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書薦の儀:雪村真白①

 午後の書館は静寂に包まれていた。


 二階の窓から降り注ぐ淡い陽光が、書架の合間に柔らかな影を落としている。木の香りと、かすかに漂う古い紙の匂いが心を落ち着かせた。


 俺の隣を歩くのは、メイド姿の雪村さんだ。彼女の動きはしなやかで、書架の間を歩くたびにスカートの裾がふわりと揺れる。姿勢は常に美しく、その歩調に迷いはない。


「そういえば、先ほどアリスお嬢様からお聞きしたのですが、河本様はアルバイトをお探しとか」


 俺に薦める本を決めるため、書架の迷宮へと二人で立ち入ってから、雪村さんは思い出したようにそう言った。


「あ、はい、そうなんですよ。フルタイムで入れる人員が見つかったとかで、バイトのシフトを減らされちゃって。オートメーション化も進んでますし、どうしたものかと悩んでます」


 深刻そうに言ってみせたが、実際かなり困っていた。居酒屋のバイト代と仕送りだけでは、生活費に加えて書籍代まで賄うのは厳しい。


 読書が趣味の人間にとって、書籍代というのは削ろうと思って削れるものではない。新刊情報を見れば欲しくなるし、本屋へ立ち寄れば何かしら買ってしまう。


「なるほど。これはアリスお嬢様からの提案なのですが、この書館でアルバイトをするのはどうでしょう?」

「……へ?」


 突然の申し出に、俺はつい素っ頓狂な声を上げてしまった。


「アルバイトって、募集してるんですか?」

「募集……はしていなかったのですが、丁度良い機会だからとアリスお嬢様が。この書館は、私が過去に源六様から、そして今は遺言に沿う形で文倉家から管理を任されている立場なのですが、蔵書数も増え、館内もここまで広いものですから……お恥ずかしい話、私一人では管理が行き届かないという現状がございまして」


 そういえば昨日ここに初めて来た時、館を囲む庭先に雑草が生い茂っているのを見かけた。


 その時は単純に手入れがされていないのだと思ったが、どうやらそういう事情があったらしい。


「雅史様はお歳を召していらっしゃいますし、私にとって雇用主でもある文倉家のお二人に雑務を任せる訳にもいかず、どうしたものかと悩んでいた所に現れたのが河本様でした」

「俺にとっては願ってもない話なんですが……本当に良いんですかね?」

「はい。河本様にその気があるのなら話を通すと、アリスお嬢様も仰っていましたので問題ないかと。私としましても、人手が増えるのは大歓迎ですので」


 本当に願ってもない話だった。この場所は大学からも近く通いやすい。大好きな本に囲まれながら仕事ができるというのも魅力的だ。


 なにより、この場所、悠久の書館に通う理由が増える。それだけでも、俺にとっては十分すぎるほど魅力的だった。


「それなら是非、お願いしたいです」

「ああ、そう言ってもらえて良かったです。本当に困っていたので」


 雪村さんは心底ほっとしたように胸を撫で下ろした。


 その表情があまりにも嬉しそうで、歳上に対して失礼かもしれないが、ちょっと可愛いなと思ってしまう。


「仕事に関しては、私が手取り足取り教えますので安心してくださいね……と言っても、諸々の手続きや準備もありますので、まずは書薦の儀を進めましょう」


 その言葉が終わると同時に、雪村さんが足を止めた。そして、書架に並べられた本の隙間へ白魚のような細い指を滑り込ませる。


 背表紙をなぞるその仕草はどこか丁寧で、本そのものを慈しんでいるように見えた。


 やがて彼女は、その中から一冊の文庫本を静かに引き抜く。


「私が河本様に薦めようと思っていた作品です。読んだことはございますか?」


 差し出された本の表紙を見る。


 中央には、白い服を纏った少女が目を閉じて描かれていた。頬を伝う涙が印象的で、その姿からは胸の奥に沈む深い哀しみが伝わってくるようだった。


「……いえ、読んだことはないです。ただ、この作者さんの別作品なら読んだことがあります」

「あら、そうなのですね。私、最近これを読んで号泣してしまいまして。是非、誰かに薦めたいと思っていたんです」

「雪村さんは、感動系の作品が好きなんですか?」

「私は特定のジャンルにこだわりがある訳ではないですね。ミステリもホラーもSFもファンタジーも読みますし、小説以外なら詩やエッセイ、哲学書や技術書なんかも読みますよ」


 随分と幅広い。アリス先輩の時は「ミステリ好き」という明確な軸があったので選びやすかった。


 だが雪村さんの場合、逆に選択肢が多すぎる。


 どんな本なら、この人の心に深く残るのだろう。


 そんなことを考えていると、雪村さんは柔らかく微笑みながら続けた。


「ですが、そうですね。本を読んで涙を流した後って、なんだか心が軽くなりませんか? 悲しいのに、不思議と救われた気持ちになるんです。私は、あの余韻がとても好きなんですよ」

「なるほど。泣くって、ストレス発散にも繋がるって言いますもんね」

「ええ。ですので河本様も、その作品を読んで存分に泣いてください」


 くすくすと笑いながら、雪村さんは読書を促してくる。


 俺は言われるまま、書架の合間に設置された椅子へ腰を下ろした。膝の上に文庫本を置き、ゆっくりと表紙を開く。


 紙の擦れる音が、静かな書館の中に小さく響いた。

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