未完の書①
文倉イリス。
彼女に出会ってから、俺の日常は少しだけ変わった。今までは、家と大学とバイト先を往復するだけの毎日だった。それが彼女の誘いによって、幻想的な書館で過ごす時間が増えた。
イリスの姉である、文倉アリス。
書館の管理を任されている、雪村真白。
書館内で一番の古株である、杉山雅史。
ここで出会った人々と、書薦の儀と呼ばれる儀式を通して心を通わせた時間は、俺にとって素晴らしい体験だった。
そんな体験を経て、俺は正式に書館のメンバーとして迎えられることになった。その証にと、書館の所有者であるイリスからアンティーク調の鍵が渡された。
彼女からの説明によると、この鍵があれば書館へ自由に出入りが出来るらしい。
形として残る鍵を渡されたことによって、ちゃんと書館のメンバーとして受け入れてもらったのだと実感できた。それが、嬉しかった。
メンバー全員との書薦の儀を終えて、書館でのアルバイトの件も話が進んだ。雪村さんと形式ばかりの面接を終えた後、無事に採用となりアルバイト契約を済ませた。
先ずは庭の草むしりから始まり、館内の清掃、本の整理、データベースへの情報記入等が主な仕事の内容だった。
最初は仕事を覚えるので大変だったが、書の管理という面で豊富な知識を持つ雪村さんの助けもあり、すぐに慣れることが出来た。流石は元国立図書館の司書、一緒に働いているだけで彼女を尊敬する気持ちが芽生えた。
そんな風にして、俺が書館でのアルバイトを始めてから二週間が経過した。
天気予報では、その日は今年初の雪が観測されるかもしれないと言っていた。その予報は当たるかもしれないと思いながら、俺は一段と冷え込みを増した寒空の下を書館へと向かって歩いていた。
時刻は既に十八時を回っていた。最終である五限まで講義がある日、書館へ向かう時は大体こんな時間になっている。
今日はアルバイトの無い日なので、残りの時間を使ってゆっくりと本でも読もうかと考えていた。
森の小道を抜け、もらったアンティーク調の鍵を使って書館の玄関を開く。
館内は、暖房が利いているので暖かかった。生き返るような心地がしながら、内側から鍵を閉めて団欒の間へと向かう。自然とそこへ足が向いたのは、誰かの話し声が聞こえたからだった。
皆が集まっているのだろうか。そんな想像をしながら、書架の合間を縫って団欒の間へと足を進める。
辿り着いた団欒の間は、その名の通り心地よいざわめきに包まれていた。
アリス先輩、雪村さん、杉山さん、イリスの四人が、何やら楽しそうに会話をしている。
中央の長いテーブルには、色とりどりの料理が並んでいた。香ばしそうなパン、湯気を立てるスープ、香草を散らしたロースト、艶やかなワインのボトルが二本。
「あ、先輩!」
最初に俺の姿に気付いたのは、イリスだった。アリス先輩と話をしていた彼女は、俺に気が付くと嬉しそうな顔ですぐに駆け寄ってきた。
「イリス、これは?」
「今日は先輩の歓迎会をしようと、皆で用意をしたんです」
「と言っても、ここには調理場が無いので、全部取り寄せなんですけどね。あ、でもワインは私が選りすぐりの物を家から持ってきましたよ。赤と白の二本です」
イリスの説明を補足するように、雪村さんが言った。どうやら彼女はワインに目がないらしく、それぞれの銘柄や産地、味についてあれやこれやと説明を続けている。
「河本君は、ワインはいける口なのかな?」
杉山さんからの質問だった。そんなことを聞いてくるという事は、彼はいける口なのだろう。
「そうですね。ワインは好きですよ。ただ、お酒はあまり強くないので、グラス一杯くらいしか飲めませんけど」
「そうかい。私も歳だからね、適度に楽しもうじゃないか」
言いながら、杉山さんが俺に一つの席を勧めてくれた。彼に促されるまま、俺はその席へと腰を落ち着ける。
俺の隣にイリスが座り、向かい側には左から杉山さん、真正面にアリス先輩、その隣に雪村さんが着席した。
こうやって歓迎会をしてくれるのは、素直に嬉しかった。ただ、俺はここ数日、一つの懸案事項をずっと抱えている。それが気がかりで、心の底から楽しむぞーという気にはなれなかった。
「それじゃあ、皆さんが着席したので始めましょうか。先ずは赤を開けますね。これはフランスのブルゴーニュが産地で……」
「ちょっと、真白。もうワインの説明は頭に入ったから良いわよ」
「あら、そうですか? じゃあ、お注ぎしますね」
そんなアリス先輩と雪村さんのやり取りの後、雪村さんの手によって皆のグラスにワインが注がれていく。その途中、俺は真正面にいるアリス先輩に声を掛けた。
「……アリス先輩は、ワインとか好きなんですか?」
俺の質問に、返事はなかった。それどころか、アリス先輩はどこか不貞腐れたような表情でそっぽを向いてしまった。
俺が抱えている懸案事項とは、正にこれだ。ここ数日、アリス先輩はあからさまに俺のことを避けていた。声を掛けると、無視してどこかへ行ってしまうのだ。
その癖、何かを言いたそうに遠くから俺を睨んできたりもする。そんなことが、この数週間の間にもう何度か繰り返されている。
ふと、横にいるイリスと目が合う。彼女は少し気まずそうに、苦笑いを見せていた。
アリス先輩が俺に何でこんな態度を取り始めたのか、ある程度察しは付いている。
俺とイリスは、お互いの気持ちを確かめ合った後、正式に恋人として付き合い始めることになった。それから数日後だ。アリス先輩が、俺にこういう態度を取り始めたのは。
まだ誰にも、俺とイリスの関係は伝えていない。そこはイリスにも確認済みだ。しかし、なんとなくアリス先輩は、俺たちの関係が変化したことを察したのだろう。そうでなければ、こんなあからさまに態度を変えない筈だ。
「えっと……それでは、私が乾杯の音頭を取らせて頂きますね」
雪村さんも、この微妙な空気を感じ取っているのだろう。少し気を遣うような面持ちで、グラスを手に席を立った。
「書薦の儀を通して、素敵な書籍の数々を紹介してくれた河本様が、この場所に加わることを私達は心から嬉しく思います。この書館は、ただ本を読むだけの場所ではありません。ここには知があり、対話があり、そして何より、同じ本というものを愛する人同士の繋がりがあります。それらを通して、知識と探求の尽きることなき旅路を、これからも一緒に歩めますように……乾杯」
雪村さんの素敵な乾杯の音頭を合図に、皆でグラスをぶつけ合った。折角、この場を用意してくれたのだ。今はこの時間を楽しもう。
アリス先輩という懸案事項については、少し酒が入ってから考えるでも良いだろう。
そう思い、俺は皆に合わせてグラスを口元へと傾けた。




