書薦の儀:杉山雅史③
【服部まゆみ著・この闇と光】
森の奥に囚われた、盲目の王女・レイア。
彼女は父王から沢山の愛情を注がれ、美しいドレスや花、数々の物語に囲まれて育てられていた。
ずっと、そんな幸せな日々が続いていくのだと信じて。
しかし、ある日突然、その全てが崩れ去る。
混乱の中で明らかになっていく、恐るべき真実。
その瞬間、レイアの周囲にあった世界は音を立てて形を変えていく。
幻想と現実。
光と闇。
それらが曖昧に溶け合った先で待ち受けるのは、あまりにも衝撃的な結末だった。
◇ ◇ ◇
本を閉じたあと、俺はしばらくの間、表紙に描かれた盲目の少女を見つめ続けていた。
読み始める前と、読み終えた後では、この表紙に対する印象がまるで違ってしまっている。
ページを捲るたび、物語がじわじわと心の奥へ入り込んでくる感覚があった。
静謐で、美しく、それでいてどこか歪な世界。主人公であるレイアの心情が丁寧に描かれているからこそ、読者である俺自身も、少しずつその世界へ引きずり込まれていく。
言葉の端々に漂う違和感。説明されない不自然さ。何かがおかしい。けれど、それが何なのかは分からない。
その得体の知れない不安が、物語を読み進めるほど濃くなっていき、やがて全てが一つに繋がる。
世界の真実が明かされた瞬間の衝撃は、イリスが言っていた通りだった。きっと、この先も忘れられない。
一見すると優しく美しい世界。その裏側に潜む、目には見えない狂気。光が美しいほど、そこに落ちる影もまた濃くなる。そのコントラストこそが、この作品最大の魅力なのだと感じた。
ふと周囲へ目を向ける。本を読む前まではイリスが座っていた場所に、いつの間にか杉山さんが腰掛けていた。彼は湯呑を両手で包み込みながら、静かに緑茶を啜っている。
「おや、読み終わったのかな?」
「はい、今ちょうど」
「そうか。実は僕も、先ほど河本君から薦めてもらった本を読み終えたところなんだ」
「本当ですか。どうでした?」
俺が尋ねると、杉山さんは目を細めながら穏やかに笑った。
「河本君は、ちゃんと僕の要望に応えてくれたね」
「要望?」
「心が温まる、優しい物語が読みたいと言っただろう?」
そう言って、杉山さんは膝の上で湯呑を揺らす。
「ミミズクの無邪気さは、まるで孫を見ているような気持ちにさせてくれたよ。そんな彼女を包み込むフクロウの優しさも良かった。二人のやり取りを想像しているだけで、心がぽかぽかと温かくなる」
彼は本当に嬉しそうだった。その柔和な笑みを見ていると、俺まで嬉しくなってくる。
「これから寒い冬が来るだろう? でも、あの物語を思い出せば、乗り越えていけそうだ」
皺の刻まれた目元が、優しく細められる。そこには確かな温もりがあった。
「河本君は、どうだったかな? 私の薦めた本は」
「いや、もう……凄い作品でした」
俺は興奮を抑えきれないまま、言葉を続ける。
「序盤の愛に満ちた幻想的な世界観、中盤で明かされる違和感の正体、そして最後の結末。全てが綺麗に繋がっていて……本当に鳥肌が立ちました」
本を持つ指に、思わず力が入る。
「巻末を見たんですけど、この作品って初版が二十年以上前なんですよね? なのに全然古さを感じない。むしろ今読んでも、新鮮な衝撃を受けるって凄すぎませんか?」
「ははは。そこまで言ってもらえると、薦めた甲斐があるね」
杉山さんは楽しそうに笑った。その笑顔を見ていると、彼がこの作品を本当に大切に思っている事が伝わってくる。
「実はね」
ふいに、杉山さんがそんな前置きをした。
「僕も昔、作家を目指していた時期があったんだ」
「えっ、そうだったんですか?」
「ああ。でも、残念ながら才能がなくてね」
そう言って、どこか懐かしそうに目を細める。
「だからこそ、彼女みたいに素晴らしい作品を世に送り出せる人間に、強い憧れがあった。同じ時代を生きていたのに、どうしてこんな物語を書けるんだろうってね」
俺は何気なく、本の帯に記されている著者情報へ視線を落とす。
1948年生まれ。
存命なら、きっと杉山さんと同じくらいの年齢だったのだろう。
「会ったことも、話したこともない。でもね、彼女の訃報を聞いた時は、本当にショックだったよ」
その言葉には、静かな実感が滲んでいた。
「源六先輩も、彼女の大ファンだったからね。二人で酒を飲みながら、夜通し彼女の作品について語り合ったものだ」
源六さん。その名前が出た瞬間、俺は無意識に二階の奥――あの閉ざされた部屋の方向を思い浮かべていた。
死んだあとも、こうして名前が語られる人。雪村さんも、杉山さんも、どこか源六さんを失った時間の中に取り残されているように見える。それほどまでに、彼は大きな存在だったのだろう。
そして杉山さんは、少しだけ遠くを見るような目で言った。
「僕もいずれ、白玉楼へ移る日が来る」
白玉楼。冗談めかした言い方なのに、その響きには死を受け入れているような静けさがあった。
「その時はね、先に待っている源六先輩と一緒に、彼女へ会いに行こうと思っているんだ」
杉山さんは穏やかに笑う。
「そして、沢山の素晴らしい作品をありがとうって、伝えたい」
その言葉を聞いた瞬間、俺は胸の奥が少しだけ締め付けられるような感覚を覚えた。
この書館にいる人達は皆、誰かを失っている。
それでもなお、本を読み続けている。
まるで、失われたものへ触れ直そうとするみたいに。




