未完の書③
雪村さんに慰めてもらいながらも、ぎゃあぎゃあと喚き続けていたアリス先輩だったが、やがて電池が切れたように静かになった。
どうやら、かなり酒が回っていたらしい。アリス先輩は雪村さんに抱きついたまま、穏やかな寝息を立てていた。
アリス先輩がそんな状態になってしまったため、俺の歓迎会はそこでお開きとなった。酔い潰れたアリス先輩の世話は、雪村さんが引き受けてくれることになった。
片付けを済ませた後、俺とイリスは二人で書館を後にする。いつの間にか、杉山さんの姿は消えていた。もしかしたら、俺とイリスに気を遣ってくれたのかもしれない。
「家まで、送っていこうか?」
酒で少し火照った身体を冬の風で冷ましながら、俺は小道の出口でイリスに尋ねた。
「あ、その……もう少しだけ、一緒にいたいです」
少し恥ずかしそうに、イリスは指先をもじもじとさせながら、そんなことを言ってきた。可愛いなあ……などと率直な感想を抱きながら、俺は頷いてイリスと手を繋ぐ。
そのまま、彼女の家がある方向とは逆へと歩き始めた。
さて、どこへ向かったものか。少し冷えてしまっているイリスの手を温めるように握りしめながら、俺は様々な選択肢を脳裏に浮かべる。
「えっと、家に来る?」
俺の提案に、繋いでいたイリスの手がぴくりと反応した。顔を見なくても、驚いたのだろうと分かる。
「……お邪魔でなければ」
決まりだった。夜の街灯が淡く照らす歩道を、俺たちは駅まで並んで歩いた。
そこから電車に乗り、降りた先の駅から自宅までは徒歩十五分ほど。
「あの、コンビニに寄っても良いですか?」
イリスからの申し出に、俺は無言で頷いた。急な誘いだったし、何かと入り用なのだろう。
コンビニで買い物を済ませ、家に着いた頃には時刻は二十三時を回っていた。初めて俺の家にやって来たイリスは、しばらく落ち着かなさそうに立ったまま、そわそわと部屋の中を見回していた。
コンビニで買ってきた酒やつまみを袋から取り出し、テーブルの上に並べる。
「飲み直そうか」
俺の提案に、イリスはぎこちなく頷き、ソファの端にちょこんと腰掛けた。
適当に缶を開けて、彼女に手渡す。お互いの缶が軽く触れ合う音。イリスが缶を口元に運んだのを見て、俺も一口含み、喉へ流し込んだ。
「……緊張してる?」
冗談めかして聞くと、イリスはぴくりと肩を揺らし、小さく笑った。
「えっと、バレましたか?」
「あはは、まあね。だいぶ固いし」
「そ、そうですよね。大丈夫です! すぐに慣れると思うので!」
その言葉の通り、缶を重ねて何度か飲むうちに、イリスの緊張は徐々に解れていくように見えた。会話を楽しんでいると、ふいに彼女の視線が部屋の隅へ向く。
「あ、先輩の本棚!」
ソファから立ち上がり、本棚の前へ歩み寄るイリス。そこには今まで俺が読んできた本の数々が、所狭しと並べられている。
「……ここに並べられている本って、今まで先輩が人生を歩んできた中で読んできた本たちなんですよね」
「そうだね。そこにある本は全部、多かれ少なかれ、俺が今まで歩んできた人生に影響を与えてきた本だよ」
「この本棚に並べられた本たちが、羨ましいです」
本が羨ましいとは、また奇抜なことを言う。俺は缶を傾けながら、本の背表紙を撫でる彼女の指先を眺めていた。
「……実は、私も前に本を書いたことがあるんです」
まるで告白するように、イリスは言った。イリスが本を書いていた。それは、とても興味を惹かれる話題だった。
「イリスの書いた本、興味あるな。今度読ませてよ」
俺の言葉に、イリスはこちらを見ることなく、悲しそうに顔を伏せながら首を左右に振った。
「元々、病に伏せってしまったお祖父様を元気づけたくて書き始めたんです。でも駄目でした。知っていましたか? 物語を最後まで書き切るのって、とても難しいんです。結局、私が書いた物語は未完のままです。そんな中途半端な本を、先輩には読ませられません」
俺は読んだことしかない人間だ。本を書こうと思ったことはない。だから、イリスの言う創作の難しさや、その気持ちを完全には理解できないのだろう。
それでも、たとえ未完なのだとしても、俺はイリスの書いた本を読んでみたいと思った。
「未完だったとしても、イリスの書いた本なら読んでみたいよ」
その気持ちを、正直に伝えた。イリスは不思議そうに首を傾げて、「どうしてですか?」と訊いてくる。
そんなの、聞かなくたって分かるだろう。だって、好きになった女の子が書いた本を読みたくない男なんて、いるはずがない。
俺はソファから立ち上がり、イリスを正面から抱き寄せる。華奢な身体から、少しの強張りを感じながら、耳元で囁いた。
「イリスが好きだからだよ」
彼女の熱を肌で感じながら、その日の夜は更けていった。




