書薦の儀:文倉アリス①
書薦の儀を進める上で、知っておかなければならない事がある。
それは、各人の趣味趣向だ。
愛書家として書物を愛する気持ちは同じなれど、人によって好みは変わってくる。
俺が小説でライトノベルやライト文芸というカテゴリーを特に好むように、書館のメンバーにもそれぞれ好みが存在する筈だ。
アリス先輩が俺にどういった本を読むのかと尋ねてきた意図も、そこにあったのだろう。
団欒の間での話が終わった後、俺はアリス先輩に連れられて書架の迷宮を歩いていた。
先ずはアリス先輩の方から、書架にある本を俺に薦めてくれるらしい。
「ちなみに、アリス先輩はどういった本が好きなんですか?」
無言で書架を眺めながら横を歩くアリス先輩に、俺はヒアリングも兼ねて質問を投げた。
「私が好きなのはミステリよ。その中でも特に、本格と呼ばれているジャンルには目がないわ」
本格ミステリ。
論理的な謎解きや、知的なゲーム性を重視したミステリ作品だ。
フーダニット――いわゆる、犯人は誰かという点を重視している作品が多いのが特徴的だろうか。更に言えば、読者には犯人を推理するための情報が提示されている、という点も本格ミステリの特徴として挙げられる。
「なるほど……本格ですか。ミステリというジャンルの中で、ホワイダニットを重視した作品についてはどう思いますか?」
俺の言葉に、アリス先輩はニヤリと笑った。
どこか嬉しそうに見えるのはきっと、ミステリ談義に華を咲かせる事が出来るからだろうと推察する。
「嫌いじゃないわよ。その出来事がなぜ起きたのか、その動機が解明されていく過程も面白いわ。本格じゃなければ読まないって事はないし、面白ければ何でも良いのよ」
どうやら本格やフーダニットでなければならない、という訳でもないらしい。
それであれば、アリス先輩に薦められる作品の幅が大きく広がるなと感じた。
「ホワイダニットなんて言葉が出てくる辺り、河本君もミステリは読むの?」
「そうですね、読みますよ。ライトノベルというカテゴリーは、ジャンルが多岐に渡りますからね。その中には、ミステリも多く存在しますよ」
「へえ……ちょっと興味が沸いたわ」
どうやらアリス先輩は、本当にミステリというジャンルには目がないようだ。今の説明だけで、ライトノベルに少しでも興味を抱いてもらえているのだから。
ミステリというジャンルに縛りはあるものの、彼女に薦める本の選定は、そんなに難儀しないかもしれない。
「うーん、そうね……ミステリを読むのなら、流石に十角館は薦められないわよね。ミステリを語る上では欠かせない、あの名作を読んでない筈ないだろうし」
「……」
俺は無言で、アリス先輩から目を逸らす。
まるで信じられない物を見るような視線が、彼女から突き刺さってくるのを感じた。
「……噓でしょ?」
「いや、勿論知らない訳はないんですが……あまりに知名度が高すぎて中々手が出ない事ってありません?」
「無いわ」
一蹴されてしまった。
読書家にはよくある現象だと思ったのだが、俺だけなのだろうか。
十角館の殺人。
あまり本を読む習慣の無い人ですら、その名前くらいは聞いた事があるのではないだろうか。
アリス先輩が言ったように、ミステリを語る上で必ずと言って良い程に名前が挙がる程の、傑作中の傑作として知られている作品だ。
勿論、いつか読もうと思ってはいたのだ。
だが、本とは巡り合うもの。
様々な本との出会いが、いずれ来るその時を先延ばしにしてしまっていた。
ただ、それだけの事だ。
そんな俺を、アリス先輩は未知の生命体でも見るような顔で見続けている。
「十角館の殺人。そして、そこから続く館シリーズは、私が最も敬愛する作品よ。それを、読んだ事がないですって?」
「えっと、はい。すみません、機会がなかったもので」
「読んで」
「え?」
「読んで! 私とミステリ談義をするのは、それからにして!」
そう言ってアリス先輩は、書架から一冊の文庫本を抜き出し、俺の方に差し出してくる。
満月の下で静かに佇む十角形の館。その表紙が、俺に向けられていた。
深い群青色の地に、静かに浮かび上がる十角形の館のシルエット。
まるで夜の闇に溶け込むように黒く沈み、そこに確かに存在しながらも、どこか現実離れした印象を与えている。
タイトルは端正な金文字で刻まれ、淡く鈍い光を放っていた。
館の窓にはうっすらと灯りがともり、静かな夜の訪れを思わせる。
しかし、その光が温かい安息を示しているのか、それとも不穏な出来事の予兆なのか――表紙を眺めるだけで、物語の奥に潜む謎がゆっくりと手招きをしているような錯覚を覚えた。
これもまた、巡り合わせなのだろう。遂に、この時がやってきたのだ。
アリス先輩から【十角館の殺人】を受け取り、俺は近くに設置してあった椅子に深く腰を沈める。
「読み終わったら感想を聞かせなさい」
「随分と熱心ですね」
「当然でしょ。良いミステリを読んだ人間には、その感想を語る義務があるんだから」
そう言って胸を張るアリス先輩は、どこか楽しそうだった。
ミステリを語る時の彼女は、最初に会った時よりずっと表情が柔らかい。きっと、本当に好きなのだろう。
ページを開く。紙の擦れる音が静かに響いた。
そして俺は、ゆっくりと物語の中へ沈み始めた。




