未完の書⑤
クリスマスまで、あと一週間。いつもより少しだけ、街の空気が色めき始めているように感じる十二月の中旬。
大学構内の並木道を歩きながら、俺はクリスマスの過ごし方について考えていた。
イリスと恋人になって、初めて迎えるクリスマスだ。どうせなら、楽しい思い出を作りたい。彼女はどんなデートプランが好きだろうか。どんなプレゼントを喜んでくれるだろうか。そんなことを考えれば考えるほど、胸が弾んだ。
「ねえ、ちょっと!」
聞き覚えのある声がしたと思った瞬間、ぐいっと腕を掴まれた。そのまま前方へ引っ張られる。
「え、アリス先輩?」
俺の腕を掴んで歩いていたのは、アリス先輩だった。彼女は後ろにいる俺へちらりと視線を向けてから、口を開く。
「今日、バイトないんでしょ? ちょっと付き合いなさいよ」
「付き合うって、どこにですか?」
「どこだって良いでしょ……ちゃんと、二人で話をしておきたいのよ」
それは、俺も考えていたことだった。イリスと恋人になったのだ。姉であるアリス先輩とは、ちゃんと話をしておきたい。俺たちの関係を認めてほしいという気持ちもあった。
「分かりましたよ。付き合いますから、とりあえず手を離してください」
俺が抵抗しないと分かると、アリス先輩は素直に腕を放した。
「そう。じゃあ行きましょ」
颯爽と前を歩き始めるアリス先輩の後を、俺は黙ってついて行く。辿り着いた先は、駅前にある焼き鳥居酒屋だった。この前あんな醜態を晒していたのに、また飲むのかこの人は。なんてことは口が裂けても言えず、俺はアリス先輩と一緒に暖簾をくぐった。
店内では、木目調の温かみある照明が柔らかく揺れていた。店員に案内されたのは、個室になっている掘りごたつ式の席だった。畳敷きの座敷に腰を下ろし、足を伸ばす。じんわりと、掘りごたつの熱が足元から染み込んできた。
外の冷たい空気を引きずっていた身体が、少しずつ解れていく。向かいに座ったアリス先輩が、ゆっくりとコートを脱ぎ、綺麗に畳んで脇へ置いた。
店員が温かいおしぼりとお茶を運んでくる。湯気の立つ湯呑を手に取り、一口含むと自然と息が漏れた。
軽くメニューに目を通していると、ふとアリス先輩と目が合った。どこか探るような視線。その口元が、ゆっくりと動く。
「河本君は何頼むの? とりあえずビール?」
「ビールは嫌いなんですよ」
「あら、奇遇ね。私もあまり好きじゃないのよね。じゃあ何にするの?」
「飲み物はジントニックで。あと、串の盛り合わせを」
「そう。じゃあ私も、とりあえずは同じものにしようかしら」
「了解です、先輩。ご馳走になります!」
「……君、甲斐性って言葉知ってる?」
「なんですかそれ。俺の辞書にはないですね」
「はあ、ほんとになんでこんな奴……まあいいわ、今日くらい奢るわよ」
やれやれと呆れたように肩を竦めるアリス先輩。こちとら貧乏学生で、イリスとのクリスマスも控えているのだ。甲斐性なぞ知らん。先輩に甘えられるなら、ここは素直に甘えておこうという考えだった。
注文した品が届き、アリス先輩がグラスを持ち上げる。それに倣って俺もグラスを手に取り、軽くぶつけた。
「「乾杯」」
小さく響いたグラスの音。酒で喉を潤し、料理を一口。寒さでこわばっていた身体が、ようやく完全に解れていく。
しばらくは、他愛のない雑談が続いた。大学の話、最近の出来事、そしてもちろん本のこと。アリス先輩は、落ち着いた雰囲気の中にも時折軽い冗談を挟み、思っていたよりずっと話しやすかった。
彼女とはここしばらく、まともな会話らしい会話をしていなかったので、どこか久しぶりな感じがした。
そして、一通りの話題がひと段落する。アリス先輩がグラスを置き、ふと視線を上げた。さっきまでの柔らかな笑みとは違う、少し真剣な表情。
「で、本題だけど。イリスのこと、本気なのよね?」
「俺が遊びで恋愛するような男に見えますか?」
じっと目を見つめられる。心の奥底を探るような視線。俺はそれを、真正面から逸らさず見つめ返した。
やがてアリス先輩は「はあー……」と大きな溜息を吐き、もう四杯目になるグラスを煽った。
「……もう、分かったわよ。認めるわ」
「認める?」
「ええ。イリスもあんたも、本気だってことがよく分かった。だったらもう、私がぎゃあぎゃあ言ったってしょうがないじゃない」
そこまで言ってから、アリス先輩は真っ直ぐ俺を見た。
「でもね、これだけは言わせて。イリスのこと泣かせたら、ぶっ飛ばすから」
それは、出会った時にも聞いた台詞だった。アリス先輩は姉として、本当にイリスのことを大切に想っているのだろう。
「大切にしてあげてよね。あの子、自分に自信がないみたいなことを言う時があるから。彼氏であるあんたが、そんなイリスを変えてくれることをちょっと期待してるわ」
言われてみれば、確かにイリスにはそういうところがある。あんなに可愛くて、優しくて、素敵な子なのに。どこか自信なさげで、遠慮がちで、時折おどおどとしている。それは不思議なことだった。
「なんで、イリスはそんな感じなんでしょうね?」
「あの子の悪い癖なんだけど、昔から姉である私を比較対象にするのよね。お姉ちゃんに比べて運動が出来ないとか、勉強が苦手だとか、綺麗じゃないとか」
アリス先輩は苦笑するように肩を竦めた。
「私からすれば、あの子の方がよっぽど可愛いし、気立ても良い。そう思うでしょ?」
「本当にそうですね」
「……ぶっ飛ばして良い?」
「なんで!」
「なんか、即答されたらされたで腹立ったからよ。まあ否定されても、それはそれでぶっ飛ばしてたでしょうけど」
どっちにしろ殴られる運命らしい。理不尽すぎる。
「冗談はさておき、お父様とお母様の教育も良くなかったと思うのよね。運動が出来て、成績も良い私ばかり褒めて、並の結果しか出せなかったイリスは、あまり褒められることがなかった」
アリス先輩は、少しだけ寂しそうに視線を落とした。
「幼い頃のイリスをちゃんと認めてあげていたのは、お爺様くらいだったわ。だからあの子、次第にあの書館へ籠るようになって、本の世界に没頭していったの」
そこで一度言葉を切り、グラスに口を付けてから、アリス先輩は静かに続ける。
「その結果、今のあの子になった。今さら私がいくら可愛い可愛いって言ったところで、根っこの部分は簡単には変わらない。でも、イリスが本気で好きになった男の言葉なら、結果は変わってくるでしょ? だから期待してるって言ったのよ」
まだ知らなかったイリスの過去。それを聞いて、俺は改めて思った。これからも、ちゃんとイリスと向き合っていこうと。俺にとって、イリスが一番大切なんだ。そう伝え続ければ、いつかイリスも、自分を誰かと比べなくなるのではないだろうか。そんな考えが、自然と浮かんでいた。
「……それともう一つ。変な話だから、河本君に言おうか迷っていたことなんだけど」
そんな前置きをしてから、アリス先輩は俺と視線を合わせた。まるで、これから重要な話をするから聞き逃すな、とでも言いたげな目だった。
「はい、なんでしょうか?」
「イリスが昔、書いた本があるんだけど、その話って聞いてる?」
まさか、その話題がアリス先輩の口から出るとは思っていなかった。雪村さんや杉山さんは知らなかったが、アリス先輩はイリスが書いた本の存在を知っているらしい。
「はい。最近イリス本人から聞きました。未完だから読ませられないって言われましたけど……」
「その本は、絶対に読んじゃ駄目よ」
――え?
それは、まったく予想外の言葉だった。
この人はいま、妹であるイリスが書いた本を読むなと言ったのか?
普通は逆じゃないだろうか。可愛い妹が書いた本なのだから、読んであげてと言うものではないのか。
「なんで読んじゃ駄目なんですか?」
そう聞くと、アリス先輩は露骨に言い淀んだ。一度視線を天井へ逸らし、何かを思い出すように黙り込む。しばらくしてから、彼女は深く息を吸い、躊躇うように口を開いた。
「お爺様が、それを読んだ時……」
そこからまた、言葉が途切れる。まるで、当時の光景を思い返しているかのようだった。
「お爺様? 源六さんですか?」
その問いに頷いてから、アリス先輩は静かに続ける。
「病室で寝たきりだったお爺様を元気づけたくて、イリスはあの本を書いたの。途中まで書いた原稿を元に本という形にして、それを持って行って、いまこんな物語を書いてるんだって、嬉しそうに渡してたわ」
アリス先輩は、その時のイリスの姿を思い出しているのか、少しだけ目を細めた。
「結果、どうなったと思う?」
「どうなったって……孫が自分のために書いてくれた物語なんですよね? そんなの、内容はどうあれ喜ぶに決まってるじゃないですか」
「そうね。実際、お爺様はすごく喜んでいたわ。でも、読んだ後の反応は違った」
「違った?」
「お爺様は、その日の夜に病院を抜け出したわ」
アリス先輩の声音が、少し低くなる。
「もう歩くことすらままならない身体だったのに、車椅子を必死に漕いでね。そして病院着のまま、汗だくになって家へ来た」
その時点で、十分異様だった。
「それで、家にいたイリスに懇願したのよ。どうか続きを書いてくれって」
その光景を想像するだけで、背筋が薄ら寒くなる。
文倉源六は、それほどまでに続きを読みたかったのか?
イリスが書いた物語には、人をそこまで駆り立てる何かがあったというのだろうか。
「……イリスが書いた本を読んだら、俺も同じようになると?」
「確証はないわよ。あの本を読んだのは、お爺様だけなんだから。でも、同じようにならないとも言い切れない」
アリス先輩は真っ直ぐに俺を見据えた。
「だから、イリスと近しい存在になった河本君には、この話をしておくべきだと思ったのよ」
「でも……物語の続きが読みたいと思うこと自体は、別におかしなことじゃないですよね?」
「そうね。でも、お爺様のあの様子は普通じゃなかった。私は間近でそれを見たのよ。あれはただ続きが読みたいなんていう、正常な反応じゃない。明らかに異常だったわ」
歩くことも出来なかった老人が、病院を抜け出してまで続きを求めた。
それは確かに、普通ではない。
俺はふと、地下書庫での杉山さんとの会話を思い返した。
ドグラ・マグラ。読むと精神に異常をきたすと言われている奇書。
まさか、イリスが書いた本も、そういう類のものなのか?
――だけど。
俺は不思議で仕方がなかった。アリス先輩からそんな話を聞いた後ですら、胸の奥から湧き上がってくる感情があったからだ。
イリスの書いた本を、読んでみたい。そんな欲求が、抑えきれないほど強くなっていくのを感じる。
人間は、大なり小なり異常を抱えているものだと、杉山さんは言っていた。やはり、彼の言う通りなのだろう。きっと、こんな欲求を抱いてしまう俺も、どこか壊れているのだから。




