1. いま、殴っていいですか
「はえ~……!」
王都リーゼの門は、村のどの家よりもずっと高く、白い石壁が空へ向かってそびえている。赤毛の三つ編みを背で揺らし、ロッタ・ヴェルクは口を開けたまま思いきり顔を上げた。けれど、てっぺんを見つけるより先に、首の後ろがじんじん痛みだす。
村ケーレを出てから三日。祖母が持たせてくれた干し杏を名残惜しく食べ終えたころ、足もとの道はいつの間にか土から石畳へ変わっていた。土の道なら踏むたび柔らかく足へ返事をくれるのに、灰色の石はよそ者の靴底を黙って固く押し返してくる。
「よっこらしょい、っと」
ずり落ちかけた背負い袋を、肩でぐいと担ぎ直す。中には、みんなが持たせてくれた食べ物や日用品、着替え、それから祖母の革手袋がひと組。どれも置いてこられないぶんだけ、ちょいと重い。
門をくぐった途端、匂いまでがらりと変わる。焼きたてのパン、揚げ油の香ばしさ、それに名前も知らない花の、甘く澄んだ香り。
入試だとはるばる来たけれど、受かるつもりはない。あたしは魔法が使えないのだ。一度も、指の先ほども。
それでも、村のみんなは峠までついてきて、手を振りながら見送ってくれた。記念に受けて帰るだけ――そう決めてきたはずなのに、門をくぐった瞬間、足がひとりでに弾み、石畳の先を急いでいる。胸の奥にしまった小さな期待まで、あたしを追い越して駆けていきそうだった。
◇
人の波に押し戻され、道を尋ねては曲がり角を間違え、それでもようやくたどり着いた立派な建物――。
王立宮廷魔法学校の受付では、人の背丈ほどもある水晶が、天井から落ちる光を冷たく抱いて立っている。
「そこへ手を置きなさい。〈階梯〉が魔力を測る。一から十二までのどこかに、必ず値が出る」
係の男はあくびをかみ殺すような声で告げる。ロッタは服の裾で手のひらをぬぐい、言われたとおり、ひやりとした水晶へそっと重ねた。
水晶は光らず、鳴りもせず、眠ったように透き通ったままだ。
「ゼ、ゼロ……?」
「はい?」
「ゼロだ。一でもない。測定不能ですらない。……まぎれもなく、ゼロだ。初めて見た!」
男はロッタの手を水晶からどけさせ、曇りでもあるのかと疑うように、その面を袖で磨いた。それから水晶とロッタの手を、もう一度、疑わしげに見比べる。
「それだと、等級はどうなるんですか?」
「等級には入らん。〈該当なし〉だ。入学できるかどうかは、最後に評議会が見る」
背後で笑いが弾けた。若い声、低い声、扇の向こうで息を漏らす音。笑い声というものは、羽のように軽いくせに、驚くほど遠くまで届くらしい。細い針になって、耳の奥へちくちく刺さってくる。
(聞こえてるぞ!)
ロッタは熱くなった頬をむっとふくらませ、眉間にぎゅっとしわを寄せて振り返る。
確かに、あたしは魔法が使えない。どれだけ念じても、指先には火花さえ宿らない。けれど、ひとつだけ、これなら誰にも負けないと思えることがある。
畑を守る魔除けの火が暴れた夜、大人たちは桶を抱えて水場へ走った。けれどロッタだけは、逆巻く火へまっすぐ歩いていき、熱に目を細めながら素手で叩く。そうすれば、怒っていた炎は嘘のようにほどけて消える。
そして、祖母がくれた言葉を、ひとつだけ胸にしまっている。魔力の無い手は最強の手だ――その声を思い出せば、魔法を生み出せない自分の手が、ほんの少し誇らしくなる。
◇
一次試験は、〈防〉と呼ばれている。
石畳の広場に白い線が引かれ、その正面には試験官が立つ。正面から撃たれる魔法を防げたら通る――決まりはそれだけだ。
受験生たちはシールドを展開したり、魔法を相殺したり、派手に合格を決めていく。
やがて順番が来た――――。
「よし!」
ロッタは杖も盾も持たず、空っぽの両手で線の上へ進み出た。
「ヴェルク……だな。階梯ゼロ。……本当に、そのままやるのか?」
「はい。やります」
「杖は?」
「持ってないです」
試験官の眉間に深いしわが寄り、ロッタの空っぽの両手へ疑いの目が落ちる。
「では、防具は?」
「これです」
ロッタが得意げに祖母の革手袋を掲げてみせると、試験官は言葉を失い、青い空を仰いだ。
「……知らんぞ。焦げても、こちらの責任ではないからな」
「はい。焦げるのには慣れてます。村の火は、よく暴れるので。元気がありすぎるんです。はっはっは!」
試験官はまだ何か言いたげに口を結んだが、やがて長く息を吐き、覚悟を決めたように指を鳴らす。
途端に、頬へ触れる空気が熱を帯びる。ロッタの目の前で、拳ほどの炎の球が、見えない糸を巻き取るようにふくらみながら丸く閉じていく。頬はじりじり乾き、まつげの先が熱で縮れる匂いに、鼻の奥がつんとした。
(まだ。まだ編んでる。焦るな、あたし)
編み終わる前に手を出せば、魔法へ触れるどころか、むき出しの指を火へ突っ込むだけになる。祖母に教わった、その瞬間を待つしかない。
「おいおい、本当に大丈夫か?」「無理すんなよ!」「あらら、田舎娘には困りますわね」
受験生たちのヤジが背中へ降りかかる。耳が熱くなるけれど、いま振り向いたら、きっと火より先にあの笑い声を叩きたくなる。ロッタは奥歯を噛み、炎だけをにらんだ。
やがて、炎の球の縁がするりと閉じ、揺れていた形がぴたりと定まる。
その瞬間、ロッタは祖母の革手袋を外し、落とさないよう脇へ挟む。さらした手のひらには、峠を渡る風の冷たさがまだ残っている気がする。ばあちゃんの手は、この手袋よりもっと硬くて、いつも薪と灰の匂いがしていた。思い出した温もりが、熱風の中で指先を支えてくれる。
「ファイヤー!」
試験官の声とともに、火の玉が赤い尾を引いて放たれる――――。
「――いま、殴っていいですか?」
「は……?」
ぽかんとした返事を許可と受け取り、ロッタは答えを待たずに石畳を強く蹴った。赤い編み髪を跳ね上げ、火の玉へ向かって威勢よく踏み込む。
「そいやー!」
肩から腕へ力を通し、渾身のパンチを、迫る火の玉のど真ん中へ喰らわせる――――。
ぱん。
乾いた音がひとつ、小さく鳴ったかと思うと、燃え盛る炎は内側からほどけ、跡形もなく消える。煙さえ残らない。ただ焦げた匂いだけが、呆然とした広場をゆっくり包んだ。
「へ……?」「はぁ?」「なんで……消えたんだ?」
広場じゅうから音が消え、ざわめきの余韻まで凍りついた。扇をあおぐ気配も止まっている。
試験官は口を半分開けたまま、自分の指先とロッタの無傷の手を三度見比べる。しまいには自分の手のひらまで裏返し、答えがそこにもないと悟ったように、力なく腕を下ろす。
周りの受験生も、目を丸くしたり首をひねったりするばかりで、いま何が起きたのか分からない顔をしている。その視線が今度は痛くなくて、ロッタの胸の奥に、くすぐったい風が吹く。
「……もう一度、やってみろ」
かすかに震えるその声を、ロッタの耳は聞き逃さない。
「もう一度は、なしにしときます」
「なぜだ?」
「一日に三度しか使えないので。今日は、ここぞというときまでとっておきます」
そう、際限なく使える技ではないのだ。それに、触れないものは、どう頑張っても砕けない。だからこそ、使う瞬間は自分で選びたい。
つまり、あたしにできるのは、日に三度だけ。向かってきたものへこの手で触れ、編み目をほどいて消す――それだけなのだ。
「……三度、と」
試験官は、まるで聞き間違いを確かめるように、その二文字だけを低く繰り返す。
「一日に三度と、確かにそう言ったな?」
「はい。そうです」
試験官は何か言おうと口を開き、結局、声の代わりに息だけで短く笑った。その目から、さっきまでの呆れが消えている。
「……なら、とっておけ。明日、改めて見せてもらおう」
明日と言われた!? 胸の中で期待がぱっと花を開き、さっきまで重かった背負い袋まで急に軽くなる。
「ありがとうです!」
喜びがこぼれて頬がゆるむ。ロッタは腰から勢いよくぺこりと頭を下げた。
◇
胸を張って意気揚々と広場を引き上げかけたところへ、棘を含んだ声が背後から細く突き刺さる。
「おまえ、ゼロですって? 測定不能でもなく、本当にゼロ?」
振り返ると、黒い髪を乱れなくきつく結い上げた娘が、背筋を伸ばして立っている。制服の襟は糊でぴんと張り、形のよい眉の下で、目だけが冬の水のように冷たい。
「田舎から出てきて、記念受験ですか? まあ、ご自由に。どうせすぐ帰ることになるのですから」
「うん。たぶん帰ります。……それで、あんたは受かるんですか?」
「……いま、わたくしのことを、あんたと呼びましたか?」
「言いました。……だめでした?」
娘は答えない。つんと顎を上げ、ふん! と鼻を鳴らし、扇をぱちんと閉じると、そのまま行ってしまった。腹は立つのに、石畳を滑るような歩き方は見とれるほどきれいだ。
「いまの、ハーゲン家のご令嬢だろ。しかも今年は、殿下も受けられるって話だぞ」
「殿下って、あの殿下か?」
「顔は知らん。名乗らないらしいからな」
どこかで、誰かが声を潜めてそんな話をしている。ロッタは背負い袋を担ぎ直し、耳の端へ入れたまま、あとは風に流した。偉い人の話なんて、村にいたころから雲より遠い。
十六になった春、村の医者は、ロッタの両手をひどく長いあいだ握っていた。爪の付け根を押し、節をひとつずつ数え、両手を裏返して黙って見つめる。やがて静かに息を吐く。それでも、医者は最後まで何も言わなかった。窓の外では雪解けの水が樋を鳴らし、明るい春の音ばかりが狭い部屋へ流れ込んでくる。あの沈黙が何を意味するのか、ロッタには分かっている。それでも、そのことはまだ誰にも話していない。口に出した途端、この手が本当に自分のものではなくなりそうで、いつものように笑えなくなる気がするからだ。
魔法がなぜ消えるのか、村の誰にも分からない。けれど祖母だけは、その理由を、火のそばで昔話でもするように教えてくれた。
囲炉裏の灰をゆっくりかき混ぜ、それからしわだらけの指を三本、ロッタの目の前で順に立てて。
一 魔法は魔力で編まれる。編み終わって形になった瞬間から、それは世界に在る。
二 魔力を持つ手は、自分の魔力に弾かれて、編み目に指を入れられない。
三 だから魔法を素手で解けるのは、魔力がゼロの手だけである。
王都の誰も、これを知らないらしい。魔力がゼロの人間はほとんど生まれないから、試そうと思う者すらいなかったのだ。〈階梯〉は一から十二を測る道具で、ゼロは等級ではなく〈該当なし〉として片づけられてきた。大きな水晶が黙り込んだのは、測れなかったのではない。あたしの手が、あの道具の外側にあっただけだ。
もちろん、できないことも祖母はきちんと数えている。そのうちのひとつだけは、ロッタが火を見るたび、あの低く穏やかな声と一緒に、いまも決まって思い出す。
編み終わる前の魔法は砕けない。まだ形のないものには、この指であっても入り込む隙間がない。だから、炎の縁が閉じるあの瞬間まで、熱さに負けず待たなければならない。
◇
さて、と。とりあえず、今日の宿を探さねばならない。受けられた喜びだけでは、夜露はしのげないのだ。
ところが顔を上げれば、行き交う人たちが、そろって奇異な目をこちらへ向けている。
ロッタが歩き出すたび、人波が割れるように勝手に道ができる。その脇からひそひそ声が追いかけてきて、もの珍しそうな視線が頬にも背中にも降り注いだ。
(あたし、そんなに変かしら? 顔にすすでもついてる?)
村では、火を消しても誰も振り返らない。ロッタが火を消すのは、朝に鶏が鳴くのと同じくらい当たり前だったからだ。けれど、知らない人たちにいっせいに振り返られると、心の中までのぞかれているようで、どうにも落ち着かない。受かるつもりはなく、記念に受けて帰るだけ――そう決めて王都へ来たはずなのに、試験官に明日と言われてから、胸の奥が妙に弾んでいる。いまもその言葉が頭から離れず、いつのまにか明日を待っている。なぜそんな自分がいるのか、肩紐を握りながら考えても分からなかった。




