5. 首席、ロッタ・ヴェルク
発表の日、広場は受験生とその家族で埋まり、日の光の下を期待と不安のざわめきが行き交っていた。母親は息子の襟をせわしなく直し、父親は人波の向こうにいる娘の名を呼んでいる。その声が耳に入るたび、ロッタの胸には遠い村の土の匂いまでよみがえった。けれど、ロッタの村からは誰も来ていない。来られるはずがない。三日かかる道だ。
包帯の上から祖母の革手袋を強引にはめた両手を、ロッタは背中でそっと組んでいる。遠い村からついてきた革の匂いだけが、ここでは小さな味方のようだった。
今日も一度だけだ。昨日の一度を使い切ったから、今日もそれきり。その事実が、包帯の下で脈打つ痛みより重く胸に居座っている。
ざわめきの向こうで壇に立ったのは、背筋のまっすぐ伸びた白髪の男だ。
「オーギュスト・ハーゲン。魔法評議会議長である」
その名が広場に響くと、イーデの背がぴくりと伸びる。隣にいるロッタにも、短く息をのむ気配が伝わってきた。
「私は数を言う。四十年前まで、この学校の合格者は、十のうち九が名門の子であった。〈階梯〉ができてからは、十のうち四である。生まれで人を潰さない仕組みを、私が作った」
誰も反論の声を上げない。
あの集団戦で押し出されて前に立たされた六人だって、〈階梯〉がなければ、ここへ来ることすらできなかったのだ。メルは、四代前まで炭を焼いていた家の子だという。その子も今、まぶしい壇のそばに立っている。
「ついでに言えば、私の階梯は五である。名門の子でもない。私は、測ることでここまで来た」
広場がざわめき、波のような驚きが石畳を走る。イーデは息を詰めたまま父の横顔を見つめていた。その目だけが、ほんの少し、父を見上げる子供のものへ戻っている。
「ゆえに、私は数値のない者を入れられない。ロッタ・ヴェルク。君には数値がない。入学資格の要件を、君は満たさない」
ハーゲンはロッタを見下ろした。
「はい。たぶん、そうだと思います」
この人は、たぶん正しい。正しいからこそ、その言葉は重く、どこにも逃げ道がない。ロッタは正しい人に反論する言葉を持っていない。
「認めるのか?」
「あたし、ゼロなので」
ハーゲンは表情を変えず、杖を横へ鋭く払う。
「証明したまえ。これを砕けたなら、私は自分の作った規則を曲げる。その曲げ方も、先に言っておく。〈階梯〉が数える値を、ひとつ増やす」
杖の先が示したのは、壇の中央に据えられた、角のすり減った古い石柱だった。ハーゲンはそこへ歩み寄り、その面にためらいなく手のひらを置く。
「断っておく。これは私の術ではない。〈試しの石〉という。代々の首席が編んだ防護が、この石に残っている」
石の奥が低く鳴り、淡い光の膜が音もなく立ち上がる。編み目は糸より細いのに、膜そのものは厚く、幾重にも折り返されていた。階梯十二の防護だ、と人垣のどこかで誰かが呻く。その声に、広場の空気まで冷たくなった気がした。
「もうひとつ断っておく。石に手を置いた者は、膜が立つあいだ手を離せない。離せば、編みが暴れる」
ロッタは手袋を外そうとする。けれど、腫れた指が革の内側に食い込み、きつい口からどうしても抜けない。
テオが横からそっと手を伸ばし、革の指を一本ずつ、包帯まで引かないように抜いてくれる。やさしくされるほど、ロッタは自分の手を見ていられない。手袋を脱がされた両手は、掌だけが白い包帯からのぞき、そこだけ自分のものとは思えない色をしていた。
「やめてください」
その声と同時に、テオがロッタをかばうように前へ出る。
「確率はゼロです。あなたの手は、もう――」
「数で来たか?」
ハーゲンの目が、そこで初めてテオを正面から捉える。
「私も数で来た。だからこそ言っておく。確率の話は、規則を変える理由にならん」
「……存じています」
「〈試しの石〉なら、わたくしがやります」
迷いのない声を上げたのは、イーデだ。ロッタが振り向くと、顔は青ざめているのに、顎だけはまっすぐ上がっている。
「父上。わたくしが砕きます。階梯十一です。娘です。――ご覧ください」
「何でお前が? イーデ。やめなさい!」
壇上で少しも揺らがなかったハーゲンの声が、そこで初めて掠れた。
イーデの放った氷が膜へ激しくぶつかる。光の編み目はびくともせず、受けた力を折り返して、白い氷をまっすぐ彼女自身へ返す。
キャァッ!
「イーデ!」
ハーゲンが石から手を引こうとする。だが、指は石に貼りついたまま、離れない。腕の筋が浮き上がるほど引いても、石はその手を放さなかった。
さらに冷気がイーデを包み込んでいく。
くぅぅぅ……。
自らの渾身の魔法を喰らってしまったイーデは、霜に覆われながら苦しそうにうめく。
「――解くには、上から順にほどく間がいる」
掠れたその声を聞いて、ロッタの背を冷たいものが走る。言い訳ではない。ただ、間に合わない――それだけを告げる声だ。
誰も、間に合わない。
考えるより先に、ロッタの体が前へ飛び出す。訊く相手を探す時間なんてない。
(今日ぶんの、一度)
これを使えば、もう膜には届かない。自分を証明する道は、ここで消える。そんなことは分かっている。それでも、目の前のイーデを見捨てるなんてできない。ロッタは痛む腕を、迷わず振り抜いた。
ぱん。
乾いた音が広場の端までまっすぐ渡り、迫っていた冷気が跡形もなく消える。張りつめていた糸まで切れたように、イーデの結い上げた髪がほどけ、肩へ流れ落ちた。
ロッタは勢いのまま膝をつき、浅い息を必死につなぐ。手のひらの皮が裂け、白い包帯にじわりと赤が広がっていた。痛みはいつも遅れてやってくる。今はまだ、熱いだけだ。
(もう、ない)
「あぁ、もう今日はおしまいだ」
テオが弾かれたように前へ出る。声は震え、慌てて包帯を用意する。
「今日ぶんは、いま使いました。もう……終わりです」
二度目は無い。分かっていたはずの事実が、今になって胸の底へ重く沈んでいく。
「……ごめん。余計なことしちゃった……」
イーデは力が抜けたように、その場へゆっくり座り込む。それから、ほどけた髪を肩に垂らしたまま、濡れた目でロッタを見上げた。
「……ロッタさん」
イーデに名前で呼ばれたのは、これが初めてだ。その呼び方だけで、自分とイーデの間にあった遠さが、ほんの少し縮んでいく。
「わたくし、あなたの手を、一度も見ていませんでした」
「見なくていいです。あたしも、あんたの指しか見てなかったので」
イーデは笑おうとして、口もとを不器用に持ち上げる。けれど、その笑みは形になる前に崩れ、彼女は袖で目を押さえた。
それでも、石の膜は変わらず立っている。ロッタの手は、一度もそこへ触れていない。
ハーゲンは慎重に石の面を二度叩き、詠唱を進めていく――――。
低く続いていた鳴りが止み、光の膜は上から順にほどけていった。細かな編みがすべて消えてから、彼はようやく石から手を離す。
そのまま娘のほうへ二歩だけ進み、伸ばしかけた手を下ろして、そこで止まる。
「イーデ。……立てるか?」
イーデが唇を結んで、小さくうなずく。ハーゲンはそれを見届けると、それ以上そばへ寄らず、重い足取りで壇の中央へ戻った。
「条件は満たされていない。君は膜に触れていない」
「はい。触ってないです」
「わかっていて、娘のほうへ出たな?」
「はい」
ハーゲンは何も言わず、長いことロッタを見つめている。広場じゅうが、その沈黙に息を止めている。
「――君は証明の機会を捨て、目の前で倒れる者を選んだ。〈階梯〉は魔力を測る道具である。だが、いま起きたことを、私の道具は測れない」
「娘のためか?」
観客席のどこかから、そんな声が飛ぶ。誰のものか確かめるより早く、ハーゲンは首を横に振った。
「違う。娘が誰であっても、私は同じことを言う。
「〈階梯〉に一項を加える。ゼロも等級と数える。ゼロは、無いという意味ではない。測ってなお、ゼロと出たという意味である」
誰も声を出さない。沈黙のなか、ハーゲンはゆっくり顔を上げる。喉の奥から絞り出した声は、ほんの少しかすれている。
「首席、ロッタ・ヴェルク」
凍っていた広場の空気を破って、拍手が起こる。
パチパチ、と最初の一つが鳴り、追いかけるように広場じゅうへ広がっていく。人の肩を越え、壇を越え、空まで満ちていくその音を聞きながら、ロッタは自分の壊れた手を見つめた。この音を、あたしは知っている。あたしがずっと立ててきた音を、いま、みんなが返してくれている。
あたしは、まだ何ひとつ生み出していない。この手が今日やったのも、やっぱり壊すことだけだ。村を出るときの自分なら、その事実が恥ずかしくて、すぐ袖の下へ隠していただろう。
それでも、壊したもののぶんだけ、誰かが倒れずにここへ立っている。
壊すことしかできない手だと、ずっと思っていた。けれど、それが何なのかは、誰かがそう呼んでくれるまで、自分では分からないものらしい。包帯の奥で脈打つこの手を、今だけは袖の下へ隠さなくていい気がする。
人波を押し分け、テオが真っ赤な顔で走ってくる。イーデも袖で目もとを拭いながら立ち上がり、ほどけた髪のままロッタの隣に並ぶ。庇われた六人は、後ろのほうで腕を振りながら飛び跳ねていた。
みんなの口が、それぞれに何かを叫んでいる。何を言っているのか、重なる拍手にさらわれて、よく聞こえない。それなのに、全部わかる。嬉しい――――。
広場を囲む柵の上で、裸足の子供が足を揺らしている。日の光が、その小さな輪郭だけを白く縁取っている。
「ふん。……今のは、下手じゃなかったぞ」
「え? いま、なんて?」
ロッタが慌てて顔を上げたときには、欄干にはもう誰も座っていない。そこに残っているのは、三百年ぶんの埃だけだ。細かな粒が、鳴りやまない拍手に合わせるように、金色の日差しのなかを静かに舞っていた。




