第七章 病棟クラーク
「その黒パン、どこへ運ぶんですか」
私は廊下で盆を抱えた女の人を呼び止めた。
村から手伝いに来ているベルタさんだった。四十がらみの腕の太い人だ。盆の上には黒パンを切ったものが十切れ並んでいた。奥の病室の寝床は十。一人に一切れずつ、ということだ。
「どこって、奥の部屋だよ。夕飯」
「七番の寝床の方にもですか」
「七番?」
「腹の熱で今朝運ばれてきた方です。ヤルナさんが、今日は何も食べさせるなって」
ベルタさんは目を丸くした。
「聞いてないよ、そんなの」
ヤルナさんは朝の施しのとき、確かにそう言った。寝床の脇で私に向かって。けれどその場にベルタさんはいなかった。ヤルナさんは次の患者さんのところへ行き、私は受付に戻った。言葉は誰にも渡されないまま、空中で消えていた。
「ごめんなさい。私が伝えるべきでした」
ベルタさんは盆を見下ろして黒パンを一切れ取り除けた。
「危なかったねえ。腹の熱で黒パンなんか食べたら、ひと晩じゅう吐くよ」
私はベルタさんに頭を下げてから書記室に走った。
前の病院では、病棟ごとに病棟クラークと呼ばれる事務の人がいた。ナースステーションに座って入院と退院の手続きをする。検査の伝票を回し、物品を発注する。看護師さんがケアに専念できるよう、看護以外のことを引き受ける人たちだ。
その仕事の中に、食事伝票があった。
医師が絶食と指示すれば、伝票に絶食と書いて栄養部に回す。流動食なら流動食。書いたものは必ず二人で確かめる。間違えれば事故になるからだ。
ここには伝票も、それを運ぶ人も確かめる人もいない。
私はトマに頼んで手のひらほどの木の札を十枚作ってもらった。それぞれに大きく一文字ずつ彫る。絶。粥。常。
「絶って何?」
「何も食べない、っていう意味。お粥の人は粥。普通に食べていい人は常」
「これ、どうするの」
「寝床の頭に掛けるの。ベルタさんが盆を運ぶときに札を見ればわかるように」
札を掛け終えると、私はヤルナさんをつかまえた。
「ヤルナさん。食べ物の指示を出したらこの札を変えてください。ヤルナさんが忙しければ私に言ってください。私が変えます」
ヤルナさんは札を一枚手に取り、ひっくり返して眺めた。
「なんでそこまでするの。口で言えばいいじゃない」
「口で言ったらその場にいた人にしか伝わりません。今日みたいに」
ヤルナさんは何か言い返そうとして、やめた。七番の寝床の男が腹を押さえて呻いていた。その寝床の頭に、絶、の札が揺れていた。
◇
翌日、私は奥の病室の十人の手首に布を巻いた。
古い敷布を細く裂いたものだ。そこに墨で名前を書く。教会の名と古い名と診察券の番号。トマの彫った札と同じ番号だ。
「なんだいこりゃ。囚人みたいだね」
三番の寝床の老婆が手首を持ち上げて笑った。
「すみません。お薬やお食事を間違えないための印です。外したくなったら言ってください」
「外しゃしないよ。きれいな字だ」
前の病院の入院患者さんは、全員が名前を印字したリストバンドをつけていた。点滴をつなぐ前に、薬を渡す前に、看護師さんが必ずバンドを読む。本人の口からも名前を言ってもらう。人は自分が思うほど人の顔を覚えていない。とくに忙しいときは。
それを思い知ったのは、その日の午後だった。
五番と六番の寝床に二人の男が並んで寝ていた。
五番はヤンさん。六十を過ぎた痩せた老人で、灰咳のせいで胸が弱っている。六番はヤーンさん。二十代の若い木こりで、斧で足を切った。
ヤルナさんが湯気の立つ椀を持って入ってきた。黒っぽい煎じ薬の苦い匂いがした。
「ヤーン、薬だよ。傷の熱が上がらないように」
ヤルナさんは五番の寝床に膝をついた。老人の背中に手を回して上体を起こさせる。
私は戸口で、その手首の布を見た。
ヤン。五番。
ヤルナさんの持つ椀は六番の若い木こりのためのものだ。熱冷ましの強い煎じ薬。胸の弱った老人が飲めば心の臓に障る、と昨日ヤルナさんが自分で言っていた。
「ヤルナさん」
声が裏返った。
「その方、ヤンさんです。五番。ヤーンさんは六番です」
ヤルナさんの手が止まった。椀の縁が老人の唇から指一本のところにあった。
ヤルナさんは老人の手首の布を見た。墨で書いた名前を。それから振り返って六番の若い男を見た。若い男は寝床の上で目をぱちくりさせていた。
「……ヤン爺」
「おう。わしはヤンじゃ」
老人がきょとんとして答えた。
ヤルナさんは椀を床に置いた。ゆっくりと、こぼさないように。それから両手を膝の上で握りしめた。指の節が白くなっていた。
「名前が似てるから。寝床も隣だし。顔、ちゃんと見なかった」
ヤルナさんの声がかすかに震えていた。
私の手も、震えていた。
戸口の柱をつかんでいないと、立っていられなかった。七年前の待合室の冷たい長椅子の感触が、掌に戻ってきた。ヤマザキ様とヤマサキ様。濁点が一つ。呼ばれなかったおじいさんの見上げる目。名前を間違えられるのはな、いないことにされるのと同じだ。
あのとき私は、自分の打った一文字で、一人の人をこの世から消しかけた。
「ニナ」
ヤルナさんが私を見ていた。
「あんた、真っ青だよ」
「……大丈夫です」
「大丈夫な顔じゃない」
ヤルナさんは立ち上がり、私の肩をつかんで廊下に連れ出した。壁にもたれさせてから、桶の水を柄杓で汲んで私の手に持たせた。
「飲みな」
水は冷たく、少し鉄の味がした。
「間違えたのはあたしだよ。なんであんたが倒れそうになってるの」
「……前に、同じことをしたことがあるんです。名前を、取り違えて」
ヤルナさんは何も聞かなかった。ただ、私の手から柄杓を取り上げて自分も一口飲んだ。
「この布、明日からほかの部屋の人にも巻いて」
「はい」
「それから、薬を渡す前にあたしにも名前を言わせて。本人にも言わせて」
「はい」
「なんで最初からそうしなかったんだろうね、あたし」
ヤルナさんは苦く笑った。私は返事ができなかった。
なんで最初からそうしなかったのか。答えは知っている。忙しいからだ。一人だからだ。確かめる時間のぶんだけ次の患者さんが待つからだ。確かめずに済むならそのほうが早いからだ。
それでも、確かめなければならない。誰かが消えないように。
◇
施療院の裏手には、汚物溜めの穴があった。
穴というより大きな甕を地面に埋めたものだ。病人の吐いたものも汚れた布を洗った水も、すべてそこへ流される。甕はとうにあふれていた。黒い水が溝を伝い、井戸のほうへにじみ出していた。
夏の終わりの陽気に蠅がうなっていた。鼻が曲がりそうな臭いだった。
「ここの水を病人に飲ませているんですか」
私が聞くと、ベルタさんは首を振った。
「井戸の水だよ」
「その井戸のすぐそばにこれがあります」
ベルタさんは、ああ、と言って黙った。
前の世界の歴史の授業で習ったことがある。昔の都市では汚物と飲み水が交じり合い、そこから病が広がった。灰咳がどういう病なのかは知らない。けれど、汚れた水が病人にいいはずはない。
ハルトの町には清掃ギルドというものがある、とトマが言っていた。下水の底にスライムという生き物を飼っている。スライムは汚物を食べてきれいな水だけを残すのだという。
「呼べないでしょうか。清掃ギルドの人を」
ハルヴァンさんに相談すると、渋い顔をされた。
「スライム飼いは高い。施療院にそんな金はない」
「代官さまにお願いできませんか」
「代官さまは赤い札が減るかどうかを見ておられる。汚物の甕の話など」
「関係あります」
私は返戻台帳を開いた。
「この施療院で施しを受けてひと月のうちにまた運ばれてきた人が、二十三人います。同じ病で。治ったのにまたかかっている。帰った家の水が悪いのか、ここで別の病をもらっているのか。どちらにしても、そのたびに施しが要ります。そのたびに明細の行が増えて、そのたびに赤い札が来ます」
ハルヴァンさんは眼鏡をずらした。
「数えたのか」
「受付簿に名前と日付を全部書いていますから。同じ診察券の番号が二度出てきたら、すぐわかります」
ハルヴァンさんは長いこと台帳を見ていた。それから引き出しから新しい羊皮紙を出して、ペンを取った。
「代官さまへの書状じゃ。お前さんの数を、そのまま書け」
◇
清掃ギルドの男がやってきたのは、それから五日後だった。
荷車に蓋をした大樽を三つ積んでいた。蓋を開けると中で半透明の塊がふるふると揺れていた。拳くらいの大きさの薄い青色のゼリーだった。目も口もない。ただ、樽の内側に張りついた汚れをゆっくりと溶かしていた。
「こいつらを甕に入れて上に板を渡しとけ。ひと月に一度、様子を見に来る。増えすぎたら間引く。冬は動きが鈍るから、藁をかけてやれ」
ギルドの男は腕を組んで施療院の裏庭を見回した。
「代官さまからの頼みじゃなきゃ、来ねえところだがな。施療院からは病がうつるって、ハルトじゃみんな言ってる」
「ここでうつる病を減らすために、来ていただいたんです」
私が言うと、男は鼻を鳴らした。それでも仕事は丁寧だった。甕の中にスライムを放して溝を掘り直し、井戸から離れた場所に新しい流し場を作った。
その日のうちに、裏庭の臭いが変わった。
腐った臭いが薄れ、湿った土の匂いがした。蠅の羽音が少しずつ遠のいていった。
同じ日、私は奥の病室の寝床を並べ替えた。
灰咳の人は東の部屋。傷や骨の人は西の部屋。熱の高い人と赤ん坊連れは、いちばん奥の小部屋。部屋の入口にはそれぞれ木の札を掛けた。トマが彫った三つの字。咳・傷・熱。
「なんで分けるの」
ヤルナさんが聞いた。
「咳の病は近くにいるとうつるんだと思います。傷の人まで咳をもらったら、治るものも治らない」
「思います、って」
「確かめる方法がないので」
ヤルナさんは腕を組んで寝床の列を見渡した。
「……確かに。傷で入った子が、咳で死んだことがある。去年」
それ以上は何も言わず、ヤルナさんは東の部屋へ入っていった。
前の病院ではベッドコントロールと呼んでいた。どの患者さんをどの病室に入れるか。退院した寝床をいつ空け、いつ次の人を入れるか。看護師長と病棟クラークが毎朝一覧を見ながら決めていた。地味な仕事だった。目立たない仕事だった。誰にも褒められたことはなかった。
十日が過ぎた。
施療院で息を引き取る人の数が目に見えて減った。私が来たころは一日に二人か三人だった。それが三日に一人になり、五日に一人になった。
ある朝、霊安所の石の台が一つも埋まっていなかった。
ベルタさんがそれを見て、前掛けで目を押さえた。
「こんなの、何年ぶりだろうね」
ハルヴァンさんは何も言わなかった。代わりに、私の机の上に新しいインク壺を一つ置いていった。
ヤルナさんは私の受付簿をのぞき込んでつぶやいた。
「あんた、施しは一つもしてないのに」
「はい」
「なのに、人が死ななくなった」
ヤルナさんは私を見た。不思議なものを見る目だった。
「なんで?」
「……わかりません。たぶん、ヤルナさんの施しがちゃんと届くようになったんだと思います」
届かなかったものが、届くようになった。迷っていた薬が正しい人の口に入るようになった。それだけのことだった。
◇
その日の夕方、トマと一緒に施療院の裏の丘に登った。
薪を拾うためだった。丘の上からはセグ村の屋根とその向こうの麦畑と、隣の村の煙突が見えた。
隣の村から、煙が上がっていた。
煮炊きの煙ではなかった。太く、黒く、一本の柱になって空へ昇っている。風に乗って何かの焦げる匂いが届いた。獣の脂とは違う、甘くて嫌な匂いだった。
「浄化だ」
トマが薪を抱えたまま言った。
「聖騎士さまが来てるんだ。戻り人を集めて、聖火で焼いてる」
煙の根元に白いものがいくつも動いているのが見えた。白い外套。聖騎士たちだ。そのそばに灰色の人影がいくつも、杭に繋がれた家畜のように並んでいた。
炎が上がった。
灰色の人影が一つ、炎に包まれて、音もなく崩れた。
トマが私の手を握った。冷たい手だった。
ふと、背後に気配を感じた。
振り返ると、トマのすぐ後ろにあの灰色の人影が立っていた。施療院の霊安所の隅にいたぼやけた輪郭の人。いつの間についてきたのか、足音一つ立てなかった。
人影は隣の村の煙のほうを向いていた。
その輪郭が、震えていた。
風に揺れたのではない。人が寒さに耐えるように、怯えて体を縮めるように、灰色の肩が小刻みに震えていた。




