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悠久の書館①

 文字の世界に没頭していると、ついつい周りの目が見えなくなってしまう。


 周りの目も気にせず、小説の中にいる主人公と一緒になって感情を発露させてしまうのが、俺の悪い癖だった。


 俺にとって、小説を読むという行為は生活の一部になっている。

 

 そう言ってしまえるくらいには、俺は小説というものを愛していた。


 だからと言って、大学にある図書館内で大声を上げて笑ってしまったのは、失敗だったと言わざるを得ない。


 奇異な者を見る視線を、一斉に浴びてしまった。


 俺は低頭しながら、すごすごとその場を立ち去る他なかった。


 晩秋の冷たい風が、乾いた落ち葉を巻き上げながら舗道を転がしていく。


 大学の構外に出ると、背の高い銀杏の木々が黄金色に染まり、枝の合間から鈍色の空が覗いていた。


 吐く息が、わずかに白く曇る。冬はもう、すぐそこまで来ている。


 コートの襟を立てながら、早足で歩く。頭の中には、さっきまで読んでいた本の続きがこびりついて離れない。


 先が知りたい。続きを読まなければ、落ち着かない。


 どこか静かにページを捲れる場所はないかと視線をさまよわせていると、ふと公園の片隅にぽつんと置かれたベンチを見つけた。


 木製のベンチには、風に運ばれた枯葉が何枚か積もっている。


 人気はない。寒さは気になるかもしれないが、そこなら誰の目も気にせず、心ゆくまで物語に没頭できそうだった。


 公園の中へ入り、枯葉を手で払ってからベンチへと腰掛けて、俺は本のページを開いた。


 物語は既に、終盤へと迫っていた。


 主人公に明かされていく数々の謎。


 変化していく登場人物達との関係。


 文字からありありと浮かんでくる情景、その一つ一つが心に染み込んでいくような感覚。


 本を閉じても、まだ終わらなかった。


 最後の一行が、余韻となって身も心も包んでいく。


「……はあ」


 思わず、溜息が漏れた。


 素晴らしい本を読み終えた後の、心地よい余韻はしばらく続いていた。


 不意に、背後で落ち葉を踏む音がした。


 反射的に振り返る。けれど、そこには誰もいなかった。


 風が吹き抜け、木々が揺れる。公園の遊具が軋む音が、静かな園内に響いていた。


 気のせいかと思い直し、再び本へ視線を落とそうとした時だった。


「っ……あの」


 今度こそ、確かに声が聞こえた。


 振り返ると、俺が座るベンチのすぐ後ろに一人の女性が立っていた。


 いつから、そこにいたのだろう。


 色白で、小柄な体格をした女性だった。

 

 ボブカットの黒い髪。長い前髪が顔を覆い隠すように垂れているが、その隙間から覗く瞳は丸々として可愛らしい。


 しかし、その瞳はどこか不安げで、まるで身を寄せ合う小動物のように怯えた雰囲気をまとっている。


 俺に声を掛けたのは彼女だと思うのだが、指先をもじもじと動かしながら視線を落とし、こちらと目を合わせてはくれなかった。


「えっと、何か用?」

「あっ……えっと、その、寒くないですか?」

「え?」

「だから、その、こんな所で本を読んで、寒くないのかな……って、心配で」

「……ああ」


 冬の訪れが近い事を感じさせる、晩秋の頃だ。


 そんな寒空の下で体を縮こまらせながら本を読んでいた俺を、どうやら彼女は心配してくれているらしい。


 それで話したこともない、見ず知らずの男に声を掛けたという事だろうか。


 もしかしたら、とても優しい子なのかもしれない。


 そう思った俺は、彼女に笑顔を見せてお礼を言った。


「心配してくれて、ありがとう。さっきまで大学の図書館で本を読んでいたんだけど、俺って読書にのめり込みすぎてつい声を出しちゃう悪い癖があってね。変な目で見られちゃったもんだから、仕方なくここで読書をしてたんだ」

「でも……こんな寒い所で本を読んでいたら、風邪をひいちゃいます」

「そうなんだけど、家に帰る時間も惜しいくらいに本の続きが気になっちゃって」

「そう、だったんですね」


 会話が途絶える。相変わらず、彼女は俺と目を合わせてはくれなかった。


 人と話すのが、あまり得意な子ではないのだろうか。

 

 それなのに俺の事を心配して、こうやって声を掛けてくれたのか。


 出会ったばかりなのだが、そんな彼女と少しでも打ち解けたいという気持ちが俺には芽生えていた。


「もしかしてだけど、君も俺と同じ大学の生徒だったりする?」

「あ、はい。今年、文学部に入学した一年です」

「お、同じ学科だね。俺も文学部の二年で、名前は河本了太こうもとりょうた

「はい、知っています」

「え?」

「あ!」


 慌てて口元を抑える彼女。


 俺の事を知っている?


 はてさて、それは何故だろうか。


「俺の事を知っているの?」

「すみません。はい、知っています」


 まるでそれが悪い事のように、彼女は小柄な体をさらに小さくさせる。


「謝る事はないけど、なんで俺の事を?」

「えっと、大学の構内で良く読書をしている姿を見かけて……それで、凄く楽しそうに本を読む方だなって、気になってしまって」


 俺からしたら、ただ本を読んでいただけなのだが、そんな俺に彼女は興味を持ってくれたらしい。


「もしかして、君も本が好きなの?」


 その問いに、目の前の女の子が落としていた視線を上げた。


 ここにきて初めて目が合った。


 今まで影を落としていた彼女の顔が、まるで日が差したかのように明るくなって、そこに笑顔が華やいだ。


「はい、大好きです」


 しばらくの間、その笑顔に見惚れてしまった。


 俺がジッと見ている事に気付き、彼女は慌てたようにまた顔を伏せてしまう。


「あの、それでですね……私はそんな貴方に、こんな寒空の下ではなくて、もっと暖かい場所で本を読んでもらいたいと思って声をかけました」

「暖かい場所?」

「はい」


 彼女は恐る恐るといった様子で、俺に右手を差し出しながらこう言った。


「私が貴方を招待します。悠久の書館へと」


 そう告げた瞬間だった。


 風もないのに、公園の木々がざわりと揺れた。


 その音が何故だか、ページを捲る音に聞こえた気がした。

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