未完の書②
最初は静かに交わされていた会話が、グラスを重ねるごとに熱を帯びていった。
これが、お酒の魔力というやつなのだろう。赤や白の液体がゆっくりと減っていくたび、笑い声は大きくなり、身振り手振りが増えていく。
杉山さんが過去の興味深い逸話を語れば、すかさず雪村さんがそれに応じ、新しい話題が次々と生まれる。隣で楽しそうに笑うイリスや、雪村さんのボケに対して的確に突っ込みを入れるアリス先輩を見ているだけで楽しかった。
そして、ワインの香りが空気に溶け、机の上には空いたグラスが並び始めた。
楽しい時間は、すぐに過ぎていってしまう。徐々に皆の熱も冷めていき、緩やかな空気が流れ始めた。
「あ、先輩、顔が赤いですよ。大丈夫ですか?」
心配そうに俺の顔を覗き込むイリスに、俺は頷いて問題ないことを示す。
「うん、大丈夫。こういう体質なんだよね。飲むと顔に出ちゃうんだ」
「ふふふ、可愛いです。お水、飲みますか?」
「可愛いって……うん、もらおうかな。ありがとう」
コップに水を注いでくれているイリスをなんとなく眺めていると、向かい側から強烈な視線を感じた。
アリス先輩が、俺にまるで胡乱な者を見るような目を向けていた。見れば、アリス先輩の頬も少し上気している。
イリスは全く何ともないようだが、彼女に比べるとアリス先輩は酒に弱いのかもしれない。
「……何か、言いたいことでもあるんですか?」
アリス先輩からの視線に応えるように、俺はそんなことを口にしていた。
どうせ、また無視されるのだろう。そう思っていたのだが、意外なことにアリス先輩は眉をぴくりとさせて、ちゃんと反応を見せた。
「何か言いたいことでもあるのか……ですって? 違うでしょ、河本君」
「違う?」
「ええ、違うわ。間違っているわよ。私に言いたいことを聞くんじゃなくて、私にちゃんと言わなきゃいけないことが、河本君にはあるんじゃないの?」
ああ……そういうことか。
アリス先輩のその言葉で、俺は彼女のここ最近の不遜な態度が何に起因しているのか、ようやく理解した。
イリスと目が合う。俺が何を言おうとしているのか察してくれたらしく、彼女は無言でこくりと頷いて見せた。
俺はイリスの入れてくれた水を一気に飲み干した後、居住まいを正す。
アリス先輩、雪村さん、杉山さん。
向かいの席に座る三人を順に見回してから、俺は口を開いた。
「えっと、ご報告が遅くなってすみません。イリスと、お付き合いをすることになりました」
三人とも、既に知っていたのだろう。特に驚いた様子は見られない。
雪村さんは、両手で口元を覆いながらそわそわとしている。その様子を見るに、彼女は意外とこういった色恋沙汰が好きなのかもしれない。
杉山さんは、まるで微笑ましいものでも見るように、いつもと変わらない温厚な笑顔を見せている。
アリス先輩は、相変わらず不機嫌そうな顔で唇を尖らせていた。
「まだ付き合い始めて数日ですが、ちゃんと真剣にイリスと向き合っていくつもりです。イリスは皆さんにとっても、大切な存在なんだと思っています。そんな彼女を悲しませることがないようにしていくつもりなので、どうか見守って頂けると嬉しいです」
俺の言葉に、イリスは顔を真っ赤にして俯いていた。向かいにいる三人の様子は変わらなかったが、否定する様子は見られない……一人を除いて。
「嫌」
漢字にすれば一文字の否定が、アリス先輩の口から発せられた。
「嫌嫌嫌!」
今度は三文字だった。アリス先輩は机に突っ伏し、椅子に座ったままの状態で両足をバタバタとさせていた。
「嫌だー! イリスに彼氏なんて嫌! 私の可愛いイリスなのに! こんな男に横取りされるなんて、絶対にイヤー!」
じたばたと、駄々をこねる子供のように暴れるアリス先輩。なんだろう、否定されているのに面白い。なんて言ったら、もっと怒らせることになりそうなので口には出さないけれど。
「ちょ、お姉ちゃん! 何を言ってるの!」
「うるさいわね! この裏切り者! 子供の頃は、お姉ちゃんが一番好きって言ってた癖に!」
「そ、それは昔のことでしょ! 恥ずかしいから、変なこと言わないで!」
「うぇーん、真白ー。私の可愛いイリスがー、こんな男に取られちゃったよー」
「あ、えっと、アリスお嬢様……よしよし」
アリス先輩に泣きつかれ、少し驚きながらも雪村さんがその頭を撫でて慰めている。
俺も何か言って、彼女を落ち着かせた方が良いだろうか。そんな思いから、俺はアリス先輩に声を掛けた。
「イリスのことは、ちゃんと俺が幸せにするから。だから安心して、アリスお姉ちゃん」
「お姉ちゃんって言うな!」
火に油を注いでしまった。まあ、わざとなんだけど。
そんな風にして、歓迎会という楽しい時間は終わっていった。アリス先輩との関係にはしこりが残りそうだが、まあこの調子であれば、いずれ時間が解決してくれるだろうと、難しく考えるのは止めることにした。




