書薦の儀:文倉イリス③
【斜線堂有紀著・恋に至る病】
150人以上の被害者を出し、日本中を震撼させることとなった『青い蝶』と呼ばれる自殺教唆ゲーム。
その主催者は、誰からも好かれる女子高生――寄河景だった。
善良だったはずの彼女は、やがて化物へと姿を変えていく。
幼馴染の少年・宮峰は、彼女の運命を変えた最初の殺人を回想し始める。
化物へと変わりゆく彼女に気付きながら、それでも愛することをやめられない彼が辿り着く地獄。
寄河景とは一体、何者なのか。
その人間性を問う物語。
◇ ◇ ◇
読了後、しばらくページを閉じることができなかった。指先が、わずかに震えている。心臓が不穏な鼓動を刻み、胸の奥に得体の知れない違和感が広がっていた。
これは恐怖なのか。それとも、喪失感なのだろうか。
寄河景。彼女のあまりにも歪で、狂気じみた愛の形。それを受け止めようとした主人公の苦悩。そして、二人の関係が辿り着いた結末を思い返すたび、胸の奥が締め付けられるように痛んだ。
物語を読んでいる間、俺は何度も寄河景の言葉に引き込まれていた。
彼女の語る論理。彼女の示す愛情。そのどれもが危ういと理解しているはずなのに、気づけば自分まで彼女の世界観へ飲み込まれそうになっている。
その事実に、ぞっとする。登場人物たちの感情へ寄り添おうとするたび、自分の中にある当たり前が揺らぐ瞬間があった。
これは正しいのか。それとも間違っているのか。そんな単純な言葉では、とても割り切れない。物語の中で交わされた台詞のひとつひとつが、読了後になってじわじわと心に染み込んでくる。
読み終えたはずなのに、まだどこかで物語が続いているような感覚。ふとした瞬間に思い出しては、また考えてしまう。そんな、後を引く一冊だった。
「先輩」
本の世界へ没頭しすぎていたせいで、すぐ傍にイリスがいたことを忘れていた。
顔を上げると、イリスがこちらを覗き込むように立っている。
「読み終わったんですね。どうでしたか?」
「なんていうか……イリスが薦めてくれたとは思えないくらい、重い話だった」
「ふふふ、そうですよね。私も最初に読んだ後、しばらくズーンってなりました」
そう言って、イリスは胸の前で両手を握りながら苦笑する。
「なんか、読み終わった後もずっと考えちゃうんだよな。結局、寄河景って何者だったんだろうって」
「それを読者に考えさせるところが、この作品の面白さだと思います」
イリスは嬉しそうに微笑みながら訊ねてくる。
「先輩は、どう思いましたか?」
「そうだな……」
俺は少し考えてから、ゆっくりと言葉を選んだ。
「やっぱり、寄河景にとって主人公は特別だったんだと思う」
その瞬間、イリスの顔がぱっと綻ぶ。
「はい。私も、同じ考えです」
その言葉を聞いて、少しだけ嬉しくなった。この物語は、解釈次第でまるで違う表情を見せる。だからこそ、自分と同じ受け取り方をした人が傍にいるというだけで不思議と安心感があった。
ふと、沈黙が落ちる。さっきまで続いていた会話の熱だけが、静かな書館の空気に残っていた。
ページを捲る音もない。ただ、遠くで時計の針が時を刻む音だけが微かに聞こえる。その沈黙を破るように、俺は口を開いた。
「それじゃあ、次は俺がイリスに薦める番だね」
「はい」
「イリスは、どんな本が好きなの?」
俺の問いに、イリスは人差し指を顎へ当てて考え込む。
すぐには答えはなかった。なぜか少しだけ頬を赤くしながら、ちらちらとこちらを窺っている。
「えっと、その……私、実はですね」
そこまで言って、イリスは口を閉ざした。好きな本を聞いただけなのに、そこまで言い淀む理由が分からない。
「どうかした?」
「その……私、いま恋をしているんです」
「……え?」
「好きな人が、います」
心臓が、どくりと跳ねた。平静を装おうとしても、胸の内側が妙に騒がしい。
とてつもなく分かりやすかった。さっき森で聞いてしまった会話がなくても、その表情を見れば嫌でも察してしまう。
イリスは視線を泳がせながら、それでも小さな声で続ける。
「だから、その……河本先輩には、恋愛小説とかを薦めてもらえたら嬉しいなって」
「恋愛小説、か……うん、分かった。考えてみるよ」
「ありがとうございます!」
イリスは嬉しそうに笑った。その笑顔には、まだ少し照れが残っている。
俺はそんな彼女を見ながら、どんな恋愛小説を薦めようか考え始めていた。
そして同時に、こうも思う。イリスとのことについても、そろそろちゃんと向き合わないといけないのかもしれないと。




