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書薦の儀:杉山雅史②

 これで三度目となる書薦の儀。俺は家へ帰った後、自分の本棚の前で頭を抱えていた。


 心が温まるような、優しい物語。そう感じさせてくれた作品は、今まで数え切れないほど読んできた。


 だが今回の相手は、杉山さん。七十代の老人であり、俺の倍以上の人生を歩み、きっと俺なんかより遥かに多くの本を読んできた人物だ。


 アリス先輩や雪村さんとは比べものにならないくらい、本選びが難しい。


 俺は本棚から何冊も本を引き抜いては、ページを捲る。少し読んで違うと思えば、床へ置く。また別の本を取り出して、同じことを繰り返す。


 そんな作業を、もう何度も続けていた。


「……どうしたもんかなぁ」


 一人ぼやきながら、俺は床へ大の字になって倒れ込む。周囲には、今まで読んできた大量の本が散乱していた。しばらく天井を見上げながら、ぼんやり考える。ふと、本棚へ入りきらなかった大量の本が、まだクローゼットの中へ眠っている事を思い出す。


 実家から引っ越してきた当初、未読本を優先して本棚へ並べたせいで、既読の本の多くがダンボールの中に眠ったままだ。


 俺は勢いよく立ち上がり、クローゼットの扉を開ける。積み重なったダンボールを引っ張り出し、その中を漁り始めた。


 古い紙の匂い。少し黄ばんだページ。懐かしいタイトルの数々。その中で、一冊の本へ自然と手が止まる。


「……ファンタジー」


 呟きながら、俺はその本を取り出した。最後に読んだのは、中学生くらいの頃だったと思う。読んだのが昔すぎて、内容を細かく覚えている訳じゃないけれど、胸の奥がじんわりと温かくなった感覚だけは今でも覚えている。


 登場人物達の優しさ。誰かを想う感情。不器用で、痛々しくて、それでも愛おしい関係性。


 そういったものが、この物語には詰まっていた気がした。


 俺は自然と、その本のページを捲っていた。


 ◇   ◇   ◇


【紅玉いづき著・ミミズクと夜の王】

 

 魔物のはびこる夜の森に、一人の少女が訪れる。

 その額には「332」の焼き印。

 両手両足には、決して外れることのない鎖。

 自らをミミズクと名乗る少女は、美しき魔物の王へその身を差し出した。

 彼女の願いは、ただ一つ。

 ――あたしのことを、食べてくれませんか?

 死にたがり屋の少女ミミズクと、人間嫌いな魔物の王。

 すべての始まりは、美しい月夜。

 それは、絶望の果てから始まる、小さな少女の崩壊と再生の物語。


 ◇   ◇   ◇

 

 名作というものは、何度読み返しても色褪せない。ページを捲る度、初めて読んだ時にも感じた温かさが、胸にじんわりと広がっていくのを感じた。

 

 不思議な夜の森。静寂と囁きが交わるその場所で、登場人物達が発する一つ一つの言葉が胸に刻まれていく。孤独のようでいて、どこか温かい。夜空を照らす、月のような物語。

 

 最後まで読み終えた俺は、その本を鞄の中にしまった。ミミズクと夜の王は、杉山さんが所望していた心温まる優しい物語だ。そこに年齢など関係ないだろう。


 ファンタジーという現実にはない世界で展開される、御伽話のような美しい物語は、きっと彼の心にも温もりを感じさせてくれる筈だ。

 

 物語を改めて読み終えたいま、その確信が俺にはあった。


 ◇   ◇   ◇


 翌日、大学の講義を終えた俺は、選んだ本を杉山さんへ渡すため、今日も悠久の書館を訪れていた。玄関で出迎えてくれた雪村さんに聞いたところ、今日は杉山さんも既に来館しているらしい。


 その姿はすぐに見つかった。二階の回廊、その一角に設置された書架の前で本を開いている杉山さんの姿が見えた。


 窓から差し込む午後の光が、彼の白髪混じりの髪を柔らかく照らしている。静かな空気の中で本を読むその姿は、この書館の景色へ自然に溶け込んでいた。


 俺は団欒の間にある螺旋階段を上り、二階へ向かう。


「杉山さん、こんにちは」

「おや、河本君。こんにちは」


 杉山さんは本から視線を上げ、穏やかに微笑んだ。


「杉山さんに薦めたい本、持ってきました」


 俺は鞄から文庫本を取り出し、彼へ差し出す。杉山さんは受け取った本の表紙を眺めながら、老眼鏡を指先でくいっと持ち上げた。


「ミミズクと夜の王……題名からすると、ファンタジーかな?」

「どちらかと言えば、ダークファンタジー寄りですね。でも、すごく優しい話なんです」

「ははは、なるほどね」


 何が面白いのか分からなかったが、杉山さんは嬉しそうに頷いた。


「実はね、僕の方も君に薦める本が決まったんだ」

「本当ですか?」

「ああ。内容としてはミステリなんだけど、その世界観がファンタジーなんだ。少し変わった作品でね」


 ミステリなのに、世界観はファンタジー。聞いただけで、もう面白そうだった。


「それはなんというか……気が合いますね」

「そうかもしれないね。少し待っていてくれるかな。持ってくるよ」


 そう言って、杉山さんは回廊の奥へ歩き出した。その背を、俺も自然と追いかける。


 回廊の最奥。そこは、開かずの扉。源六さんの部屋がすぐ近くにある場所だった。


 俺は無意識に閉ざされた扉へ視線を向けてしまう。重厚な木製の扉。金属製の古びたドアノブ。相変わらず、そこだけ空気が違うように感じられた。


 まるで、この書館そのものが触れられたくない秘密を抱えているかのような……そんな錯覚。


 だが杉山さんは特に気にする様子もなく、その傍に設置された書架へ手を伸ばした。長い年月を感じさせる皺だらけの手が、一冊の文庫本を引き抜く。


「僕の好きな作家さんの代表作だよ」


 そう言って渡された本の表紙は、とても印象的だった。


 黒を基調とした背景。その中央には、両手で目を覆う白い少女の姿。


 周囲には色鮮やかな花々が咲き乱れている。綺麗なのに、どこか悲しい。


 闇の中で花に囲まれた少女の姿が、まるで光と絶望の狭間に立っているような、不安定さを感じさせた。


「なんだか凄く……記憶に残る表紙ですね」

「そうなんだ。本の内容を知れば、その装丁はもっと深く心に残ると思うよ」

「ありがとうございます。早速読ませてもらいます」

「ああ。僕の方こそありがとう。君が薦めてくれた本、ゆっくり楽しませてもらうよ」


 その後、俺は杉山さんと選んだ本を交換し、杉山さんをその場に残す形で一階へと下りることにした。


 螺旋階段を下りる途中、ふともう一度だけ振り返る。杉山さんは既にページを開いており、静かな表情で読み始めていた。その姿を見ていると、なんだか少し嬉しくなった。


 一階へ降りると、団欒の間には、先ほどまではいなかったイリスの姿があった。椅子へ腰掛け、白磁のカップを両手で包むように持っている。


 湯気の立ち上る珈琲を飲むその姿は、どこか絵画のように静かで綺麗だった。俺に気づいたイリスは、長い前髪の隙間から覗く瞳を細めて微笑む。


「先輩、こんにちは」

「こんにちは、イリス。何飲んでるの?」

「ドイトン珈琲です。先輩も飲みますか?」


 テーブルの上には、湯気を立てる珈琲サーバーが置かれていた。


「じゃあ、もらおうかな」


 俺が隣へ腰掛けると、イリスはすぐにもう一つカップを取り出し、丁寧な手つきで珈琲を注いでくれる。


「ドイトン珈琲って、初めて聞いたな」

「タイのドイトン地方が産地なんです。飲みやすくて、美味しいですよ」


 差し出されたカップを受け取る。ほんのりとした熱が指先へ伝わった。立ち上る香りは深く、落ち着く匂いだった。


 ひと口飲む。柔らかな苦味とコク。そこに微かな甘みと、ナッツのような香ばしさが残る。酸味は控えめで、とても飲みやすかった。


「うん、美味しい」

「良かったです」


 嬉しそうに微笑むイリスを見て、正直に可愛いなと思った。


「さっき、杉山さんと二階でお話していましたよね。書薦の儀ですか?」


 どうやら吹き抜け越しに、俺たちの様子を見ていたらしい。


「うん。今ちょうど、本を薦め合ったところ」


 俺は受け取った本をイリスへ見せる。すると彼女は「あ……その本」と、小さく呟いた。そして、表紙をそっと指先で撫でる。


「私も好きです、その作品」

「イリスも読んだことあるんだ」

「はい。初めて読んだ時の衝撃は、今でも忘れられません。それだけじゃなくて、彼女の著書は全部読みました」

「へえ、そんなに好きな作家さんなんだ」

「はい……もっと、彼女の作品を読みたかったです」


 その言葉と共に、イリスの表情が少しだけ翳る。嫌な予感がした。


「その作家さん、三十年ほど前に肺癌で亡くなられているんです。享年五十八歳でした」

「……そうなんだ」


 胸の奥へ、静かな重みが落ちる。


「珈琲、まだ残っていますので。飲みながらでも、ゆっくり読んでください」

「うん、ありがとう」


 著者が既にこの世を去っているという寂しさ。そして、それでもなお作品が誰かの心へ残り続けているということ。その事実に複雑な感情を抱きながら、俺は静かにページを開いた。

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