祝主は、愛依を呼ぶ
突然、がくりと立ち止まった司凉に、側を走っていた奏慧が驚いたように歩を止めた。
「どうした」
「翔士の符が…」
袷に入れておいた翔士の符が、かき消えるように霧散した。それが何を意味するか、分からぬ司凉ではなかった。
危機に陥ったら自分を呼んで、と翔士が余りにもごねるものだから、仕方なしに持ってやった符だった。
使う気などさらさらなく、ただ翔士の気が済むならばと受け取ってやっただけなのに、あの愛依はこんな残酷なやり方で自分に別れを告げてくるのだ。
呆然と立ち尽くす司凉の姿に、格付けらはこの瞬間、仲間の命が無残にも断ち切られた事を思い知った。
「……司凉」
魂が抜けたように身じろぎ一つしない司凉に、羽前は掛ける言葉を持たなかった。
闇食みの宮がいない今、初愛依である翔士は魂返りすらできずに消滅した。
闇を孕む司凉の虚ろな眼差しは、今や何も捉えていなかった。半身である愛依をもぎ取られ、その喪失と痛みに、全ての感覚を失っていた。
「羽前、退け!」
立ち竦む羽前を押しやるように、成唯が司凉の眼前に立つ。全く自分に目を向けようとしない司凉の胸ぐらを掴み、成唯は渾身の力で殴り飛ばした。
「成唯!」
地面に倒れ込んだ司凉を成唯から庇おうと、羽前が思わず前に立ちはだかった。
「成唯、止めろ!」
「立て……っ!」
成唯は羽前を一顧だにせず、尚も激しい口調で司凉を怒鳴りつけた。
「惚けるな!司凉、お前が戦いの核だ!宮がそう予見されたのを忘れたか!」
「…翔士が死んだ」
片膝を立てて地面に座り込んだ司凉は、切れた唇から流れる血を拭おうともせず、前に立つ依人筆頭補佐を、憎むような苛烈な眼差しで睨み据えた。
絶望に歪む双眸が、憎悪の矛先を見つけたように陰惨な愉悦を孕んで光る。
「知っている」
成唯は、殺意すら囲う眼差しを、臆することなく受け止めた。
「室兄の二の舞だ。
多分、妃咲は安全な木陰に体を同調させ、翔士が殺される様子を笑いながら見ていたのだろうよ」
その言葉が、どんな感情を司凉の心に引き起こすか百も承知で、成唯は敢えて冷ややかにそう言い放った。
司凉は今、愛依を失った悲しみに、五感を麻痺させようとしている。何も見ず、何も聞こうとせず、虚ろな闇の中に、魂を凝らせようとしているのだ。
それがどんなに危険な事か、成唯は痛いほど知っていた。
陣から解き放たれた異形どもは、今や翔士の体を食らい尽くしてこちらに向かって来つつある。今、正気を取り戻させなければ、司凉には死しか残されていなかった。
「翔士を食い殺した鬼を、このままのさばらせておくつもりか」
それが身を焼き尽くす憎悪でもいい。司凉の心を現に戻すために、成唯は更に憎しみを煽る言葉を口にした。
「翔士を、殺した鬼…を?」
「そうだ。あいつらの笑う声が聞こえないか?」
司凉は大きく肩を喘がせた。
と、その時、びゅぉうと生臭い風が哭いて、明らかな澱みが場に流れ込んできた。
次々と破邪の剣を顕現させる格付けらの前に、口から血を滴らせた生首がいくつも飛んできて、嬉しげに踊り狂う。
いたぞえ。ここに
やあ、嬉しや
生身の地肉は旨いぞえ
微乃を初めとする格付けらが、司凉を庇う形で調伏に向かって動き出した。
遠目に見える陣からは、尚も、餓鬼や異形が這いずり出ようとしていて、依人らの甘い臭いを嗅ぎつけたか、一斉に向きを変えて襲い掛かって来る。
司凉を横殴りに抉ろうとした餓鬼を、成唯は神気で薙ぎ払った。
庇われた司凉は場から動こうとせず、ただ襲い来る異形どもを苛烈な目で睨み据え、滴らせる血の匂いに大きく胸を震わせている。
「司凉、伏せろ!」
庇い続けるには限界があった。戦えぬのならせめて身を伏せていろと、成唯が声を荒げたその瞬間だった。
かっと目を見開いた司凉が何かを唱えながら、なめらかな指の動きで印を結んだ。その神印が意味する冥験呪法に気付いた成唯が、思わずぞっと背中を強張らせる。
言祝が届く範囲の異形を一瞬にして封殺する〝おう殺呪法”。
かつて室兄が死を賭して放った禁忌の御技だ。
止める間もあらばだった。
次の瞬間、言祝を唱和し終わった司凉の体から、凄まじいばかりの霊気が迸り、辺り一面が白一色に染め上げられる。
樹木をうねらせる霊気は地をどよもす爆風となって空へと駆け上がり、大地を揺蕩うあらゆる瘴気を一瞬にして薙ぎ払った。
爆裂した霊気の凄まじさに、格付けらでさえ暫く身動きが取れなかった。
やがて邪なるものが全て吹き払われた後の柔らかな静寂が地を訪れた時、格付けらは司凉をあれほどに怒らせ、気を爆裂させたものの正体を知る。
それは血肉だった。食い千切られた指や、草むらに引き摺られた肉片から立ち上る愛依の血が、司凉をあの奥義へと導かせた。
翔士を食い散らかした異形は、今やこの地のどこにもいなかった。
ぽっかりと穴の開いた陣から、今なおおどろおどろしい念が立ち上ろうとしているのを見やり、「結界を張れ」と成唯は短く命じた。
すぐさま羽前が陣の方へ駆けて行き、幾重にも楔を打ち直した。
「妃咲」
ふと木立の向こうに目をやった微乃が、怯んだようにその名を呟いた。
ごく小さな呟きであったのに、そこにいた全員が息詰まる緊張を覚えてその方を振り向いた。
どこか崩れた笑みを浮かべて、妃咲は草むらに散らばる翔士の腸を見つめていた。
自分だけは鬼の餌食とならないように護身結界を張り、罪のない愛依児が生きながら鬼に食われていく様を、薄笑いのまま眺めていた。
ゆっくりと司凉が妃咲に近付いていく。
誰も止めようとしなかった。妃咲をなじる権利は司凉にある。
胸に凝る怒りや憎しみを吐き出させてやる以外、司凉に救いがないことを、その場にいる誰もが知っていた。
「お前が翔士を殺したのか。室兄をその手で殺したように」
ひどく優しい口調で司凉は聞いた。
噎せるような翔士の血の匂いが、辺り一面に広がっていた。
所々に散らばった爪や黒髪。生前の姿を残すものは何一つなく、食い散らかされた肉片だけが、翔士がつい先ほどまで生きてここにいた事を指し示していた。
もう二度と翔士には会えないのだと、司凉はぼんやりと心に呟く。
ついさっきまであの愛依は鬱陶しいほど自分に纏いついていたというのに、こんなにもあっけなくあいつは自分を置いて逝ってしまえるのだ。
「お前が室兄を殺すのは、お前の勝手だ」
血に塗れた翔士の袍の切れ端を拾い上げ、妃咲はぼんやりと弄んでいる。
白い頬にほつれた黒髪が乱れかかり、口を歪めてほくそ笑むその姿はまるで幽鬼のようだった。
「だが、あれは俺の愛依だ。ならば愛依を殺したお前を殺す権利は、当然俺にある筈だな」
余りに穏やかな口調だったため、妃咲との間合いを詰めた司凉の思惑に、格付けの誰もが気付かなかった。
その不穏な手の形に成唯がはっと息を呑んだ時には、既に司凉は破邪の剣を顕現させ、その刃を妃咲に向かって振り下ろしていた。
「司凉、止せ…!」
成唯の制止は間に合わなかった。
次の瞬間、凄まじい血飛沫が視界を染め、薄笑いを浮かべた妃咲の生首が弧を描いて宙に飛んでいく。
「司凉!」
地面に転がるその首を、司凉は更に逆手に持ち替えて刺し貫いた。
虚ろに見開かれた妃咲の目を、鼻梁を、血だらけの口を、何度も何度も狂ったように突いていく。
「止めろ!」
悲鳴のような声を上げて、羽前が後ろから司凉を羽交い絞めにしようとした。
「目を覚ませ、司凉!もう、止めるんだ!」
司凉はうるさげに羽前を振り返り、止めようとする同胞を気で攻撃した。攻撃を予想していなかった羽前はまともに気を食らい、堪らずに草むらに倒れ込む。
驚いて止めようとした微乃や奏慧までも攻撃しようとしているのを見て、成唯がすさかず気の一撃を司凉に叩きこんだ。
依人筆頭補佐の重い気の爆撃を受け、司凉が膝から崩れ込むように草むらに倒れ伏す。
ぐったりと意識もなく倒れ込んだ司凉の体を、歩み寄った奏慧が震える腕で胸に抱き寄せた。
まるで終わらない悪夢を見ているような気分だった。
愛依を殺した同胞をその手で葬った司凉の狂気のごとき絶望を思うと、何もしてやれないもどかしさに身を食む思いがする。
「奏慧」
振り向くと、青ざめた佑楽が傍に来ていた。妓撫からの知らせを受けて、いつの間にか多くの依人たちが陣に集まって来ていた。
返り血を浴びて昏倒している司凉の傍に佑楽はそっと膝をつくと、疲れ切った奏慧に代わり、司凉の体を大事そうに受け取った。
「翔士は死んだんだな」
司凉の体を抱いたまま、どこか感情の欠落した声で、佑楽がそう問い掛けた。
「向こうに、肉片だの血まみれの頭髪だのが残っていた。鬼に散々食い散らされて……。あれはもう、遺体なんて言えるものじゃない。
あれが翔士なんだな。さっきまであんなに元気でいた子が…」
佑楽の言葉に奏慧は唇を噛みしめた。
今更ながらに、同胞を失った悲しみが胸に突き上げてくる。不見に初愛依が生まれたのは久しぶりで、依人たちは皆、あの腕白な愛依を可愛がっていた。
「なあ、奏慧。せめて亡骸を抱いてやりたいのに、骨すら残っていないんだ」
やり切れない思いを隠そうともせず、涙にくぐもった声で佑楽が呟いた。
「残っているのは、千切れ飛んだような指の先と、腸と髪の毛と…」
その光景を思い出したのか、端正な佑楽の顔が悲しみに歪む。
「もう止せ、佑楽」
奏慧が佑楽の頭を抱き寄せると、佑楽はその肩に顔を埋め、堪え切れずに嗚咽した。
あの子は生きながら鬼に食われたのだ。どれだけ苦しかっただろう、どれだけ怖かった事だろう。
魂返りすら知らぬあの子は、いまわの際まで司凉の名を呼び続けていた筈だ。
「司凉が妃咲を殺したと言っていたが」
「ああ…」
奏慧は、罪を噛みしめるように瞳を閉じた。
「俺でも殺している。自分の愛依がこんな殺され方をしたら…」
それは周囲を取り巻く祝主たちの、偽りざる思いだった。
陣にぼつぼつと人が集まり始めていた。
首の落とされた妃咲の頭と体を、衛士らが黙々と聖骸布に包んでいる。
もう一つの聖骸布には、依人らの手によってかき集められた肉片や頭髪などが、大切そうにしまわれた。片手で持ち運べるほどに小さなそれを、成唯が受け取ってその懐に抱く。
転生を果たせずに死んだ愛依児への、それがせめてもの手向けだった。
夕闇がゆっくりと大地にその帳を下ろそうとしていた。
長い一日だったと成唯はぽつりと心に呟く。多くの犠牲が払われて、得られたものはあまりにも少なかった。




