未完の書④
翌日の朝、一限から講義のあるイリスは、俺より先に部屋を出ていった。
俺は三限からだったので、だらしないなあと思いつつも、出がけにイリスが言った「ごゆっくり」という言葉に甘えて二度寝した。
その後、昨夜の余韻を引きずりながら大学での講義を終え、書館でのアルバイトへ向かう。
その日は雪村さんの指示で、蔵書管理用データベースの更新作業に没頭していた。
あと少しで今日の作業も終わりというところで、団欒の間に雪村さんと杉山さんの二人が姿を見せた。
「河本様、進捗はどうですか?」
「はい、もう少しで終わります」
雪村さんからの問いかけに、俺は端末を操作する手を止めることなく答える。
「そうですか。では、お茶を淹れましょう。雅史様もご一緒にいかがですか?」
「おや、ではご相伴に預かろうかな」
そんな会話の後、雪村さんがお茶を淹れ始めた。杉山さんは席に着き、そんな雪村さんの様子をいつもの温厚な笑みで眺めている。この二人から漂う穏やかな空気につい和みそうになりながらも、俺は残りの仕事を進めていった。
俺が仕事を終えたのと、雪村さんがお茶を淹れ終えたのは、ほぼ同時だった。
俺は雪村さんの手によってテーブルにお茶が並べられるのを横目に、端末をスリープ状態にして杉山さんの隣へ腰を下ろす。
部屋には、ほのかに茶の香りが漂っていた。湯呑の中の緑茶が、静かに湯気を立てている。
俺と杉山さん、そして雪村さん。卓を囲んだ三人が、それぞれ静かに茶を啜った。
程よい苦味と柔らかな甘みが舌を撫で、喉を通り抜けていく。静かで、穏やかな時間がゆっくりと流れていた。
そんなひとときの中で、俺はぼんやりと吹き抜けの先にある、一つの扉を見つめていた。
文倉源六の部屋。
ここでアルバイトを始めてからも、あそこにはまだ一度も足を踏み入れたことがない。
「そういえば、源六さんの部屋って掃除とかはしているんですか?」
なんとなく口にした質問に答えてくれたのは、雪村さんだった。
「月に一度ほどの頻度で、イリスお嬢様が清掃をしているそうです。源六様のお部屋の鍵は、この書館の現所有者であるイリスお嬢様が持っているので」
「源六先輩の部屋か……懐かしいね。昔はよくあの部屋で、創作について語り合ったものだよ。お互いの書いた本を読み合って、つまらんと笑い合ったのも、今では良い思い出だ」
昔を懐かしむように言ってから、杉山さんはお茶を啜った。そういえば、杉山さんは作家を目指していたと以前聞いたことがある。源六さんも、そうだったのか。
「私も、その輪に加わりたかったです。そうすれば、お二人の作品を読むことが出来たのに」
「あはは、あんな駄作を真白ちゃんには読ませられなかったよ。つまらないです、なんて言われたら、僕も源六先輩もきっとショックで数日寝込んでいただろうからね」
そんな会話を、二人は仲睦まじげに繰り広げていた。
穏やかな心を持つ二人だからだろうか。傍で見ているだけで、自然と心が和む。
二人が創作の話で盛り上がっていたからだろうか。俺の脳裏には、昨日イリスから聞いた未完の書についての話が思い返されていた。
だから自然と、俺の口からはこんな質問が漏れていた。
「そういえば、イリスも本を途中まで書いたことがあるって言っていたんですけど、二人は読んだことがあるんですか?」
沈黙が、その場を支配した。二人とも、きょとんとした顔で俺を見ている。
「イリスお嬢様が、執筆を?」
「……イリスちゃんとも、もう長い付き合いだけどね。そんな話は初めて聞いたよ」
その瞬間、俺は失敗したかもしれない思った。俺より遥かに長い付き合いである二人が知らないということは、イリスは意図してその話を伏せていたということだ。
言うべきではなかったかもしれない。そう後悔しても、もう遅かった。
もしかしたら、その感情が顔に出ていたのかもしれない。そんな俺の心情を察したのだろう。雪村さんが口元に人差し指を当てて、こんなことを言ってくれた。
「このお話は、オフレコにしておきましょうか」
雪村さんの提案に、杉山さんも笑顔のまま頷いてくれる。本当に、この二人の優しさには頭が下がる思いだった。
「すみません、そうして頂けると助かります」
「はい、どうかお気になさらず」
優しい笑みと共に、そんな慰めの言葉まで掛けてくれる。優しさの塊みたいな人だと感じた。
「ああ、もしかして……」
ふいに、何かを思い出したように杉山さんが呟いた。
「真白ちゃんは覚えているかな? 源六先輩が亡くなる数日前に、病床で呟いていた言葉を」
「……ええ、覚えています。源六様は、朦朧とする意識の中で続きが読みたいと、何度も口にされていました」
「当時は、何の続きを求めているのか分からなかったんだけどね……もしかしたら」
最後まで言わず、杉山さんは静かに湯呑へ視線を落とした。団欒の間に、静かな沈黙が流れる。けれど、その場にいる全員が、同じことを考えている気がした。
源六さんが最期に口にしていた、続きが読みたいという言葉。
それはもしかして、イリスが途中まで書いていた本のことだったのではないだろうか、と。
「まあ、事実はどうか分からないけどね。イリスちゃんの書いた本が、源六先輩がその続きを渇望するほどの作品だったのなら……是非とも読んでみたいものだね」
きっと雪村さんも同じ気持ちなのだろう。彼女は肯定も否定もしなかったが、イリスが書いた本への興味を隠し切れてはいなかった。




