書薦の儀:文倉イリス⑤
杉山さんとの会話を終えた後、俺は地下から今度は二階の回廊へと上がった。
団欒の間では、まだイリスが俺の薦めた本を読んでいる途中だった。二階の回廊からは、その姿を見下ろすことができる。
ここにいれば、イリスが本を読み終わったタイミングにも気づくことができるだろう。
回廊に設置されている椅子に深く腰掛け、規則正しくページを捲っていくイリスの姿を見つめる。彼女がページを捲るたびに、微かに指先が動く。静かに活字を追いかける瞳は揺るがない。
周囲の喧騒など、どこにもないかのように、彼女の世界は本の中だけにあるようだった。
ふと、その長い前髪をかき上げる仕草。そこから覗く、大きな丸い瞳。細い指が数秒、本の端をなぞり、それからまた静かに文字を追い始める。
そういう何気ない動きが、不思議と目に焼きついた。
そうやってイリスの姿を眺めていた時間は、どれくらいだっただろうか。彼女の指が一瞬だけ止まって、微かに震えた気がした。伏せられたまつげの下、目元がゆっくりと潤んでいく。
涙が静かに、頬を伝っていく。声ひとつ漏らさない。ただ彼女の中だけで、物語の余韻が満ちて溢れ出したのだと分かった。
それは悲しみの涙ではなく、きっと物語がイリスの心に触れた証だと思った。感情が溢れて、言葉にできない何かが胸に残ったからこそ伝った涙。
そんなふうに物語と真剣に向き合えるイリスのことが、ただ純粋に美しいと思った。
本を閉じた後、彼女はしばらく動かなかった。心のどこかに残る物語のかけらを大切に抱えているように、本の表紙を見つめたまま静かに瞬きを繰り返している。
それから少しだけ待って、落ち着いたかと思われるタイミングを見計らい、俺は階下へと降りてからイリスに声を掛けた。
「イリス」
「あ、先輩」
「読み終わったんだね」
「あ、はい。つい先ほど読み終わりました」
短く答えた彼女の声は、少しだけ掠れているように聞こえた。物語の余韻が、まだ完全には抜けきっていないのが分かる。
「……どうだった?」
そう聞くと、彼女はふっと笑った。まだ少し潤んだ瞳のまま、ゆっくりと口を開く。
「凄く良かったです。最後のシーンが、なんだかもう、どうしようもなくて……」
話しながら、イリスは言葉を探すように視線を彷徨わせる。彼女の中で、まだ物語は終わっていないんだろう。
「とても切なくて、でも幸せな気持ちがいっぱいで、最後のあの場面、なんか……苦しいのに、あたたかくて……複雑な感情が……抑えきれませんでした」
瞳を潤ませたまま、彼女は本を抱きしめるようにしてこちらを見た。その表情には、言葉だけでは伝えきれない感情が滲んでいた。
イリスのその姿を見ているうちに、胸の奥がじわりと熱くなる。彼女の声、表情、仕草、その全てが自分の心を揺さぶってくる。
イリスが語るたびに、その思いの深さに触れるたびに、どうしようもなく惹かれていく。
「うん、分かるよ。俺も同じだったから」
俺の言葉を聞いて、ふっと笑った彼女の笑顔に息が詰まりそうになった。
「ありがとうございます。この本に出会えて良かったと、心の底から思いました」
そう言いながら、俺が紹介した本を両手で差し出すイリス。その手を、そっと包み込むように握った。
「え……先輩?」
心の底から湧き上がってくる感情を、もう抑えられそうになかった。彼女の気持ちを知っていて、こんな言葉を口にするのは卑怯かもしれない。
でも、止められそうにはなかった。涙の跡が残る瞳。感情が揺れたままの唇。そんな彼女を見ていたら、もう言わずにはいられなかった。もう、この気持ちを隠す理由なんてなかった。
「俺……イリスが好きだ」
気づけば、そう口にしていた。イリスの目が大きく見開かれる。驚いたように、そして戸惑ったように。
彼女は何かを言おうとして、でもすぐには言葉が出てこない。胸の奥がじりじりと熱を帯びていく。彼女が自分を好きだと知っていることは言わない。
知っているから、伝えたんじゃない。今この瞬間、どうしても伝えたくなった。ただ、それだけだった。
「きゅ……急ですね」
「うん、急でごめん。でも、本を読んで涙するイリスを見ていたら、抑えきれなくなった」
俺の言葉に、イリスは俯いたまま何度か瞬きを繰り返した。そのままどれくらい時間が経ったのだろう。とても長く感じた沈黙の時を経て、彼女は顔を上げた。
その顔は少しだけ、照れ臭そうに笑っていた。
「河本先輩を初めて見かけたのは、大学の図書館でした。本を読みながら感情豊かに表情を変える先輩を見て、こんなにも楽しそうに本を読む人がいるんだなって思いました。それから姿を見かける度に、目で追いかけるようになって、今はどんな本を読んでいるのかなとか、どんな本が好きなのかなとか、考えるようになって……だからあの日、勇気を出して先輩に声をかけたんです」
イリスは瞳を揺らめかせながら、訥々と語った。その瞳からは、驚きや恥ずかしさ、色んな感情が入り混じっているように見えた。
「あの日、声を掛けた時から私は先輩のことが好きでした。きっと、これからもずっと先輩のことが好きです」
「……そっか」
そう返した俺の声が、思ったよりも震えていた。イリスの気持ちは知っていた筈なのに、自分でも驚くほどに嬉しくて、安堵していた。
こみ上げる気持ちをどう表せばいいのか分からなくて、無意識に笑みがこぼれる。
頬が熱い。鼓動が早い。彼女の声や言葉が、心の奥に染み込んでいく。
「ありがとう」
やっとのことで、それだけを伝えた。
照れくさそうに、目をそらすイリス。
その仕草すらも、今は愛おしくて仕方がなかった。




