表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

PR
4/5

4. 無敗

 最終試験は、首席決定戦――受験者の頂を決める勝負である。


 朝の薄い光といっしょに、テオが宿までやってきた。寝台の脇に腰を下ろし、古い包帯をほどきながら、掌は空けて巻きます、といつもの平らな声で言う。薬草の匂いを含んだ白い布が、指の付け根から手首へ、傷を閉じ込めないよう慎重に回っていく。ひと晩たってもロッタの手の腫れは引かず、指を曲げるたび、内側で紙をゆっくり裂くような嫌な音がした。


「掌は、空けて巻くんですね?」


「ええ。そこが塞がると、あなたは使えなくなるので。三度も見れば、誰にでもわかります」


 テオは返事の代わりに布の端を歯で切ると、傷に触れないよう、指の間へ一本ずつ丁寧に通していく。


「その日ぶんを使い切ると、次の日に使えるのは一度だけです。残して終われば、次の日は三度に戻る……ですよね? 昨日、あなたは使い切った。だから今日は一度。……そのうえ、昨日の三度で、(けん)が伸びています。医者の言い方をすれば、休ませれば戻る。休ませなければ、戻らない」


「……うん」


「『うん』ではありません。棄権する、という選択があります」


「あるけど――選ばないです」


 テオは包帯の端をきっちり折り込み、それきり口を閉ざした。何を言っても無駄だ、とあの賢い頭で計算したのかもしれない。窓から差す朝の光が、彼の指先で白く跳ね、巻き終えた包帯までまぶしく光らせている。


 対戦相手の名が告げられた途端、広場を満たしていた話し声がしぼむ。その変化はロッタにも分かる。周りの者が、示し合わせたように揃って半歩ぶん下がったからだ。


「エーリク。階梯十二」


「無敗の、あの……」


 観客席のどこかで声を上げた者は、その先を慌てて飲み込み、唇を固く結ぶ。


 背の高い少年が、静かな足取りで壇へ上がってくる。急ぐでも、威張るでもない。どの動きも丁寧で、ロッタと目を合わせてから、礼儀正しく会釈をした。上着の縫い目までまっすぐで、この人の周りだけ、朝の光まで行儀よく見える。


「ロッタ・ヴェルクだね? すまない。名前を確かめさせてくれ」


「はい。合ってます」


「手を……痛めているそうだね?」


「昨日、三度使ったので」


 エーリクはほんの少し眉を寄せ、一度、自分の杖へ目を落とす。磨かれた杖の表面に、朝の光が細く映っていた。


「では、日を改めても――」


「いえ。今日で大丈夫です」


 すかさず、壇の下からテオの声が飛んでくる。いつもより速く、言葉の端まで尖っている。


「昨日、三度を使い切りました。使い切った次の日は一度だけです。つまり――一撃で終わらせるしかありません」


「うん。だから、一度で終わらせます」


 ロッタはぐっとこぶしを持ち上げる。


「ふぅん、一撃ね……」


 エーリクは口を閉じ――杖をゆっくり掲げて構える。


 たちまち周りがざわめく。けれど、心配する声とはどこか違う。あれは恐れよりも、遠慮に近いざわつきだ。波立つ声の底から、誰かの小さな「本気を出させるな」が、はっきりロッタの耳へ届いた。


 その声を聞いたとたん、エーリクの唇が、一瞬だけ、痛みをこらえるように歪む。


(いまの、痛そうな顔だったな)


 あの歪み方を、ロッタは知っている。村で、いちばん力の強い子が、石を投げるのをやめさせられたとき、あんな顔をしていたし、あの子はそれから川へ行かなくなって、川辺からあの子の笑い声まで消えた。強すぎるというのは、ときどき、こんなふうに独りになることらしい。


 エーリクが編みはじめる。ロッタには初めて見る形だ。杖の先からほどけた光が細い糸になって空へ伸び、壇の上でまぶしい編み目を重ねていく。見つめているだけで目の奥が刺されるように痛み、息を吸えば、口いっぱいに金物の味が広がった。


 編み目が三段になり、さらに四段になる。イーデの氷は、空へ突き立つ一本の柱だった。けれど、これは塔だ。厚い層のひとつひとつが別々に噛み合い、外から崩しても内側が残るよう、すきなく組まれている。


 誰かが「もうやめろ」と叫んでも、エーリクの手は止まらない。止めろと言われているのに、どう止めればいいのか分からない――ロッタの目には、そうとしか見えない。


 五段目がぴたりと閉じたとき、風の向きが変わった。壇の砂が足もとからさらわれ、光の塔を囲む輪になって舞い上がる。


(大きい。えらい、大きい)


 両手は、もう何もしなくても痛い。昨日の熱が、骨の芯で消え残った火のようにくすぶっている。それでもロッタは、逃げたがる足を地面へ縫い止めるように開き、光の真正面へ立った。


 周りの全員が、この人には手を抜いてきた――ロッタには、そう見える。怖がる理由も、遠慮するやり方も、あたしは知らない。知らないから、抜かない。


 まぶしさの芯で、編み目の最後の一目が閉じる。


「――いま、殴っていいですか?」


 エーリクが息をのみ、整っていた顔を少年らしく崩して、目を見開いた。


 ぱん。


 その小さな音だけを残し、光の塔がほどけて、跡形もなく空気へ戻る。


 衝撃と熱が、遅れて両手へ落ちてきた。氷の冷たさとはまるで違う。日なたの石を素手で掴んだときの熱が五段ぶん、いっぺんに皮膚を突き抜け、腕の奥へ流れ込んでくるようだった。


 ロッタの膝が力を失って折れる。それでも、倒れない。ここで倒れたら、村のみんなに申し訳が立たない。


 目の前が水に濡れたように滲む。揺れる視界の端で、観客席から誰かが立ち上がり、倒れた椅子の音が、広場のざわめきを切り裂いて響いた。


 壇の上では、エーリクの指から杖がこぼれ、乾いた地面へ転がる。


 エーリクは拾おうと身を屈める。けれど、指は杖のすぐそばで迷い、自分の手を見つめた。やがて口もとがほどける。どう笑えばいいのか分からない人のような、ぎこちない笑い方だった。


「――もう一回」


 敬語も余裕も、その声から同時にこぼれ落ちている。


「もう一回、やってくれ。頼む」


「でも、今日は一度きりなので」


「そうか。……そうか」


 エーリクはようやく杖を拾うと、胸いっぱいに息を吸い、背を折るように深く頭を下げた。


「僕の負けだ、ありがとう」


「え?」


「僕がここに居ると、みんな手を抜くんだ。生まれてから、ずっと。君だけは、抜かなかった」


「抜き方を、知らないので」


「なら、知らないでいてくれ。頼むから」


 その声に混じった細いかすれを、ロッタの耳は拾ってしまう。強い人でも、こんなふうに声がかすれるのか? 初めて知った気がした。あたしはこの人に勝ったはずなのに、勝った喜びは少しも湧いてこない。


 エーリクは頭を上げ、何か言いかけて、唇を固く結ぶ。飲み込んだ言葉があるらしい、とロッタは思った。そういえば、この人はさっきから、まだ名乗っていない。家の名も、どこの誰なのかも、ロッタはまだ知らない。


「あんた、名字は?」


「……いまは、ないことにしている」


「へんなの」


「そうだね。へんなんだ」


 その言い方があんまり寂しそうで、ロッタは、せめて笑ってやることにした。口もとを上げた途端、手の奥がずきりと鳴る。痛みに顔をしかめそうになるけれど、それでも歯を見せて笑ってみせた。


 壊すのは、いつも一瞬だ。けれど今日、ロッタの手が壊したものは、光の塔よりずっと古く、この人がずっと一人で編んできたもの。


 張りつめていた観客席が、ようやく息を吐くように声を取り戻す。


 その声のなかに「殿下」という呼びかけが混じる。けれど、誰のことか考える前に、手の痛みと歓声がその言葉を押し流していく。無敗と呼ばれていたその人が、なぜ礼を言ったのかも、まだ分からないままだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ