未完の書⑧
もう、何度目か分からない。アリス先輩と顔を寄せ合い、本に書かれた文字を目で追っていく。
その行為を、何度繰り返したのか分からない。数えることは、もうやめてしまった。来る日も来る日も、ずっと同じことの繰り返しだった。
夜中にふと目が覚めると、ベッドで眠っていたはずのアリス先輩が、スマホの光を頼りに一人で本を読んでいることもあった。その姿を見つけると、俺もすぐにソファから起き上がり、彼女の横で一緒に文字を追った。
その逆もあった。俺が一人でイリスの本を読んでいる時には、アリス先輩がいつの間にか隣に並んでいた。
そんなことを、何度も何度も繰り返した。
窓の外では、いつの間にか雨が降り始めていた。薄暗い空から落ちる雨粒が、窓ガラスを静かに打つ。けれど、その音すら遠く聞こえるほど、俺とアリス先輩は物語の世界に囚われていた。
続きが読みたいという渇望が、そうさせているのだろうか。
雪村さんは俺とアリス先輩の世話をしつつも、イリスの状況について教えてくれた。杉山さんから定期的に連絡をもらっているらしい。
どうやらイリスは、寝る間も惜しんで物語の続きを書いているようだった。
けれど、その報告だけでは、この渇きは癒えない。それは、アリス先輩も同じようだった。
食事を出されても、数口食べてはまた本へ戻る。 睡眠は浅く短く、夜中に何度も目を覚ましては、隣にいるアリス先輩と本を開いた。
それでも、まだ足りなかった。
もっと。もっと読まなければならなかった。続きを、知りたい。いや、違う。続きを知らなければ、生きている意味がなかった。
本の外にいる時間、自分が何者なのかさえ曖昧になっていく。そんな感覚に、何度も襲われた。
だが、その続きを書けるのはイリスしかいない。彼女が物語を完結させなければ、俺達はずっとここで足踏みを続けるしかなかった。
だからこそ、俺達は待っていた。この渇きを癒してくれる、たった一人の存在を。
◇ ◇ ◇
玄関のチャイムが鳴った。本を読んでいたアリス先輩と俺は、ゆっくりと顔を上げる。
ぼんやりとしていた視界に、一瞬だけ意識が引き戻されるような感覚があった。夕飯の準備をしていた雪村さんが、手を拭きながら玄関へ向かう。
俺達はただ床に座ったまま、その様子を眺めていた。
「……お久しぶりだね、真白ちゃん」
聞き慣れた声が、静かに響いた。聞くだけで落ち着くような、穏やかな声。玄関の外に、杉山さんの姿があった。
ぺこりと頭を下げた雪村さんに迎え入れられ、杉山さんがいつもの温厚な笑みを浮かべたまま、ゆっくりと部屋へ入ってくる。
杉山さんはその右手に、分厚い原稿用紙の束を抱えていた。
俺も、アリス先輩も。その原稿用紙から、目を離せなかった。
「イリスお嬢様はどうですか?」
「イリスちゃんは、書館で眠っているよ。ここしばらくは、まともに寝ていなかったからね。これを書き終えた後、倒れるようにして眠ったよ」
そう言いながら、杉山さんは俺とアリス先輩の目の前に、原稿用紙の束を差し出した。
手を伸ばしたのは、ほとんど同時だった。俺とアリス先輩は杉山さんから奪い取るようにして原稿用紙の束を受け取ると、すぐに床へ置いた。
そして、もう何度もそうしてきたように身を寄せ合いながら、物語の続きが書かれている原稿用紙へ視線を落とす。
文字を追う。本当の愛を求め、それを探し続けた、魅了の瞳を持つ少女。彼女はやがて、一人の盲目の青年と出会い、恋に落ちていった。
自らの力ゆえに生まれる困難。人々の執着。恐れ。拒絶。それらを乗り越えながらも、二人は少しずつ純粋な愛を育んでいく。
そして少女は、ようやく探し求めていた本当の愛に包まれながら、その生涯を終える。物語は、そんな結末だった。
読み終えるまで、どれくらいの時間が経ったのかは分からない。最後のページを読み終えた瞬間、魅了の瞳によって絡め取られていた呪縛が、静かに解けていくような感覚があった。
ふと、隣にいるアリス先輩と目が合う。彼女も同じなのだろう。その瞳には、先ほどまで感じられなかった確かな意思の光が戻っていた。
とても心に残る、素晴らしい物語だった。その余韻に包まれながら、俺はそのまま床へ突っ伏した。
直後、柔らかな感触が背中を覆う。アリス先輩も倒れたのだなと、ぼんやりした頭で思った。
そして俺とアリス先輩は重なり合ったまま、唐突に襲ってきた睡魔へ身を委ねる他なかった。




