未完の書⑨
本を読むことは、誰かと出会うことに似ている。
紙の上に綴られた言葉が、まるで遠くにいる誰かの声のように届く。
静かに。けれど、確かに心の奥へと。
思えば、これまでどれだけの本を読んできただろう。
装丁に惹かれて手に取った一冊。
時間を忘れて夢中になり、ただページを捲り続けた夜。
悠久の書館で皆と出会い、数え切れないほどの物語を薦め合ってきた。
その度に、新しい世界が開かれた。知らなかった価値観に触れ、心を揺さぶられた。
そうして出会った本の数々は、今も俺の中に残り続けている。
ふとした瞬間に、物語の一節を思い出すことがある。登場人物の言葉に、背中を押されたこともあった。結末に涙した夜さえ、今では大切な記憶だ。
俺にとって本とは、ただの紙とインクではない。時を越えて、自分の中で生き続ける、かけがえのない宝物だった。
そして――イリスが書いた物語もまた、その一つになった。
様々な困難を乗り越えながら、それでも確かな愛を見つけ、幸福の中で生涯を終えた少女。
彼女のことを思い出すだけで、今でも胸が締めつけられるような感覚がある。
あの少女は、イリス自身の願いから生まれた存在だったのだろうか。
だとしたら、作中で少女を愛し続けた、あの盲目の青年のように、俺もイリスの傍にいられるだろうか。
そんなことを考えながら、俺は書館の扉を開いた。扉の先には、雪村さんが立っていた。彼女はいつものように丁寧に一礼すると、「あちらへ」と言って、団欒の間がある方へ手を向ける。
俺は軽く頷き、そのまま書架の迷宮へ足を踏み入れた。書架の合間を抜け、団欒の間へ辿り着く。
そこには、アリス先輩とイリスの姿があった。二人は、部屋の中央で静かに抱き合っていた。誰も入り込めないような、姉妹だけの空間。そんな空気が、そこには流れていた。
「……えっと、邪魔ですよね?」
「そうね、邪魔よ。あっち行って」
「お、お姉ちゃん……」
「はい、すみませんでした。出直します」
俺は素直に退散し、雪村さんの待つ場所まで戻る。そんな俺を見て、雪村さんは口元に手を当て、小さく笑った。
「申し訳ございません、河本様。もう少しタイミングを見計らうべきでしたね」
「いえ、大丈夫です。二人の話が終わるまで待ってますよ」
そう言って、二階の回廊へ目を向ける。そこには杉山さんの姿があった。彼は書架の前に立ったまま、本を読んでいる。
視線に気づいたのか、本から顔を上げた杉山さんが、こちらへ軽く手を振った。俺もそれに応えながら、ここ最近の出来事をぼんやりと思い返す。
あの日、イリスが書いた物語を最後まで読み終えた後、俺とアリス先輩はほとんど丸一日眠り続けたらしい。そしてアリス先輩の予想通り、未完の物語によって引き起こされていた症状は、目覚めた時には綺麗さっぱり消えていた。
俺と同時に目を覚ましたアリス先輩は、イリスの本と原稿の束を抱えたまま、雪村さんを連れて部屋を後にした。
去り際に、たった一言。
「世話になったわね」
そう残して。まるで数日間の騒動など最初から存在しなかったかのように、あっさりと。
それから数日後、俺は雪村さんへ連絡を取り、この書館へやってきた。
とにかく、イリスと話がしたかったのだが、先客がいた……という訳だ。
雪村さんと話しながら待っていると、やがてアリス先輩が団欒の間から出てきた。
その目元が少し赤いのは、きっと気のせいではない。
「イリスが書いたあの小説、ちゃんと本にするから」
鼻をすすりながら、アリス先輩は開口一番にそう言った。
「あの本に、ページを足すんですか?」
「ええ。あんなに素晴らしい物語なんですもの。原稿用紙のままなんて勿体ないわ。ちゃんと本という形にしないと。完成したら、この書架に並べましょう。ここのメンバーが、いつでも読めるようにね」
それには、心から賛成だった。だから俺は、ただ静かに頷いた。
◇ ◇ ◇
アリス先輩と雪村さんの手によって、イリスの本には新たなページが綴じられた。
未完のまま止まっていた物語は、ようやく一冊の本として完成したのだった。
本の完成を誰よりも心待ちにしていた雪村さんと杉山さんも、順番にイリスの物語を読んだらしい。二人は内容に深く感動したようで、しばらくの間、イリスのことを「先生」と呼んでは困らせていた。
もしかしたら、いつか本当にそう呼ばれる日が来るのかもしれない。もっとも、それを決めるのはイリス自身なのだろうけれど。
皆で話し合った結果、その本は源六さんの部屋にある書架へ収められることになった。
本の続きを読むことなく、病によってこの世を去ってしまった源六さん。彼のことを思い、イリス自身がそうしたいと提案したのだ。
元々、未完だった頃からあの本は源六さんの部屋に置かれていたらしい。部屋に鍵が掛けられていたのも、あの本を誰にも読ませないためだったのだという。
本の保管場所について話し合っていた時、イリスは静かに、こんなことを語った。
「お爺様は、私に続きを書いてくれって懇願しました。でも……私はそんなお爺様を見て、急に怖くなってしまったんです。それで、続きを書けなくなってしまった。お爺様の最後の願いを、私は叶えられませんでした……それを、ずっと後悔していました」
その言葉を聞き、イリスを慰めるように杉山さんが口を開く。
「大丈夫だよ。源六先輩も、創作に携わった人間だからね。物語の続きを書けなくなる苦しさがどんなものか、きっと誰よりも分かっていたはずだ」
杉山さんの言葉を聞いた瞬間、イリスの瞳から涙が溢れ出した。そして彼女は、震える声で続けた。
「お爺様……最後に、私へこう言ったんです。『無理して書く必要はない。苦しいなら、筆を置いてもいい』って……もうほとんど力も入らないような手で、私の頭を撫でながら……」
源六さんが、イリスへ残した最後の言葉。それを聞いた杉山さんと雪村さんは、静かに目を潤ませていた。
けれど、俺とアリス先輩は違った。正直、驚きを隠せなかった。
俺達は知っている。あの未完の書が、人にどれほど強烈な渇望を与えるのかを。
そんな状態にありながら、それでも「続きを書かなくていい」と言えた源六さんの精神力に空いた口が塞がらなくなった。
「……流石はお爺様ね。本当に、尊敬するわ」
ぽつりと零れたアリス先輩の呟きは、隣にいた俺にだけ聞こえた気がした。
古びた書架の前に、俺達五人は並んで立った。源六さんが生前使っていた部屋は、静かな空気に包まれている。まるで彼の時間だけが、今もこの部屋に残り続けているかのようだった。
イリスがゆっくりと、書架へ手を伸ばした。そこには、源六さんが愛した数多くの本が並んでいる。どの本も背表紙が擦り切れ、何度も読み返されてきたことが伝わってくる。
その中へ、彼が最後まで読むことのできなかった、一冊の本が加えられようとしていた。
――未完の書。
いや、もうその呼び名は相応しくない。物語は、確かに完結したのだから。
イリスは静かに、本を書架の一角へ収めた。その指先は、ほんの少しだけ震えていた。
けれど不思議なことに、その本は最初からそこにあるべきだったみたいに、自然に馴染んでいた。
沈黙の中で、俺達はしばらくその本を見つめ続ける。やがて、イリスがぽつりと呟いた。
「……お爺様、喜んでくれるかな」
その声は、どこか幼かった。まるで、大好きな家族に褒めてもらいたくて仕方がない子供みたいに。
俺はそっと、イリスの手を握る。すると彼女も、応えるようにその手を握り返してきた。
窓から、柔らかな陽の光が差し込んでいる。書架へ収められた本の背表紙が、その光を優しく反射していた。
未完だった物語は、ようやく終わりを迎えた。そして同時に、俺達の新しい日々が、ここから始まっていくような気がした。
俺とイリスの物語は、まだ終わらない。これから先も、彼女の隣で、彼女の紡ぐ物語を支え続けていこう。
そう誓いながら、俺はイリスの手を静かに握り続けていた。




