第九章 査定
「温かい」
夜明け前の土間で、ヤルナさんが自分の両手を見下ろしていた。
私は寝床から起き上がったばかりだった。トマを起こさないように毛布を抜け出した。受付の机を出しに行こうとしたところで、ヤルナさんの声を聞いた。
「ニナ。見て」
ヤルナさんが手のひらをこちらに向けた。
光っていた。
何もしていないのに、手のひらの真ん中から淡い金色の光がにじみ出ていた。消えかけた蛍ではない。灯したばかりの蜜蝋の、まっすぐな炎の色だった。
「朝起きたら、こうだった。指の先まで湯に浸けたみたいに温かい。こんなの、母ちゃんが生きてたころ以来だよ」
ヤルナさんは奥の部屋へ駆けていった。熱の部屋のいちばん奥の寝床。昨夜から高い熱を出していた三つの男の子のところだ。
ヤルナさんが両手をかざした。
光が、太い帯になって男の子の胸に沈んだ。
男の子の荒い息がひと呼吸ごとに静かになっていく。赤く腫れていた頬から熱の色が引いていく。母親が悲鳴のような声を上げて、男の子の額に手を当てた。
「下がってる。熱が、下がってる」
男の子が目を開けた。母親の顔を見て泣き出した。弱々しい泣き声ではなかった。腹の底から出る元気な子どもの泣き声だった。
ヤルナさんは、自分の手を見つめたまま動かなかった。
「入金じゃ」
戸口にハルヴァンさんが立っていた。眼鏡を外して指で目元をこすっていた。
「通ったんじゃ。明細の、少なくとも一部が。加護が戻ってきた」
◇
札は締めの翌朝から数日のあいだに落ちてくるのだと、ハルヴァンさんが言った。
鐘が鳴るたびに、量り終えたものから順に受領台に届く。私が目覚めた夜に拾った一枚も、その前の月の締めのあとに遅れて落ちてきたものだったのだろう。
霧の月の十五日の朝、最後の札が落ちた。
祈りの部屋の受領台の上に赤い札が積もっていた。私とハルヴァンさんとヤルナさんで一枚ずつ数えた。
赤い札、九十一枚。
黒い線の札、三枚。
「三百十二行のうち、札が来たのが九十四」
ハルヴァンさんが帳面に数を書きつけた。手が震えて数字の線が少し歪んだ。
「残りの二百十八行は、通った」
二十年間一行も通らなかった明細が、三分の二以上通った。
ヤルナさんが私の肩をつかんで揺すった。
「ニナ。あんた、すごいよ。すごいことしたんだよ」
「私じゃありません。ヤルナさんが摘要を書いてくれたから」
「あたしは見たまま書いただけ」
「それが一番大事なんです」
言いながら私は黒い線の札を手に取った。
三枚。裏を返して事由を読む。
摘要不備。施しの必要を認めず。
三枚とも同じ癒し手の字の行だった。月の初め、ヤルナさんがまだ摘要を書くのを嫌がっていたころの行。摘要の欄には一言ずつしか書かれていなかった。
祈った。
治れと。
祈った。
ヤルナさんが私の手元をのぞき込んだ。黒い線と自分の字とを見比べた。
顔から、さっきまでの笑みが消えた。
「……これ、あたしのせい?」
「ヤルナさん」
「黒い線の札は、二度と戻らないんでしょ。削られたぶんの加護は、もう来ない。この三人ぶんの施しは、なかったことになる」
ヤルナさんは札を私の手から取った。指先が白くなるほど強く握った。
「一人はベルンの爺さんだ。足の骨を継いだ。あたしが摘要なんかいらないって言い張ったから、ちゃんと書かなかった。爺さんの足はちゃんと治ったのに、女神さまはそんな施しはなかったって言うんだ」
「なかったとは、言っていません。必要だったかどうかわからない、と言っているんです」
「同じだよ」
ヤルナさんは札を床に叩きつけた。黒い線の札はくるくると回り、受領台の脚に当たって止まった。
「なんで最初から書かなかったんだろ。あんたに言われたのに。祈りに理由なんかいるかって、偉そうに」
ヤルナさんは壁にもたれ、ずるずるとしゃがみ込んだ。膝を抱えて顔を伏せた。
私は黒い線の札を拾った。
査定。前の病院でも毎月何枚も届いた。届くたびに私は黙ってそれを綴じ、来月の付箋の文面を考えた。誰のせいかは言わなかった。言えば医師は不機嫌になる。看護師さんは気まずくなり、医事課の空気が悪くなる。だから黙って自分の机の中で処理した。
それで、何が変わったのだろう。
時任先生の摘要は、七年間、一度も増えなかった。
「ヤルナさん」
私はヤルナさんの前にしゃがんだ。
「査定は、戻りません。でも、なぜ削られたのかがわかれば次は削られません。それが査定の、たった一つの使い道です」
ヤルナさんは顔を上げなかった。
「この三枚は摘要が短すぎたから削られました。施しの理由が女神さまに伝わらなかった。だから来月からは、ヤルナさんが見たことをもう少しだけ多く書いてください。それだけです」
「……それだけ?」
「それだけです」
ヤルナさんは、ようやく顔を上げた。目が赤かった。
◇
残る九十一枚の赤い札を、私は事由ごとに分けた。
七十三枚が資格不一致。十二枚が本人確認不能。六枚が摘要不備。
資格不一致の行を受付簿と突き合わせた。名前の欄は教会の名。摘要の欄にはヤルナさんの字で古い名。それでも返されている行が、七十三。
受付簿をめくって理由がわかった。
この七十三人は受付で古い名を名乗っていなかった。教会の名だけを言った人。言葉がまだ話せない幼い子。熱でうなされて、名前どころではなかった人。施療院に来たときにはもう意識がなく、家族が教会の名で届けた人。
ヤルナさんは見たままを書いた。けれど、古い名を聞いていない人については書きようがなかった。
六枚の摘要不備のうち、一枚が気になった。
十九日の夜の行。熱の部屋の四十がらみの女の人。施しは胸の咳。摘要の欄が空いていた。
私はその行を指でなぞった。
前の私なら、ここで黙って自分で埋めた。カルテを読んで症状を拾い、それらしい言葉を書いてヤルナさんの署名の前に置いた。それで済むならそのほうが早い。誰も困らない。
私は帳面を持って奥の部屋へ行った。
ヤルナさんはちょうど男の子の熱を見終えたところだった。
「ヤルナさん。一つ、教えてください」
ヤルナさんが振り向いた。
「十九日の夜、熱の部屋の四十くらいの女の方。胸の咳の施しです。摘要が空いていました。何を見てこの施しを決めたんですか」
ヤルナさんは眉を寄せた。
「十九日……ああ。トゥーラだ。夜中に咳が止まらなくなって、痰に血が混じった。あわてて施して書くのを忘れてた」
「血が」
「少しだけ。灰色の痰の中に、赤い筋が」
私は帳面にそれを書き取った。灰咳。痰に血の筋。夜間に急変。
「それ、忘れずに書いておけば通ったんだね」
「たぶん」
「なんで今、あたしに聞いたの。あんたなら受付簿を見て勝手に書けたでしょ」
私はペンを止めた。
「……勝手に書いたら、それはヤルナさんの言葉じゃなくなるので」
ヤルナさんはしばらく私を見ていた。それからふっと笑った。
「あんた、ちょっとずつ聞けるようになってるね」
私は答えなかった。ペン先がわずかに震えたのを見られたくなくて、帳面に目を落とした。
◇
その日の午後、受付の机に一人の女の人が立った。
三十を過ぎたくらいの痩せた人だった。継ぎだらけの前掛けをして、腕に小さな男の子を抱いていた。
「エッダです。この子は、ルカ」
窓が二つ浮かぶ。名簿の名と台帳の名。不一致。
「ルカくん、どうなさいましたか」
「先月、ここで咳を治してもらって。また、ぶり返して」
受付簿をめくった。先月の頭に確かにルカくんの名前があった。その行の端に私が小さく書いた印。窓口負担、未。
施療院でも、施しの一割から三割を患者さんが銅貨で納める決まりだった。子どもと年寄りは一割。それでも払えない人がいる。
エッダさんの視線が帳面の印のところで止まった。顔が赤くなった。
「お金は……今は」
「大丈夫です」
「払えないから、来ちゃいけないと思ってた。でも、ルカの咳がひどくなって」
エッダさんの声が細くなった。抱かれたルカくんがこほこほと小さく咳をした。
未収金、と前の病院では呼んでいた。窓口で払われないまま残った患者さんの負担分。たいていは正社員の先輩が電話や手紙で少しずつ回収していた。けれど、それを恥じて来院しなくなる人がいることも先輩は知っていた。だから必ず言うのだ。まず診てもらってください。お金の話は、そのあとで。
「エッダさん。ルカくんはまず癒し手さまに診てもらってください。お金のことは、そのあとで一緒に考えましょう」
「でも」
「一度に払わなくていいんです。たとえば、ひと月に銅貨を一枚ずつ。それならどうですか」
エッダさんは目を瞬かせた。
「……一枚なら」
「それから、もう一つ」
私は返戻台帳の後ろのページを開いた。代官さまに出す書状の下書きを何枚か挟んであった。
「辺境伯さまの領地では病の家に救いの銭が出ると聞きました。夫を亡くした方や、幼い子を一人で育てている方に。それを申し出る書状を私が書きます。通れば施療院に納める分が軽くなるかもしれません」
前の世界には公費負担という仕組みがあった。乳幼児医療や障害者医療。患者さんの負担の一部を国や自治体が肩代わりする。受付ではその受給者証を確かめるのも大事な仕事だった。
この世界にも似た仕組みがあるとトマから聞いていた。ただ、それを書状にして申し出る人がほとんどいなかった。字が書けないからだ。
エッダさんは私の顔をしばらく見つめていた。それからルカくんをぎゅっと抱きしめた。
「ありがとう。ありがとう、ニナちゃん」
ルカくんが母親の肩越しに私を見て、にっと笑った。前歯が一本抜けていた。
◇
夕方、代官リーベルさまが馬で来た。
ハルヴァンさんが帳面を広げた。通った明細が二百十八行。赤い札が九十一枚。黒い札が三枚。代官さまは几帳面に一行ずつ指でなぞった。最後に赤い札の束を手に取って、重さを確かめるように揺すった。
「先月は」
「三百行近く、すべて赤うございました」
「それが九十一」
代官さまは長い息を吐いた。
「辺境伯さまにそのまま申し上げる。オルドに加護が届かぬのは民の罪ではなく、名の不一致であったと。証拠がこの札だ」
代官さまは私を見た。
「次の締めで、赤い札をゼロにできるか」
「……わかりません」
「わからないのに、やると言うのか」
「残りの九十一枚は、ほとんどが古い名前を聞けなかった人の行です。それから」
私はハルヴァンさんの箱を振り返った。
「二十年分の赤い札がまだあそこにあります。全部、返戻です。直して出し直せば通るかもしれない」
代官さまの眉が上がった。
「二十年分を、出し直す」
「はい。でも、そのためには」
言いかけて私は言葉を切った。
ハルヴァンさんが私の言いたいことを引き取った。
「古い名を知っておるのは本人だけじゃ。戸籍は二十年前に焼かれた。村の祭りの名簿もない。二十年前に施しを受けた者の名を確かめるには、本人に会うて聞くしかない」
「生きている者に限るな」
「さようで。死んだ者は」
ハルヴァンさんは口をつぐんだ。
死んだ者は、戻り人になって、さまよっている。名前を答える声を持たずに。
代官さまは帳面を閉じた。
「次の締めで赤い札がゼロになったら、辺境伯さまに王都への推挙をお願いする。それだけのことができる者を、オルドの片隅に置いておく道理はない」
代官さまが帰ったあと、私は受付の机に座って受付簿の最初のページを開いた。
トマが隣で診察券を彫っていた。もう二百枚を超えていた。
「トマ」
「なに?」
「村の人全員に、もう一度名前を聞きたいの」
トマが小刀を止めた。
「全員?」
「全員。お年寄りも、赤ちゃんも。二十年前にここで施しを受けた人も」
トマは目を丸くして、それからにっと笑った。前歯の抜けたルカくんと同じ笑い方だった。
「じゃあ、札、もっと彫らなきゃ」




