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第八章 問診

 その一文を、私は荷車の上で十七回練習した。

「教会の名簿に、古い名前を書き添えていただくことはできませんか」

 声に出さず、唇だけで。ロバの蹄の音に合わせて一語ずつ区切って。

 隣でヤルナさんが薬草の束を膝に抱えて居眠りをしていた。ハルヴァンさんは手綱を握って前を見たまま黙っていた。霧の月に入って朝の空気が冷たくなった。山の頂の雪が少し下まで降りてきていた。


 赤い札の事由は、資格不一致。教会の名簿の名と女神の台帳の名が合わない。

 直し方は二つしかない。明細に台帳の名を書くか、名簿のほうを台帳に合わせるか。

 明細に古い名を書けば改名令に背く。ハルヴァンさんはそれを恐れている。ならば名簿のほうに古い名を書き添えてもらえばいい。名簿を管理しているのは教会だ。ハルトの神殿の司祭さまに頼めば、あるいは。

 疑義照会だ、と思った。

 記録の持ち主に記録の矛盾を確かめる。前の病院で医師に対して何百回もするべきだったこと。そして、ほとんど一度もしなかったこと。

 今度こそ、と私は思った。


   ◇


 神殿の中は前に来たときと同じく、蜜蝋の甘い匂いがしていた。

 司祭オズワルさまは祭壇の脇の小部屋で書き物をしていた。指輪の三つはまった太い指で羽根ペンを握っている。私たちが入っていくと、顔も上げずに言った。

「ああ、セグの書記か。今月の明細の写しか」

「さようで」

 ハルヴァンさんが帳面の束を差し出す。司祭さまはそれを机の端に置き、ようやく顔を上げた。私の顔を見て眉をひそめた。

「空札まで連れてきたのか」

「明細を手伝わせておりますので」

「ふん」

 司祭さまは鼻を鳴らして私を見た。

「何か用か」

 今だ。

 私は口を開いた。荷車の上で十七回練習した一文が、喉のすぐそこまで来ていた。

 教会の名簿に。

 司祭さまの指の指輪が蝋燭の明かりできらりと光った。小部屋の戸口に白い外套の聖騎士が一人立っていた。剣の柄に手を置いて退屈そうにこちらを見ていた。


 異端。

 ハルヴァンさんの言葉が頭の奥で鳴った。改名令に背けば、異端の疑い。

「……いえ」

 声が出なかった。代わりに出たのは、ひどく小さな、どうでもいい言葉だった。

「明細の写しをお納めに参りました。それだけです」

 司祭さまは「そうか」と言って、また書き物に戻った。

 私はうつむいた。足の指が草履の中で丸まっていた。


 前の病院の時任先生の机の前と同じだった。言うべきことは決まっていて、言い方も知っていて、それでも言えない。付箋に書いて置いてくるだけ。黙って直すだけ。

「ねえ、司祭さま」

 横から声がした。

 ヤルナさんだった。いつの間にか起きて、腕を組んで司祭さまの机の前に立っていた。

「名簿に古い名前を書き足すことってできないの?」

 司祭さまのペンが止まった。

「何だと」

「教会の名前の横に、母ちゃんがつけた名前を。あたしならセラフィナの横にヤルナって。そしたら明細が通るかもしれないって、この子が言うの」

 ヤルナさんが私を顎で示した。私は顔から火が出るかと思った。

「明細が通る?」

「赤い札。施療院に二十年、女神さまから突き返されてるやつ。名前が合ってないせいかもしれないんだって」

 司祭さまはゆっくりとペンを置いた。

「セラフィナ・ドール」

 低い声だった。

「お前の名は洗礼のときに女神さまの御前で授けられた聖名だ。異教の名を聖なる名簿に並べて書けと言うのか」

「異教の名じゃないよ。母ちゃんがつけた名前」

「同じことだ」

 司祭さまは立ち上がった。太った体が小部屋の空気を押しのけた。

「改名令は王命であり、大司教さまのお定めだ。オルドの民を野蛮な古い名から清め、女神さまの子として生まれ変わらせるための法だ。それに背く口をきくなら、癒し手の許しを取り上げることもできるのだぞ」

 戸口の聖騎士が背中を壁から離した。

「赤い札が来るのは、オルドの民の信心が足りぬからだ。名などのせいではない。帰れ」

 ヤルナさんは何か言い返そうとした。その腕を、ハルヴァンさんがつかんだ。

「失礼いたしました。娘たちは、田舎者でございますので」

 ハルヴァンさんは深く頭を下げ、ヤルナさんの腕を引いて小部屋を出た。私はその後ろをうつむいたままついていった。


   ◇


 帰りの荷車は行きよりずっと静かだった。

 ヤルナさんは膝を抱えて遠くの山をにらんでいた。ハルヴァンさんは何も言わなかった。私は膝の上で指を組んだりほどいたりしていた。

 村の手前の坂で、ヤルナさんがぽつりと言った。

「あんたさ」

「……はい」

「病人には何でも聞くよね。熱は。咳の色は。息は苦しいか。かぶれたことはあるか。ガルドの傷だって、あいつが嘘ついてるのに引かずに聞いた」

「はい」

「なのに、偉い人の前だと何も聞けないんだね」

 私は答えられなかった。


 問診、という言葉がある。患者さんに症状やこれまでの病気や薬のことを尋ねること。受付の仕事の一つだった。私はそれが得意だった。どんなに無口な人からも聞くべきことは聞き出せた。

 けれどそれは、私より弱い立場の人に対してだけだった。

 具合が悪くて不安で、受付の向こうから私を見上げている人に対してだけ。机の向こうに座る白衣の人や金の衣の人には、私は何一つ聞けなかった。

「……はい」

 それしか言えなかった。

 ヤルナさんは私を横目で見て、それ以上は何も言わなかった。荷車が石を踏んで大きく揺れた。


   ◇


 その夜、書記室で私は明細の行を見つめていた。

 名前の欄には教会の名を書くしかない。それが法だ。けれどその右に摘要の余白がある。

 摘要は癒し手の言葉だ。この施しをなぜ行ったのか。何を見て、何を判断したのか。そこに何を書くかは癒し手が決める。


「ヤルナさん」

 私は奥の部屋にいたヤルナさんを呼んだ。

「摘要に患者さんの古い名前を書いてもらうことはできますか」

「摘要に?」

「名前の欄には教会の名前を書きます。改名令どおりに。でも摘要に、この人は台帳ではこの名で呼ばれている、と添える。癒し手さまが施しのときに確かめた本人の名として」

 ハルヴァンさんが机の向こうで顔を上げた。

「それは」

「名簿は書き換えません。教会の決まりも破りません。ただ、癒し手さまが見たことを書くだけです」

「屁理屈じゃ」

「はい。屁理屈です」

 自分で言って少し可笑しくなった。前の病院でもこういう屁理屈をたくさん覚えた。規則の文言の隙間で患者さんに必要な請求を通すための書き方。審査の人を説得するための言葉。


 ハルヴァンさんは長いこと黙っていた。眼鏡の奥の目が赤い札の山と私とヤルナさんを順に見た。

 ヤルナさんが先に口を開いた。

「書くよ」

 ペンを取って机の端に腰を下ろした。

「母ちゃんがつけた名前を書くのに、誰の許しがいるの。あたしは見たまんまを書く。この人の名前はウルラだって、本人がそう言ったんだから」

 ハルヴァンさんは深いため息をついた。それから自分も新しいペンを取った。

「名前の欄は、わしが書く。四十年書いてきた字じゃ。誰が見ても、正しい教会の名に見えるように」


   ◇


 深夜、私は水を汲みに裏庭へ出た。

 スライムの甕の上に渡した板が月の光で白く見えた。もうあの腐った臭いはしなかった。

 井戸の脇にトマがしゃがんでいた。眠れなかったらしい。膝の上に小刀と木っ端を載せたまま、ぼんやりと空を見ていた。

 そのすぐ後ろに、灰色の人影が立っていた。

 霊安所の隅で初めて見たときから、ずっとトマのそばにいる戻り人だった。昼は日陰に、夜は寝床の隅に。トマが動けば少し遅れてついてくる。


 私は桶を置いた。

 戻り人には目を合わせるな、とトマは言った。ついてくるから、と。

 けれど、この人はもう、ついてきている。

 私は人影の前まで歩いていった。足が震えていた。草履が湿った土を踏む音だけが、やけに大きく聞こえた。

 人影は動かなかった。顔のあるはずの場所は、相変わらず霧のようにかすんでいた。

「こんばんは」

 声が掠れた。

「施療院で受付をしています。少しだけ、お話を伺ってもいいですか」

 返事はなかった。

「お名前を、伺ってもいいですか」

 答えはなかった。風が井戸の縁を撫で、桶の水がかすかに揺れた。


 人影の輪郭の中で、何かが揺れた。

 頭の後ろ、肩にかかるあたり。灰色の霧の中に、ひとすじだけ、色があった。

 青い紐だった。

 髪を編んだ毛先を結ぶ、細い青い紐。

 私は自分の髪に手をやった。肩にかかる栗色の髪。その毛先を目覚めた夜からずっと、同じ青い紐が編んでいる。ほどいたことはなかった。ほどいてはいけない気がして。

 同じ紐だった。

 同じ色の、同じ編み方の。

「……ニナ、さん」

 口から、名前がこぼれた。

 人影は何も答えなかった。ただ、灰色の霧の顔がほんのわずかに、トマのほうを向いた気がした。

「姉ちゃん?」

 トマが振り向いた。私を見て、それから私の目の前の人影を見て顔をしかめた。

「だめだよ、話しかけちゃ。ついてくるって言ったじゃん」

「トマ。この人、いつからいるの」

「姉ちゃんが死にかけた、次の日から」

 トマは膝の上の木っ端をいじりながら言った。

「最初は怖かった。でもさ、姉ちゃんはこうして戻ってきたじゃん。だから、あれはきっと姉ちゃんの病気が抜けた殻なんだ。悪いのが抜けて外に出てきたんだよ。だから姉ちゃんは元気になった」

 トマは笑った。

 私は何も言えなかった。


 違う、と言わなければならなかった。あなたのお姉さんは、そこにいる。病気の抜け殻ではなく、天に上がれずにさまよっているニナさんの魂だ。私はニナさんではない。知らない世界から来た、名前も言えない空札だ。

 喉の奥で言葉が石のように固まった。

 言えば、トマは独りになる。目の前で姉を二度失う。

 言わなければ、トマはこの先も本当の姉の魂を「抜け殻」と呼び続ける。聖騎士が来れば、聖火で焼かれるのをただ見ている。

「……そうかもね」

 私は言った。

 そして、その自分の声を、ひどく遠くに聞いた。


 灰色の人影は何も言わなかった。言えないのだ。名前を持たないから。名前を呼ばれても、答える声を持たないから。


   ◇


 霧の月の十日は、冷たい雨の夜だった。

 書記室の机の上に明細の束があった。ひと月ぶんの施しの記録。三百十二行。名前の欄はハルヴァンさんの端正な字の聖名。摘要の欄はヤルナさんの不揃いな字。見たままの症状と施しの理由と、本人が名乗った古い名前。

 私は最後の一行を三度確かめ、合計の点数を三度足し直した。

「行くぞ」

 ハルヴァンさんが束を抱え上げた。

 祈りの部屋は冷え切っていた。窓を雨が叩いている。受領台の天秤の彫り物が蝋燭の明かりで鈍く光っていた。

 ハルヴァンさんが束を台の上に置いた。

 ヤルナさんがその横に立った。私はその後ろにいた。トマは戸口で灰色の人影と並んで立っていた。


 遠くで、鐘が鳴り始めた。

 一つ。二つ。低く、長く、石を震わせて。

 十二の鐘が鳴り終わったとき、台の上の明細の束が、ふっと軽くなった。

 紙の縁から細かな光の粒が立ちのぼる。粒は束全体を包み、天井の暗がりへ吸い込まれていく。最後の一粒が消えたとき、台の上には何も残っていなかった。

 納められたのだ。

 ハルヴァンさんが詰めていた息を吐いた。

「あとは、量られるのを待つだけじゃ」

 雨の音が急に大きく聞こえた。


 私は空になった受領台を見つめていた。前の病院の送信完了の画面を思い出した。二十三時四十分。あのときも、こうして画面を見つめていた。

 違うのは、今度の結果が私の名前のない手で書いた請求だということだった。


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