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未完の書⑦

 朝が来たのかどうかも、もう分からない。


 カーテンは閉め切られ、部屋の隅に積まれた本の影が、薄暗い空間をさらに沈ませている。


 時計の針は動いているはずなのに、時間の流れがまるで実感できなかった。


 ベッドの上に座ったまま、震える指先でページを捲る。目の前にあるのは、あの未完の書。もう何度読んだのかも覚えていない。文章はとうに頭へ焼き付いているはずなのに、それでもページを捲る手だけは止まらなかった。


「……続きが、読みたい」


 喉が渇いている。腹も減っている。それなのに、何かを口にしようという気力が湧かない。


 最近は、イリスが毎日ここへ来て、半ば無理やり食事を摂らせてくれていた。そうでもしなければ、俺は水すら飲まなくなっていたと思う。


 イリスの本を読んでから、どれくらい時間が経ったのだろう。大学にも、しばらく行っていない。何か大切な予定があった気もする。けれど、それを思い出そうとする気力すら、もう残っていなかった。


 バイトにも顔を出していない。スマホには雪村さんから何件もの着信履歴が残っている。けれど、それすら今はどうでも良かった。


 最初は、ただ夢中になっていただけだったはずだ。イリスが書いたこの物語に、ただ強く惹かれていただけ。でも、今は違う。物語そのものに依存している。


 気づけば、作中の少女の瞳が頭の中で何度も揺らめいていた。ページを閉じても、その姿が瞼の裏へ焼き付いて離れない。作中の少女の声と、現実のイリスの声。二つが溶け合うように、耳元で囁き続ける。


 ――愛して。


 ――ずっと、わたしだけを。


 胸が締め付けられる。息が苦しい。この本を閉じてしまったら、彼女たちの存在が消えてしまう気がした。


 いや、それだけじゃない。この本を読まなくなった瞬間、自分という存在そのものが空っぽになってしまう。そんな恐怖すら感じていた。


 いつからか、まともに眠れなくなっていた。横になれば、あの瞳が夢の中まで追いかけてくる。うなされるように目を覚まし、気づけばまた本へ手を伸ばしている。


 けれど、本当に恐ろしいのは、物語の中の少女とイリスの姿が重なって見えることだった。


 ページを捲るたび、少女の輪郭へイリスの面影が滲んでいく。その瞳の奥へ、吸い込まれていくような感覚。


 もし彼女が望むのなら、自分の全てを差し出してしまっても構わない。そんな衝動が、日に日に強くなっていく。


 これは恋なのだろうか。それとも、ただの狂気なのだろうか。


 答えを求めるように、俺はまたページを捲る。


 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も。

 何度も。


 ◇   ◇   ◇


 それから、どれほど時間が経ったのか、もう分からなかった。不意に、部屋のドアを激しく叩く音が響く。


 ドンドン、と耳障りな音。けれど俺は、イリスの本を読むことに夢中で、それを無視した。


 やがて、ガチャリと鍵の開く音がする。次の瞬間、勢いよくドアが開かれた。


 そこから差し込んだ外の光が、痛いほど眩しい。


「……っ、眩し……なに?」


 目を細めながら、扉の方へ視線を向ける。そこに立っていたのは、アリス先輩と雪村さんだった。


「……やっぱりね。こんなことだと思ったわ」


 家主である俺の許可など一切気にする様子もなく、アリス先輩は靴のままズカズカと部屋へ入ってくる。その後ろから、私服姿の雪村さんが静かに続いた。


「実家になんて帰ってないじゃない。姉である私に嘘を吐くなんて、これはもうキツい説教が必要ね」


 ぶつぶつと文句を言いながら、アリス先輩は俺の手からイリスの本を奪い取った。


「ちょっ……何するんですか。返してください」

「声に力が入ってないわよ、河本君。それに何、その髭面。似合わないから剃りなさい」

「うるさいな……そんなことより、本を返してくださいよ」

「……まるで人が変わったみたいね。だから言ったのよ、その本は読むなって。今日が何日か、あなた把握してる?」


 そんなこと、どうでもよかった。今はただ、本を返してほしい。それだけだった。


 ふと、雪村さんと目が合う。彼女は何も言わず、ただ心配そうな目でこちらを見つめていた。その視線に晒されて、ほんの少しだけ、頭に靄が掛かったような感覚が薄れる。


「……今、何日なんですか?」

「一月十三日。冬休みなんて、とっくに終わってるわ。大学ももう始まってる」


 年を越していた。その事実に、鈍った思考が僅かに揺れる。


「だというのに、あなたは私が紹介してあげたバイトにも来ず、大学にも顔を出さずに、ここでずっとその本を読んでたって訳? 私も真白も、杉山さんだって、どれだけ心配したと思ってるのよ」


 そんなことを言われても、仕方がない。イリスが書いた物語の魔力から、俺はどうしても逃れられなかった。


「はあ……まさか、ここまでとはね。我が妹ながら、恐ろしい才能だわ。ねえ、河本君。イリスは毎日ここへ来てたのよね?」

「……そうですね。だから、その本を返してください」

「断るわ。イリスが来たら話をする。大丈夫よ、河本君。作戦なら考えてあるから、私に任せなさい。感謝しなさいよ、あなたをその状態から救ってあげるんだから。それまでは――真白、何か栄養のあるものを作ってあげて」

「かしこまりました」


 結局、アリス先輩は本を返してくれなかった。奪い返そうとしたが、身体にまるで力が入らない。思っていた以上に、この数週間で体力を消耗していたらしい。


 その後、雪村さんが作ってくれた食事を、半ば無理やり胃へ流し込まされた。何度も本を返してくれと頼んだが、アリス先輩は途中から完全に無視を決め込むようになった。


 そんな時間が過ぎていき――。


 やがて、玄関の外に人の気配がした。イリスが来たのだろう。ぼんやりとそう考えていると、突然アリス先輩が俺をベッドへ押し倒してきた。


「な、何するんですか」


 抵抗する力もなく、口で抗議することしかできない。


「良いから黙ってなさい」


 ゆっくりと、部屋のドアが開いていく。そこに立っていたイリスは、ベッドの上の俺たちを見るなり、驚愕したように目を見開いた。


「……何をしているの?」


 ぞっとするほど冷たい声だった。けれどアリス先輩は、まるで意に介した様子もなく答える。


「あら、イリス。来たのね。ちょっと彼を借りてるわ」


 挑発するような視線を向けるアリス先輩。イリスは、凍てつくような瞳でそれを見返していた。


「……河本先輩から、離れて」

「嫌よ。だって私、河本君のこと好きになっちゃったんだもの」


 そんなの、嘘に決まっていた。こんな状態の俺にだって、それくらい分かる。だが、その言葉を聞いた瞬間、イリスの纏う空気がさらに冷たくなる。


「冗談言わないで」

「冗談じゃないわ。ねえイリス、河本君を私に譲りなさいよ。こんな本で人を幻惑する女より、私の方が良いに決まってるわ」


 アリス先輩は、イリスの本を見せつけるように掲げた。その瞬間、イリスの感情が限界を超えた。


 靴も脱がないまま、アリス先輩へ詰め寄ろうとする。だが、その前へ静かに立ちはだかったのは雪村さんだった。


「お下がりください、イリスお嬢様」


 制止され、イリスの足が止まる。そして、力が抜けたように視線を落とした。


「……そう。真白は、お姉ちゃんの味方なんだ」

「申し訳ございません。しかし、この状況はいけません。これ以上、河本様が壊れていく姿を見過ごすことはできません」

「……二人が悪いんだよ」


 感情の抜け落ちた声だった。


「私に何の相談もなく、二人で飲みに行ったりするから……」

「……はあ? まさか、そんな理由で河本君にこの本を読ませたの?」


 信じられない、とでも言いたげにアリス先輩が眉を寄せる。イリスは涙を滲ませながら顔を上げた。


「そんな理由? その話を聞いた時、私がどれだけ不安になったか分からないの?」

「あのね、私が妹の彼氏に手を出すとでも思った? ただ二人で飲みに行っただけでしょ」

「そんなの分からないよ!」


 イリスが叫ぶ。


「お姉ちゃんは私より綺麗で、明るくて、スタイルも良くて……見れば見るほど魅力的で……河本先輩がお姉ちゃんに惹かれたって、何もおかしくないじゃない!」


 堰を切ったように涙が零れる。


「それに、何が悪いの? 愛した人に、自分が書いた物語を読んでほしいって思うことが、そんなにいけないことなの?」


 その言葉が、俺を突き動かした。禁断症状は消えていない。頭も、身体も、まともじゃない。それでも俺は歯を食いしばり、ベッドから身体を起こした。


「ごめん、イリス。不安にさせたよね。でも安心して。俺の気持ちがイリスから離れることなんてない」


 二人を見ながら、言葉を絞り出す。


「俺は、イリスが薦めた本を読んで涙を流す姿を見て、綺麗だって思った。付き合ってからも、仕草とか表情とか、そういう何気ないものを見るたびに、どんどん好きになっていった」


 息が苦しい。頭が熱い。それでも止まれなかった。


「この本だって、俺が読みたいと思ったから読んだんです。イリスに無理やり読まされた訳じゃない。好きな子が書いた本だから、読みたかった。だから……そこは勘違いしないでください。イリスは悪くない。ただ、自分の書いた物語を薦めてくれただけなんです」


 途中から、誰へ向けて話しているのか、自分でも分からなくなっていた。


 イリスに伝えたい。アリス先輩に理解してほしい。


 そして――。


「だから、その本を返してください。続きを……続きを早く……お願いだから……」


 頭の中がぐちゃぐちゃだった。


 アリス先輩は難しい顔をしている。


 雪村さんは沈痛な面持ちで黙っている。


 イリスは両手で口元を覆い、ぽろぽろと涙を零していた。


「……まったく。黙ってろって言ったのに。これじゃ私の作戦が台無しじゃない」


 ぼやきながら、アリス先輩は本を抱え直す。そして、涙を流すイリスへ向けて言った。


「イリス。もう、何をするべきか分かってるわよね?」

「……無理だよ。何度も続きを書こうとした。でも、その度に手が止まっちゃう」


 震える声で呟くイリスへ、今度は雪村さんが静かに言葉を掛けた。


「イリスお嬢様。書館で雅史様がお待ちです。創作経験のある彼が、全面的にお力添えくださるそうです。きっと、物語を完結へ導けます」


 だがイリスは、無言で首を横に振るばかりだった。そんな彼女へ、アリス先輩が最後の一手を放つ。


「イリス。書くしかないわよ。だって――今から私も、この本を読むんだから」

「……え?」

「アリスお嬢様……それは、お話が違います」


 雪村さんが険しい表情を見せる。


「河本様の症状が、この未完の物語によるものだとしても……完結させれば治る保証など、どこにもありません」

「大丈夫よ。これは未完だからこそ、人を狂わせてるの。続きを渇望させる形でね。だったら最後まで読めば終わるはずよ」

「それは憶測です」

「その時は、その時よ」

「アリスお嬢様!」

「もし私がこの本を読んで、おかしくなったら……」


 アリス先輩は、わざとらしく笑った。


「正常じゃなくなった私と河本君が、一つ屋根の下。間違いくらい、起きるかもしれないわね?」


 その言葉で、イリスの顔から血の気が引いた。


「あなたが続きを書き上げるまで、この家には近づけさせない。真白が見張るわ。だから早く書きなさい。私と河本君の間に、間違いが起こる前にね」


 イリスは蒼白な顔のまま三人を見回し――次の瞬間、扉を勢いよく開け放ち、そのまま部屋を飛び出していった。


「……じゃ、そういう訳だから。真白、あとはよろしく」


 アリス先輩はソファへどさりと腰を下ろし、本を開こうとする。だが、その手を雪村さんが掴んだ。


「なによ?」

「考えは変わりませんか?」

「ええ。知っているでしょ? 私ってシスコンなのよ。愛する妹が書いた本を読んで精神に異常をきたすのなら、それはそれで本望だわ」


 雪村さんの手をやんわりと解き、アリス先輩は再度イリスの本に手をかける。


 それを見て諦めたかのように、雪村さんは静かに目を瞑った。


「……何を言っても、無駄なのですね」

「ええ、諦めなさい」

「分かりました。イリスお嬢様が物語を完結させるまで、お二人のお世話は私が見ます」


 決意の灯った雪村さんの目を見て、アリス先輩は「ありがと、愛してるわ」と言ってから、今度こそ本を開いた。


 そして今度こそ、本を開く。俺はその隣へ座り込み、彼女の手元へ視線を落とした。


「ちょっと、近いんだけど。読みにくいわよ」

「でも……俺も読みたいので。読んでる間だけは、落ち着くんです」

「……はあ。まあ良いわ。言っとくけど、さっきイリスに言ったことは全部嘘だからね。変な気は起こさないでよ」

「そんなの……分かってますよ。だから早く、ページを捲ってください」


 アリス先輩は鼻を鳴らし、ページを捲り始める。そして俺たちは、肩を寄せ合ったまま、イリスの物語の中へ沈んでいくのだった。

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