる。
自分の好きな作品を、誰かに薦める。そして、その感想を語り合う。
たったそれだけの事なのに、どうしてこんなにも心が躍るのだろう。
悠久の書館へ行く前の俺なら、きっとこんな感覚は知らなかった。
読書とは、一人で完結する趣味だと思っていたからだ。
だが今は違う。誰かと本を語り合う時間が、こんなにも楽しいものなのだと知ってしまった。
◇ ◇ ◇
翌日の大学構内。
一限を終え、次の三限まで時間を潰す必要に迫られた俺は、学食にやってきていた。
昼時には学生達でごった返す学食も、この時間帯は比較的空いている。
ちらほらと見える学生達も、それぞれ友人と談笑したり、ノートパソコンを開いて課題に取り組んだりと思い思いに時間を潰していた。
窓際の席に腰を下ろし、俺は小さく息を吐く。
本来なら、この空き時間も図書館で読書に費やしたい所なのだが、今日はそうも言っていられない事情があった。
学食の席に座って俺が開いたのは文庫本……ではなく、アルバイトの情報誌だった。
親からの細やかな仕送りと、週に何度か入っている居酒屋のバイトで食い繋いではいるのだが、常に俺の懐事情は寂しい状態が続いている。
一人暮らしというのは、想像以上に金が掛かる。
家賃、食費、光熱費、通信費。
それに加えて、俺の場合は書籍代という大きな出費が存在していた。
電子書籍へ移行すれば多少は節約できるのかもしれない。
だが、やはり紙の本を手に取る感覚は捨て難い。
ページを捲る音。紙とインクの匂い。本棚へ並べた時の満足感。
それらを考えると、どうしても紙媒体を選んでしまうのだ。
結果として、俺の財布は常に瀕死状態だった。
先日も、新刊コーナーへ立ち寄ったのが運の尽きだった。気が付けば予定になかった文庫本を三冊抱えてレジへ向かっていたのである。あれは不可抗力だ。表紙とあらすじが、俺を呼んでいた。
そんな訳で、そろそろ新しいバイトを探さねばならない。
今より少し時給が高い所はないかと、バイト情報誌を開こうとしていた俺に声が掛かったのは、そんな時だった。
「あら、河本君じゃない」
「……お疲れ様です」
聞き覚えのある声に顔を上げる。そこに立っていたのは、アリス先輩だった。
相変わらず、何度見ても整った顔立ちをしている。長い黒髪がさらりと肩越しに流れ、その姿は大学構内というより雑誌の一ページから抜け出してきたような雰囲気すら感じさせた。
そんな人が学食に現れたものだから、周囲の視線が少しだけこちらへ向いている。
本人は全く気にしていない様子で、俺の横にある席へと腰を下ろした。
それからテーブルの上に広げられているバイト情報誌を見て、首を傾げる。
「なによ、バイト探してるの?」
「まあ、はい。貧乏な一人暮らしの大学生なもんで」
「ふーん、そうなの。そんな事より、私に薦める為の本は持ってきたの?」
俺にとっては死活問題なのだが、アリス先輩にとってはどうでも良いらしい。
そんな事より、早く本を寄越せとその目が言っていた。
自分から聞いてきた癖に……なんて文句は心の中にしまっておく。
昨日、あれだけ十角館の殺人について熱く語っていた人だ。書薦の儀に対して本気なのだろう。
俺は苦笑しながら、足元に置いてあったバッグを漁る。その中から取り出したのは、一冊の文庫本だった。
昨日、家でアリス先輩に紹介しようと選んだ【神様のメモ帳】。
数あるライトノベルやライト文芸の中でも、特に思い入れの強い作品だ。
アリス先輩に文庫本を手渡すと、彼女はしばらく表紙を見つめたまま固まっていた。
「……表紙に可愛らしい女の子が描いてあるわ」
「まあ、ライトノベルって、そういうもんですからね」
「はっ! まさか、この女の子にあんなことやこんなことをする小説なんじゃないでしょうね! だとしたら、セクハラで訴えるわ」
「そんなもんを薦めるか!」
思わず強めにツッコミを入れてしまう。するとアリス先輩は、クスリと笑みを浮かべた。
「冗談よ」
どうやら俺の反応を楽しんでいたらしい。この人、結構人をからかうタイプだな。
「まあ、あまり期待はしていないけど、折角薦めてくれたのだし読んでみるわ。じゃあね」
そんな捨て台詞を残して、アリス先輩は俺が渡した文庫本を手に、学食から颯爽と去っていった。
まるで嵐のような人だ。去っていく後ろ姿を見送りながら、俺は小さく息を吐く。
あの人も、俺と同じで暇だったのだろうか。俺の一つ上ということは三年。就活等で忙しい時期の筈なのだが……。
いや、あの人の場合は、単純に本への情熱が勝っているだけかもしれない。十角館の殺人について語っていた時のアリス先輩は、本当に楽しそうだった。
そんな彼女が、俺の薦めた作品をどう評価するのか。正直、かなり気になっていた。
ライトノベルというジャンルに偏見を持っていた彼女が、読み終えた後にどんな感想を抱くのか。それを考えるだけで、少し胸が高鳴る。
俺は閉じたままになっていたバイト情報誌へ視線を落とした。
うん、やっぱり今はこっちに集中できそうにない。三限の授業が終わったら、あの書館を訪れてみよう。
そんな事を考えながら、俺は自販機で買った缶コーヒーへ口を付けるのだった。




