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書薦の儀:文倉イリス④

 雪村さんと話があるからと書館に残ったイリスと別れ、俺は自宅へと帰ってきた。


 吐く息は白く、夜風は頬を刺すように冷たい。


 駅からアパートまでの帰り道。俺はずっと、イリスの言葉を思い返していた。


『私、いま恋をしています』


 そう言った時の、あの少し恥ずかしそうな顔。熱を帯びた頬。視線を泳がせながら、それでも嬉しそうに笑っていた表情。


 思い出すたびに、胸の奥が落ち着かなくなる。まるで、心のどこかを柔らかく掴まれているような感覚だった。


 部屋に戻った俺は、上着を脱ぐのもそこそこに本棚の前へ向かう。イリスから恋愛小説を薦めてほしいと言われた時、脳裏には既に一冊の本が浮かんでいた。


 迷うことなく、その本を探す。そして見つけたそれを手に取り、俺はしばらく表紙を見つめていた。


 今でも鮮明に覚えている。この本が紡ぎ出した、雪のように美しい恋の奇跡を。


 主人公とヒロインの苦悩。すれ違い。優しさ。そして、彼らを包み込む家族達の温もり。


 読んでいる間、何度も胸が締め付けられた。けれど同時に、静かに救われるような感覚もあった。


 イリスにも、この物語を読んでほしい。そんな気持ちが自然と湧き上がってくる。

 

 ◇   ◇   ◇


【人間六度著・きみは雪をみることができない】


 ある夏の夜、文学部一年の埋夏樹は、芸術学部に通う岩戸優紀と出会い恋に落ちる。

 いくつもの夜を共にする二人。

 だが彼女は「きみには幸せになってほしい。早くかわいい彼女ができるといいなぁ」と言い残し、彼の前から姿を消す。

 彼女にもう一度会いたくて、夏樹は何とかして優紀の実家を訪れる。

 そこで明かされたのは、彼女が『冬眠する病』におかされているという事実だった。

 

 ◇   ◇   ◇


 現代版の眠り姫。そう評されているこの作品を、彼女にも読んでほしいと思った。


 この物語が持つ、透き通るような美しさを。胸を締め付けるような切なさを。それでも最後には、確かな温もりを残してくれる優しさを。


 イリスにも知ってほしい。そんな気持ちが、俺の中には確かにあった。


 だからきっと、自然とこの本へ手が伸びていたのだろう。そして俺は、その瞬間になってようやく理解する。


 彼女にこの本を読んでほしい。彼女に、自分が好きだと思った景色を見せたい。


 その感情そのものが、既に答えだったのだ。


 寒空の下。俺に向かって先輩と笑いかけてくれたイリスの顔が脳裏に浮かぶ。


 書館で本を読む俺を、嬉しそうに眺めていた姿。少し照れながら、恋をしていますと口にした顔。


 それらを思い出すだけで、胸の奥がじんわりと熱を帯びる。


 苦しくて。でも、どこか心地良い。


 ああ、俺は――。


 イリスのことが、好きなんだ。


 その時になって、ようやく俺は、自分の気持ちと正面から向き合うことができたのだった。


 ◇   ◇   ◇


 翌日、悠久の書館へやってきた俺は、早速イリスへ本を手渡した。イリスはまるで、ずっとその瞬間を待っていたかのように、ぱっと表情を明るくする。


「ありがとうございます、先輩!」


 本を胸元で抱きしめる彼女は、本当に嬉しそうだった。自分の気持ちに気付いてしまった今、その笑顔が以前よりずっと眩しく見える。


 胸の奥がくすぐったくなるような感覚を覚えながら、俺は視線を逸らした。


「読み終わったら、感想聞かせてよ」

「はい、絶対に!」


 元気よく頷いたイリスは、そのまま団欒の間の椅子へ腰掛けると、早速本のページを開き始めた。ページを捲る彼女の横顔を見ているだけで、不思議と心が落ち着く。


 彼女のことが好きなんだな、と。自分の気持ちを認めたばかりだというのに、改めてそう実感させられてしまう。


 俺はそんなイリスをその場に残し、暇つぶしも兼ねて書館の中を歩き始めた。特に目的はない。ただ、静かな館内を歩いている時間そのものが、今の俺には心地良かった。


 ふと思い立ち、地下にある書庫へ向かうことにする。一階の書架の迷宮や二階の回廊には、もう何度も足を運んでいた。だが、地下の書庫だけは、以前、雪村さんに案内してもらって以来、ほとんど訪れていなかったからだ。


 地下へ続く階段を、ゆっくりと下っていく。地下には窓がない。壁に沿って等間隔に設置された間接照明だけが、静かな空間へ淡い光を落としていた。


 光は直接的ではなく、ざらついた石壁に柔らかく反射している。そのせいだろうか。地下全体が薄闇に包まれているにも関わらず、不思議と圧迫感はない。


 むしろ、どこか落ち着く。古い紙の匂い。静まり返った空気。遠くで微かに響く空調音。それら全てが混ざり合い、この場所だけ時間の流れが切り離されているような感覚を覚えさせた。


「おや、河本君」


 誰もいないと思っていた地下書庫だったが、階段横の開けたスペースに設置されたソファーに杉山さんが腰掛けていた。


「杉山さん、こんにちは。今日はここにいたんですね」

「ああ。たまには地下で読書でもと思ってね」


 そう言って、杉山さんは手に持っていた本を軽く持ち上げて見せる。そのタイトルを見て、俺は思わず口にしていた。


「ドグラ・マグラ」

「知っているかな?」

「読んだことはないですけど、名前は知っています。確か、日本三大奇書の一つですよね」

「ほう。若いのに、よく知っているね」


 杉山さんは感心したように笑った。


「読むと精神に異常をきたす――なんて言われている作品だよ」


 そう聞かされると、急にその本が禍々しいものに見えてくる。表紙を見ているだけで、何か得体の知れないものが詰まっているような気さえした。


 そんな俺の反応が顔に出ていたのだろう。杉山さんは小さく笑みを漏らす。


「僕はもう、何十回もこの作品を読んでいるんだけどね」


 そう言いながら、老眼鏡の奥からこちらを見つめてくる。


「どうだろう? 僕は精神に異常をきたしているように見えるかな?」

「全然、そうは見えませんね」

「あはは、そうかい」


 杉山さんは穏やかに笑った。けれど、その後に続いた言葉には、妙な重みがあった。


「しかし、どうだろうね。精神というものは目に見えない。もしかしたら、僕の精神はとっくの昔に壊れているのかもしれないよ」


 冗談めかした口調だった。だが、その瞳だけは笑っていないように見えた。地下書庫の薄暗さも相まってか、その一言が妙に耳へ残る。


「だとしたら、良い壊れ方なんじゃないですかね」


 そう返すと、杉山さんは少しだけ目を細めた。


「君は、面白いことを言うね」


 それから彼は、本を閉じて膝の上へ置いた。


「まあ、人は大なり小なり、皆どこか壊れているものだと僕は思うよ。完全に正常な人間なんて、この世には存在しない」


 彼の口から語られるその言葉は、長い年月を生きてきた人間だからこその重みを帯びていた。


 誰しもが、どこか歪んでいる。それが人間という生き物なのかもしれない。自分は正常だと言い切る人間がいるのだとしたら、それはきっと自分自身をまだ知らないだけだ。


 なぜなら、人間という存在そのものが、最初からどこか不完全なのだから。

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