↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
31/31

エピローグ

 本には、人を変える力がある。


 それは価値観かもしれない。人生そのものかもしれない。


 たった一冊との出会いが、誰かの世界を塗り替えてしまうことだってある。


 思えば俺自身、これまで数え切れないほどの物語に心を揺さぶられてきた。


 登場人物の言葉に救われた夜もあった。結末に打ちのめされ、しばらく立ち直れなかったこともある。逆に、読み終えたあと胸の奥に小さな灯火が残り、それが長い間、自分を支えてくれていたこともあった。


 そして今、俺の中で最も強烈な痕跡を残しているのは、間違いなくイリスが書いたあの物語だった。


 魅了の瞳を持つ少女の物語。あの未完の書は、一度は俺を狂わせた。それと同時に、どうしようもないほど深く、俺の心に刻み込まれてしまった。


 だからだろうか、物語が完結した今でも、胸の奥に小さな棘のような違和感が残り続けていた。一度は無視しようとしたその感覚は、日を追うごとに存在感を増していく。


 ふとした瞬間に、胸の奥から浮かび上がってくる。水面下に沈んでいた何かが、静かにこちらを見上げているように。


 夕陽が差し込む部屋の中で、俺は万年筆の置かれた机をじっと見つめていた。長年使い込まれた机の表面には、細かな傷や擦れが刻まれている。

 

 夕焼けの光がその木目を柔らかく照らし、どこか幻想的な陰影を生み出していた。


 文倉源六の部屋。


 そこで俺は、一人静かに考え込んでいた。


 考えているのは、もちろんイリスが書いたあの物語のことだった。


 魅了の瞳を持つ少女の人生。


 確かに、感動的な物語だったと思う。誰が読んでも、美しい結末だったと感じるだろう。


 なのに……どうしても、拭えない。胸の奥に引っ掛かったままの、得体の知れない違和感が。


 俺は書架から、イリスの本を取り出した。


 何度読み返しても、結末は変わらない。当然だ。もう完結した物語なのだから。


 それでもページを捲りたくなるのは、まだ何かを探しているからなのかもしれない。


 そんなことを考えていると、不意にガチャリとドアの開く音がした。振り返ると、丁度イリスが部屋へ入ってくるところだった。


「あ、河本先輩。ここにいたんですね」


 イリスは真っ直ぐ俺の方へ歩いてきて、書架の前で立ち止まる。それから、俺の手元にある本を覗き込んだ。


「……また読んでるんですか?」


 少し照れたように訊ねるイリスに、俺は小さく頷く。


「うん。また読みたくなっちゃって」

「えっと……そんなに気に入ってくれたんですね。嬉しいです」


 長い前髪を指先で摘まみながら、イリスが頬を赤くして俯く。いつもの、愛らしい仕草だった。抱きしめたい衝動をどうにか抑えながら、俺は静かに口を開く。


「ねえ、イリス。変なこと聞いてもいい?」

「はい、なんですか?」


 首を傾げるイリスを見つめながら、俺は胸の奥に残っていた疑問を言葉にした。


「この物語の結末って、本当にイリスが書きたかったものなの?」

「――ふふっ」


 一瞬だけ、イリスの瞳が妖しく光ったような気がした。


 ……幻覚だったのだろうか。次の瞬間には、彼女はきょとんとした表情でこちらを見返しているだけだった。


「何を言ってるんですか、先輩。その物語は、杉山さんにアドバイスをもらいながら、私がちゃんと最後まで書き上げた作品ですよ?」


 イリスは少し困ったように笑う。


「そもそも、私一人じゃ完結させられなかった物語なんです。書きたかった結末かどうか……それ以前の問題ですよ」

「……そっか。そうだよね」


 頷きながら、俺は本を閉じた。そして元あった場所へ戻す。


「変なこと聞いてごめん。下でお茶でも飲もうかな……イリスも来る?」

「……いえ、私はもう少しここにいます」

「そっか」


 俺はそのままドアの方へ歩き出す。そしてドアノブへ手を掛けた、その瞬間だった。


「ねえ、河本先輩」


 呼び止める声が、妙に艶めいて聞こえた。


 振り返る。窓の向こうでは、傾きかけた夕陽が燃えるような橙色の光を部屋へ投げ込んでいた。その光の中に立つイリスは、まるで夢の中の存在みたいだった。


 光と影の狭間で揺れるその姿は現実離れしていて――それなのに、どうしようもなく鮮明だった。


 胸の奥が、ざわりと波立つ。


「もし別の結末があったとしたら、河本先輩はそれを読みたいと思いますか?」

「うん。読みたいと思うよ」

「その結末を読んだら……先輩は、私以外の人を愛せなくなってしまうかもしれません。それでも、読みたいですか?」

「うん。それでも読むよ」


 即答した。イリスは少し驚いたように目を丸くしたあと、クスクスと小さく笑った。そして俺へ背を向け、ゆっくりと源六さんの机へ近づいていく。


 机の上に置かれていた万年筆を、そっと手に取る。その姿を見た瞬間、不思議な確信が胸に芽生えた。


 イリスは、また物語を書く。それがどんな物語なのか、俺には分からない。


 優しい夢を描くのか。静かな狂気を孕むのか。それとも、誰かを深く愛する物語になるのか。


 彼女の紡ぐ言葉が、次に俺へ何をもたらすのかも分からない。


 心が揺さぶられるのか。世界の見え方すら変わってしまうのか。それとも……愛の鎖に縛られるのか。


 何一つ分からないまま、それでも俺は、きっとまた彼女の物語を読むのだろう。


 彼女が見ている世界を知りたい。彼女が抱えている孤独を覗いてみたい。彼女の言葉の中に、触れていたい。


 たとえ、その先にどんな結末が待っていたとしても。


 なぜなら俺はもう、文倉イリスという作家を、どうしようもなく愛してしまっているのだから。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。