書薦の儀:文倉イリス②
少しだけ時間を置いてから、俺は書館へとやってきた。
扉の横に設置された古びたインターホンを鳴らすと、いつものように雪村さんが出迎えてくれる。
彼女に案内されるまま団欒の間へ向かうと、そこには先ほど森の小道で後ろ姿を見かけたばかりの文倉姉妹がいた。
「あ、先輩。こんにちは」
イリスが、ぱっと花が咲くような笑顔を向けてくる。その笑顔を、俺はまともに見つめ返せなかった。
「あ、うん。こんにちは、イリス」
「あれ……先輩、どうかしましたか?」
心配そうに眉を寄せながら、イリスが顔を覗き込むように近づいてくる。急に距離を詰められた俺は驚き、思わず一歩後退った。
そのままバランスを崩しかけた身体を、後ろからそっと支えてくれたのは雪村さんだった。
「す、すみません」
「いいえ、お気になさらず。でも、お怪我をされたら大変ですから、気を付けてくださいね」
雪村さんは柔らかく微笑む。
「あ、その……驚かせちゃってすみません。なんだか先輩、少し元気がないように見えたので」
「ああ、いや、本当に大丈夫。ちょっと驚いただけだから」
どうやら俺は、さっき聞いてしまった会話をかなり引きずっているらしい。
イリスの顔を見るたび、あの「好きなの?」というアリス先輩の声が脳裏をよぎってしまう。
しっかりしろ、と自分へ言い聞かせていると、不意に冷たい視線を感じた。見ると、アリス先輩がじとっとした目でこちらを見ている。
「……何か言いたいことでも?」
「昨日ね、バラエティ番組を見ていたのよ」
唐突だった。アリス先輩は腕を組みながら、わざとらしく溜め息を吐いた後に言葉を続ける。
「出演していた大御所芸人が、娘が彼氏を連れてきたらどうしますかって質問されていたの」
「……へえ」
「河本君、その人なんて答えたと思う?」
「さあ……彼氏を門前払いするとかですか?」
「ふっ」
アリス先輩が鼻で笑った。
「どうやら河本君には、お笑いのセンスがなさそうね」
「急に失礼ですね」
「その芸人さんはね、こう言ったのよ。娘の前では優しく家に迎え入れる。でも、娘のいないところで背後に立って、ドスの利いた声でぶちのめすぞって囁くんですって」
……なんだその話は。というか、なんで今その話をした。
「お姉ちゃん、変な話しないで」
呆れたようにイリスが窘める。
「ふーんだ」
アリス先輩は子供みたいに唇を尖らせると、そのまま団欒の間を出て行ってしまった。
「では、私は仕事がありますので」
タイミングを合わせるように雪村さんまで頭を下げ、その場を離れていく。結果として、団欒の間には俺とイリスの二人だけが残された。
「河本先輩」
イリスが少しだけ身を乗り出す。
「書薦の儀、次は私と……ですよね?」
その声音には、隠しきれない期待が滲んでいた。もし本当に尻尾が生えていたら、ぶんぶん振っていそうな勢いだ。
「うん。杉山さんとの書薦の儀が終わったから、最後はイリスだね」
「はい! 私、ずっと楽しみにしていました!」
満面の笑み。その顔を見ていると、さっき変に意識していた自分が馬鹿らしく思えてくる。
「俺も楽しみだったよ。ちなみに、薦めてくれる本はもう決まってるの?」
「それなんですけど……前に言いましたよね。私も、ライトノベルとかライト文芸を少しだけ読んだことがあるって」
「ああ、言ってたね」
「どうせなら、先輩の好きなジャンルから選びたいなって思って。先輩がまだ読んだことのない本があれば、その中から薦めようかなって考えてたんです」
「なるほど」
「こっちの書架に置いてあるので、案内しますね」
イリスは嬉しそうに歩き始める。その後を追う形で、俺も団欒の間から書架の迷宮へ足を踏み入れた。
「そういえば、お姉ちゃんから聞きました。先輩、ここでアルバイトするんですよね?」
書架の合間を歩きながら、イリスが訊ねてくる。
「うん。アリス先輩が話を通してくれるみたいで」
「あの!」
イリスが勢いよく振り返った。
「わ、私も先輩に、その話をしようと思ってたんです!」
――私も同じこと考えてたのに。
つい先ほど聞いてしまった言葉が、頭をよぎる。アリス先輩に先を越されて、少し拗ねていたイリスの声。だから今、こうして一生懸命伝えようとしてくれているのだろう。
「……ありがとう」
自然と、そんな言葉が口から出ていた。
「イリスも、俺のこと考えてくれてたんだよね」
そう言いながら、気づけば俺の手はイリスの頭へ伸びていた。さらりとした黒髪の感触が、てのひらへ伝わる。
イリスはぽかんとした表情で俺を見上げた。
――あ。
なんで俺、こんなことしてるんだ。我に返った瞬間、慌てて手を離す。
「ご、ごめん。嫌だったよね」
「い、嫌じゃないです!」
イリスはぶんぶんと首を横に振った。
「ちょっと……びっくりしただけで」
耳まで真っ赤になっている。俺まで変に恥ずかしくなってしまった。
「えっと……その、着きました」
誤魔化すように俯きながら、イリスが立ち止まる。そこには、ライトノベルやライト文芸が並べられた書架があった。
俺の知っているタイトルも多い。だが、その中には未読の本も少しだけある。
俺は未読の本を抜き取った。夜の街を背景に、制服姿の少女が一人佇んでいる表紙。けれど、その少女の表情からは何も読み取れない。感情があるのかすら分からないほど、静かな顔。
タイトルだけ見れば恋愛小説のようなのに、その雰囲気はどこか不穏で仄暗い。まるで狂気や孤独を孕んでいるようだった。
「これは、まだ読んだことないな」
「あ、その本ですか」
イリスは少し嬉しそうに目を細める。
「少し暗いお話なんですけど、私は好きです。特に、表紙に描かれているヒロインをどう感じるかが重要だと思っていて……先輩が彼女をどう見るのか、聞いてみたいです」
「なるほど……うん、分かった。読んでみるよ」
俺は近くの椅子へ腰掛け、本を開こうとした。だが、イリスがまだ何か言いたげにこちらを見ている。
「どうかした?」
「あ、その……」
少し躊躇うように視線を逸らしてから、彼女は小さな声で言った。
「私も傍で、一緒に本を読んでいても良いですか?」
「それは別に構わないけど……俺がいると集中できないんじゃない?」
「大丈夫です」
イリスはふわりと微笑む。
「私、先輩が本を読んでいる姿を見るの、好きなので」
「……そ、そう」
なんだか、妙に照れ臭かった。許可を得たイリスは嬉しそうに書架から一冊の本を抜き取ると、俺の向かいに置かれた椅子へ腰掛ける。
静かな書館。紙を捲る音だけが、ゆっくりと響いていく。
イリスからの視線を意識しないよう努めながら、俺は静かに最初のページを開いた。




