2. 三十七を数えるあいだ
二次試験は、石造りの壇で向かい合う一対一の勝負だ。
控えの間で、ロッタは自分の手を膝の上に伏せ、なるべくおとなしく座っている。こぶしはまだ赤く、触れなくても脈を打つように痛む。昨日ひとつ砕いただけなのに、皮の下では小さな火が消えずに居座っていた。
向かいの受験生たちは、みな杖の手入れに忙しい。やわらかな布で拭き、油を差し、窓の光にかざして曇りを確かめている。持つものがある人には、朝にすることがあるらしい。ロッタは、それを初めて知る。
(あたしは、爪を切ってきただけなのに。杖の代わりに、こぶしへ油を差すわけにもいかないし)
「あんた、その杖、すごくきれいだね」
「……は?」
「毎朝、拭いてるんでしょう。いいなあ、そういうの」
訊かれた受験生は眉を寄せ、返す言葉を探すように口を開いては閉じる。それから、杖をそっと膝の内側へ隠した。悪いことを言ったのだろうか? ロッタは喉の奥がきゅっと狭くなるのを感じ、膝の上の手をもう一度、行儀よく伏せ直す。
名前を呼ばれて壇へ上がると、朝の光を背に、正面には昨日の娘が立っていた。観客席は昨日の三倍に膨らみ、ざわめきが石壁のあいだを行き来している。刺さるような視線は、どれもロッタへ向いていた。みんな、ゼロを見に来たのだ。
「イーデ・ハーゲン。階梯十一」
「ロッタ・ヴェルクです。えっと、ゼロです」
「ええ、知ってますわ」
イーデは杖を抜こうともせず、指だけを胸の前でぴたりと組む。爪はつやのある貝殻みたいに、きれいに整えられている。そのくせ、人差し指の関節には硬くなった皮が乗っていた。飾るためだけの手ではないらしい。
「昨日のあれは、ただのまぐれです。試験官の術は編みが甘い。けれど、わたくしの術は違います」
「へぇ、そうなんですね?」
「……おまえは、どうしてそんなに余裕なのですか?」
ロッタは少し考え、赤いこぶしを見下ろす。けれど、考えるほどのことでもなかった。答えは、いつだって同じだ。
「いやぁ、どんな魔法でも、殴るだけですから。はっはっは」
イーデの唇が薄く動く。何か言いかけたらしい。けれど声になる前に、きゅっと結ばれた。
観客席の端では、痩せた少年が、ぶつぶつ唇を動かしながら指を折っている。
「自分の計算では、合格率は百人に四人。でも、階梯ゼロだと、前代未聞。計算そのものが立ちません」
周りは誰も振り向かない。少年も気にする様子はなく、また指を折り直す。
そのとき、イーデが唱えはじめる。
低く、正確に、一語も濁らせずに。声が石の壇を滑るたび、空気からぬくもりが抜けていく。壇の石は白く曇り、ロッタの吐く息が淡い雲になった。
一。二。三。
「うわぁ、これはすごい」「ヤバいって!」「逃げなよ!」
ロッタには、まだやることがない。編み終わる前の魔法は砕けない。なら、完成するまで逃げずに立っているしかないのだ。
十。十一。十二。
押し寄せてくる冷たさは、じわじわと痛みに変わっていく。まつげが凍りつき、まばたきのたびに細い氷が皮膚を引っ張った。足の指の感覚は、爪の先から順に、雪へ埋もれるように消えていく。
(これ、本当にいけるのかなぁ?)
怖い。そう認めた瞬間、ロッタは、自分の膝がわずかに震えていることに初めて気づく。
村の火は、こんなふうに静かに人を殺そうとはしない。火は怒って暴れる。だから、こちらも負けずに怒って叩けた。けれど、この冷たさには、怒りがひとつも混じっていない。ただ正しく、少しも狂わず、人を凍らせるためだけに編まれている。怒鳴り声も、憎しみもない。それが、火よりずっと怖かった。
怒っていないものを、どうやって殴ればいいのだろう? こぶしの向け先が、急に分からなくなる。
二十。二十一。
目の端に、イーデの視線が観客席の一点へ走るのが映る。誰も座っていない席だ。何かを待つように、ほんのわずか、その場所を見た。けれど彼女はすぐに目を戻し、詠唱の速さを一度も変えない。
(あれ? この人、誰かに見ていてほしいの?)
その一瞬で、怖さの色がすっと変わる。目の前にあるのは、冷たい正しさの塊ではない。誰かに見ていてほしくて、震える指をきれいに組み、必死に隠している人。その人が編んだものなのだ。そう思うと、氷の向こうに、ようやくイーデの顔が見えてくる。
二十八。二十九。
ロッタは、凍えた胸の底まで届くように、大きく息をつく――――。
峠で、みんなが手を振っていた。風に髪を乱されながら、ばあちゃんだけが、最後まで手を下ろさない。小さくなっていくあの手を思い出すと、冷え切った足の裏に力が戻ってくる。
(帰ったら、ちゃんとやってきたって、ばあちゃんに言うんだ)
三十。……三十六。
三十七。
イーデの前に、氷の柱がそびえ立つ。人の胴より太く、広場の旗竿より高い。透き通る表面には細かい編み目がびっしりと走り、朝の光を拾って、白や青のきらめきにして撒いている。美しいのに、冷気は滝のように壇へ落ち、ロッタの足首へ蛇の舌みたいに絡みついた。
(きれいだ)
ロッタは、痛いほど素直にそう思う。この人は、きっとこれを何百回も編んできたのだ。指の運びに迷いがひとつもなかった。けれど、その何百回のあいだ、誰も見ていなかったのかもしれない。そう考えると、この美しさを壊すこぶしが、わずかに重くなる。
やがて氷柱から氷の破片が飛び始める。こんなのをまともに食らい続けたら凍死してしまう。
「――いま、殴っていいですか?」
「なっ……」
ロッタは凍りついた足で踏み込み、赤いこぶしを、氷の柱へ真っすぐ叩き込んだ。
ぱん。
柱が、根元から消えた――――。
落ちるでもなく、砕けるでもない。きらめきさえ残さず、最初からそこに無かったように、柱は空気へ戻っていく。白く冷えていた壇には、まだらの温度だけが残った。
ロッタのこぶしが、目の前で赤黒くふくれ上がる。氷に詰まっていた冷たさが、逃げ場を探して全部そこへ落ちてきたのだ。骨の内側を細い針で押し続けられるような痛みが、手首を越え、肘まで駆け上がってくる。声を出したら負ける気がして、奥歯を噛む。
息を吸うと、胸の奥までひやりと冷えた。それでも息は入る。まだ立っていられる。
イーデは、組んだ指をほどけないまま、氷の消えた場所を見つめて立っている。
「なぜ……。あれほど正しく、細かく編んだものが、なぜ砕けるのですか?」
「よく編んであったので、よく通りました」
「よく、通った?」
「はい。あんなにきれいなの、初めて触りました。はははは」
イーデのまつげが、風もないのに、かすかに震える。
「褒めて……いるのですか?」
「はい」
「ふぅ……。降参ですわ」
イーデの目が、一度だけ揺れる。鋭く張っていた光がほどけ、すぐにまた隠れた。
「……わたくし、褒められたことがないのです。父に、一度も」
言ってしまってから、イーデははっと目を見開き、自分の口を手で押さえる。耳の先が、みるみる赤く染まった。ロッタは何と返せばいいのか分からない。まずい言葉で触れたら、いま見えたものが壊れそうで、腫れた手をうしろへ隠す。
この人は、たぶん、あたしより長く立っていたのだ。誰も座っていない席のほうを向いて、声の届かない誰かを待ちながら。そう思うと、ロッタの胸の奥が、腫れた手とは違うふうに痛んだ。
「次も、あんたと当たったらいいのに。ふふっ」
「……正気ですか?」
「うん。だってあの綺麗なの、もう一回見たいので」
イーデは答えない。扇も鳴らさない。ただ、胸の前で組んでいた指を、ようやくほどく。ほどいた手は行き場をなくし、ためらうように裾を握った。白い布に、細いしわが寄る。
主任試験官が、壇の下からこちらへ歩いてくる。杖の先で石の床を一度突くと、広場のざわめきが波のように引いた。静けさの真ん中へ、よく通る声を投げる。
「ロッタ・ヴェルク。合格。見事だった。首席候補として扱う」
広場じゅうが、割れるような歓声で震える。
ロッタは、自分の名前が石壁に跳ね返り、胸へ戻ってくるのを、突っ立ったまま聞いている。首席候補というのが何なのか、やっぱりよく分からない。分からないのに、ばあちゃんまで届いた気がして、鼻の奥がつんとした。笑えばいいのか、泣けばいいのか、それさえ分からない。
(ばあちゃん、いま、あたしの名前が呼ばれたよ。ちゃんと立ってたよ)
腫れた手を、そっと胸のところで合わせる。合わせたところから痛みが走った。痛い。それでも、この名前と歓声をこぼさないように、いまは離したくない。
「……あの」
壇を下りかけたイーデが、ぴたりと足を止める。こちらを見ないまま、かすかにあごを上げて言う。
「明日も、立っていなさい。倒れられると、わたくしが負けた甲斐がありません」




