エピローグ
本には、人を変える力がある。
それは価値観かもしれない。人生そのものかもしれない。
たった一冊との出会いが、誰かの世界を塗り替えてしまうことだってある。
思えば俺自身、これまで数え切れないほどの物語に心を揺さぶられてきた。
登場人物の言葉に救われた夜もあった。結末に打ちのめされ、しばらく立ち直れなかったこともある。逆に、読み終えたあと胸の奥に小さな灯火が残り、それが長い間、自分を支えてくれていたこともあった。
そして今、俺の中で最も強烈な痕跡を残しているのは、間違いなくイリスが書いたあの物語だった。
魅了の瞳を持つ少女の物語。あの未完の書は、一度は俺を狂わせた。それと同時に、どうしようもないほど深く、俺の心に刻み込まれてしまった。
だからだろうか、物語が完結した今でも、胸の奥に小さな棘のような違和感が残り続けていた。一度は無視しようとしたその感覚は、日を追うごとに存在感を増していく。
ふとした瞬間に、胸の奥から浮かび上がってくる。水面下に沈んでいた何かが、静かにこちらを見上げているように。
夕陽が差し込む部屋の中で、俺は万年筆の置かれた机をじっと見つめていた。長年使い込まれた机の表面には、細かな傷や擦れが刻まれている。
夕焼けの光がその木目を柔らかく照らし、どこか幻想的な陰影を生み出していた。
文倉源六の部屋。
そこで俺は、一人静かに考え込んでいた。
考えているのは、もちろんイリスが書いたあの物語のことだった。
魅了の瞳を持つ少女の人生。
確かに、感動的な物語だったと思う。誰が読んでも、美しい結末だったと感じるだろう。
なのに……どうしても、拭えない。胸の奥に引っ掛かったままの、得体の知れない違和感が。
俺は書架から、イリスの本を取り出した。
何度読み返しても、結末は変わらない。当然だ。もう完結した物語なのだから。
それでもページを捲りたくなるのは、まだ何かを探しているからなのかもしれない。
そんなことを考えていると、不意にガチャリとドアの開く音がした。振り返ると、丁度イリスが部屋へ入ってくるところだった。
「あ、河本先輩。ここにいたんですね」
イリスは真っ直ぐ俺の方へ歩いてきて、書架の前で立ち止まる。それから、俺の手元にある本を覗き込んだ。
「……また読んでるんですか?」
少し照れたように訊ねるイリスに、俺は小さく頷く。
「うん。また読みたくなっちゃって」
「えっと……そんなに気に入ってくれたんですね。嬉しいです」
長い前髪を指先で摘まみながら、イリスが頬を赤くして俯く。いつもの、愛らしい仕草だった。抱きしめたい衝動をどうにか抑えながら、俺は静かに口を開く。
「ねえ、イリス。変なこと聞いてもいい?」
「はい、なんですか?」
首を傾げるイリスを見つめながら、俺は胸の奥に残っていた疑問を言葉にした。
「この物語の結末って、本当にイリスが書きたかったものなの?」
「――ふふっ」
一瞬だけ、イリスの瞳が妖しく光ったような気がした。
……幻覚だったのだろうか。次の瞬間には、彼女はきょとんとした表情でこちらを見返しているだけだった。
「何を言ってるんですか、先輩。その物語は、杉山さんにアドバイスをもらいながら、私がちゃんと最後まで書き上げた作品ですよ?」
イリスは少し困ったように笑う。
「そもそも、私一人じゃ完結させられなかった物語なんです。書きたかった結末かどうか……それ以前の問題ですよ」
「……そっか。そうだよね」
頷きながら、俺は本を閉じた。そして元あった場所へ戻す。
「変なこと聞いてごめん。下でお茶でも飲もうかな……イリスも来る?」
「……いえ、私はもう少しここにいます」
「そっか」
俺はそのままドアの方へ歩き出す。そしてドアノブへ手を掛けた、その瞬間だった。
「ねえ、河本先輩」
呼び止める声が、妙に艶めいて聞こえた。
振り返る。窓の向こうでは、傾きかけた夕陽が燃えるような橙色の光を部屋へ投げ込んでいた。その光の中に立つイリスは、まるで夢の中の存在みたいだった。
光と影の狭間で揺れるその姿は現実離れしていて――それなのに、どうしようもなく鮮明だった。
胸の奥が、ざわりと波立つ。
「もし別の結末があったとしたら、河本先輩はそれを読みたいと思いますか?」
「うん。読みたいと思うよ」
「その結末を読んだら……先輩は、私以外の人を愛せなくなってしまうかもしれません。それでも、読みたいですか?」
「うん。それでも読むよ」
即答した。イリスは少し驚いたように目を丸くしたあと、クスクスと小さく笑った。そして俺へ背を向け、ゆっくりと源六さんの机へ近づいていく。
机の上に置かれていた万年筆を、そっと手に取る。その姿を見た瞬間、不思議な確信が胸に芽生えた。
イリスは、また物語を書く。それがどんな物語なのか、俺には分からない。
優しい夢を描くのか。静かな狂気を孕むのか。それとも、誰かを深く愛する物語になるのか。
彼女の紡ぐ言葉が、次に俺へ何をもたらすのかも分からない。
心が揺さぶられるのか。世界の見え方すら変わってしまうのか。それとも……愛の鎖に縛られるのか。
何一つ分からないまま、それでも俺は、きっとまた彼女の物語を読むのだろう。
彼女が見ている世界を知りたい。彼女が抱えている孤独を覗いてみたい。彼女の言葉の中に、触れていたい。
たとえ、その先にどんな結末が待っていたとしても。
なぜなら俺はもう、文倉イリスという作家を、どうしようもなく愛してしまっているのだから。




