愛依は、祝主の名を何度も呼ぶ
卓議の間で、今後の対応について協議していた司凉は、先ほどから胸を騒がす漠然とした不安を抑えきれずにいた。
それが何なのかはわからない。ただ何か、大切なものを忘れているような気がしてならないのだ。
「どうかしたのか?」
傍らの奏慧にそう問い掛けられ、司凉は「いや」と軽く頭を振った。
何も憂えることはない筈だった。都を徘徊していた鬼は浄化され、例の宝玉も宗妃の墳墓に入れられる事が許された。
日々薄らぐ宮の祝はどう補いようもないが、そのためにこそ自分たちがこの歪みの地に配されている。
少し神経質になっているのだと司凉が自分に言い聞かせた時、不意に扉が開け放たれて、髪を乱した妓撫が息せき切って飛び込んできた。
「成唯!」
狂おしく辺りを見渡した妓撫は、取り押さえようとした奏慧を押しのけるように、自分の祝主に取り縋った。
その尋常でない取り乱しように、格付けらも半ば呆気にとられて成唯の方を見る。
「どうした」
「妃咲を止めてっ!
あの子、翔士を連れ出したの!」
成唯は訳が分からないという顔をした。
「妃咲がどうかしたのか」
「だから何度も言ったでしょう…!」
妓撫は成唯の服を掴み、金切り声で叫んだ。
「妃咲が、翔士と室兄を混同してるって!
どうして分かってくれないのっ!あの子が室兄に何をしたか、貴方はもう忘れたの…っ!」
はっと息を呑んだ成唯の傍らで、司凉が今気づいたように、ああ、と声を漏らした。
「……符だ」
何の脈絡もない言葉に、葵翳は訝し気に司凉を見た。
「符がどうした」
「先程の封じで、翔士は俺の符を使っている」
その言葉が意味するところを悟り、格付けらはみるみる青ざめた。
祝主の符を使った翔士は、もう何があっても助けを呼べない。そしてその翔士は今、かつて残虐極まりないやり方で祝主を殺した妃咲と二人きりでいる。
「妃咲はどこに向かった!」
成唯の怒声に、妓撫は涙声で答える。
「御所の裏山へ」
「埋めの陣か……っ!」
だんと激しい音がして、司凉が扉を蹴破る勢いで飛び出していった。その後を追うように、格付けらも次々と部屋を駆け出ていく。
「結界を破らせるな!」
格付けらの背に向かって葵翳がそう叫んだ、次の瞬間だった。
どぉうん……!
地をどよもす地鳴りが響き、同時に凄まじいまでの衝撃が依人らの体を走り抜けた。埋めの陣の結界が破られたのだ。
鬼が蘇る。
亀裂の入った繋ぎ目をこじ開けるように、中から次々と異形となった首が飛び出してきた。
最初に封じられていた念は八体だけであった筈なのに、このところの宮の祝の薄まりで、周辺で成仏した屍人らまでが念を蘇らせていた。
うようよと裂け目を埋める異形や餓鬼が、舌舐めずりをしながら這い出てくる。
怨めしや
憎しや
のう。あそこにいるのは生き人か
いくら不人とはいえ、人の足では逃げる速度に限りがある。
翔士は必死に足場の悪い山道を駆け下ろうとしたが、いくらも進まぬうちに黒い霧のような瘴気に、周囲を遍く取り囲まれた。
憎しや
ああ。憎しや、怨めしや
生ける者に対する羨望と憎悪が、血のように異形の口から滴っている。
宙を飛ぶ生首がかっと牙を剥いて翔士に襲い掛かり、翔士は咄嗟に言祝でそれを弾き飛ばした。
体勢を立て直す間もなく襲ってきた別の首を、破邪の剣で横殴りに切り捨て、更に足に噛み付いてきた餓鬼を、放った神気で消滅させる。
が、まともに戦えたのはそこまでだった。
無数の燐光がおどろおどろしく周囲を舞う中、生首が次々と翔士の体に歯を立てて、ぶら下がった首の重さに行動を制されて、堪らず翔士は膝をつく。
むしゃぶりついてくる首を剣で貫く間にも、群がる餓鬼がここぞとばかりに爪を食いこませ、牙を立ててきた。
腕と言わず腹と言わず、骨ごと肉を齧られて、生きながら食われる激痛に翔士は咆哮する。
「司凉…っ!」
泣きながら名を呼ぶのへ、鋭い鉤爪が頬の辺りを切り裂いた。我知らず手で庇おうとするのへ、今度は激痛と共に血しぶきが視界を染め、片目を抉られたのだと思い知った。
司凉、司凉、司凉、司凉…。
朦朧とした意識の中で、翔士はひたすら祝主の名を呼び続ける。
……目に見える弱さなど一切なく、重い責を当たり前のように背負っていた司凉。
その揺るぎない強さの中に、ひっそりとした孤独を囲う司凉が、翔士は誰よりも好きだった。
痛みにのたうち、断末魔の叫びを迸らせながら、司凉の元へ帰らなければと、魂はひたすらに恋い続ける。
必ず俺の元へ帰って来いと司凉は言った。
だから自分は、何があっても帰らなくてはいけない。
すでに痛みの感覚も遠のいて、ぽっかりと空いた隻眼に、眩しいほどの空の青さが映っていた。
やがてそれさえも闇に溶けて、がつがつと闇を食らう耳障りな音だけが残された。
司凉…。
今にも解けようとする魂が、思いの丈を込めて祝主の名を呼んだ時、どこか遠くで聞き覚えのある音を、愛依は耳にした気がした。
一定の間隔で優しく繰り返される、温かな鼓動。
一切の危険から遠ざけられた暗く狭い場所で、自分はいつもその音を聞いていた。
光を求めず、悲しみを知らず、夜も昼もなく、ただゆらゆらと微睡んで安らぎを貪っていたあの穏やかな刻…。
そこに戻りたいと、愛依は思った。もう一度母の胎内に戻り、そして再び祝主に会う事が叶うならば…、と。
その一心で、愛依の魂は、鼓動を頼りに飛翔する。
狭い産道を抜けて、初めての空気が新しい命に与えられようとしていた。
おぎゃあああああぁぁぁぁぁ…。
初めての一声が生まれ落ちた赤子の喉から迸り出た、その瞬間…。
生きようとする赤子の強い本能が、愛依の意識を押し潰した。




