第六章 摘要
「祈りに、理由なんかいるの?」
ヤルナさんは腕を組んで私の差し出した帳面を見下ろした。
昼下がりの施療院の土間だった。午前の受付を終え、私は今月の施療明細を書き始めていた。名前の欄と施しの欄と点数の欄。そこまではハルヴァンさんの古い控えを見ながら埋められる。
埋められないのが、いちばん右の余白だった。
「摘要っていうんです。この施しをどうして行ったのか、癒し手さまの言葉で書いてもらう欄です」
「書いたことないよ」
「ハルヴァンさんの控えを見ると、空欄が多いんです。赤い札の裏に摘要不備っていう事由もたくさんありました」
「だからって、なんであたしが書くの」
ヤルナさんの声が尖った。
「熱があったら、熱を下げたいと祈る。咳が止まらなかったら、止まれと祈る。それを女神さまにいちいち紙で言い訳しろってこと?」
「言い訳じゃないです。説明です」
「同じでしょ」
ヤルナさんは帳面を押し返した。前掛けの裾で手を拭いて奥の寝床へ戻っていく。背中が、話は終わりだと言っていた。
私は帳面を胸に抱え直した。
前の病院でも同じことを言われた。なぜ手術の必要性をいちいち紙に書かなければならないのか。切ったのは俺だ。切る必要があったから切った。それで足りないなら審査する奴らが間違っている。
時任先生の声だった。
私はそのたびに付箋を貼って頭を下げ、査定の通知を受け取った。
◇
門のほうが騒がしくなったのは、その少しあとだった。
「通してくれ、血が止まんねえんだ」
大柄な男が仲間の肩を借りて引きずられてきた。革の胸当てと刃こぼれした手斧。冒険者だ、とトマが言った。ハルトのギルドに出入りしている人たちだという。
男の左の太ももが赤黒く濡れていた。ズボンが裂けている。布の上から押さえた手の指の間を、血が伝って落ちる。土の上に点々と黒い染みが続いていた。
私は机を立った。
「お名前を」
「今それどころじゃねえだろ」
「すぐ癒し手さまのところへお連れします。お名前だけ」
「……ガルドだ」
男の頭の上に窓が浮いた。名簿の名はゲルハルト・セラフ。台帳の名はガルド。不一致。
「どうなさいましたか」
「転んだんだよ。岩場で」
私は男の太ももを見た。
裂けたズボンの間から傷口が二つのぞいていた。並んだ二つの穴。深くえぐれている。縁が内側にめくれ込んでいる。肉が裂けたというより、何かに突き刺されて引き抜かれた形だった。
岩で転んで、こんな傷はできない。
「ヤルナさん、出血が多いです。こちらへ」
ヤルナさんは何も聞かずに来た。ガルドさんを寝床に横たえて両手を傷の上にかざす。光が弱い。弱いけれど、出血の勢いは目に見えて落ちた。それから針と糸を取り出して手早く縫い始めた。ガルドさんが歯を食いしばって唸る。仲間の男が目をそらした。
私は寝床の脇に膝をついた。
「ガルドさん。転んだときに何か尖ったものが刺さりましたか」
「知らねえよ。岩だろ」
「傷が二つ並んでいます。指二本分くらいの間隔で」
ガルドさんの目がちらりと泳いだ。
仲間の男が口を開きかけ、ガルドさんににらまれて閉じた。
「ニナ、今は黙ってて」
ヤルナさんが手を動かしたまま言った。
「縫ってるんだから」
「すみません。でも、これは大事なことなんです」
私は声を落とした。
「ガルドさん。ここで受けた施しは、月末に明細に書いて女神さまに納めます。転んだ傷として書けば、転んだ傷の施しとして量られます。でも、この傷はたぶん転んだ傷の手当てとは違う。中に汚れが残っているかもしれないし、熱が出るかもしれない。そうなったら次の施しが必要になります」
「だから何だ」
「明細に書いた傷と実際の施しが合わないと、女神さまは量ってくれないんです。差し戻されるか、削られる。削られたらその施しに使った加護は戻らない。癒し手さまの光がまた細くなります」
ガルドさんの顔から少しだけ険しさが抜けた。代わりに困った子どものような顔になった。
「……どこで、とは書かねえのか」
「どこで、ですか」
「おれがどこで、何をしてたか」
ああ、と思った。
「書きません。私が知りたいのは、何に、です。どこで、ではありません」
ガルドさんはしばらく天井をにらんでいた。それから観念したように息を吐いた。
「猪だ。でかいのが一頭。牙でやられた」
仲間の男がこらえきれずに吹き出した。
「領主さまの森でな」
「てめえ、黙ってろ」
ヤルナさんが縫う手を止めた。
「牙? じゃあ縫うだけじゃだめだ。中を洗わないと膿む」
ヤルナさんは立ち上がり、棚から酢の壺と煮沸した布を持ってきた。縫いかけた糸を切って傷口を開く。ガルドさんが今度こそ悲鳴を上げた。
私は寝床の脇でガルドさんの手を握っていた。握られた指の骨が軋んだ。
手当てが終わったとき、ガルドさんは汗だくで、それでも笑っていた。
「お前、怖えな。ギルドの受付のねえちゃんより怖え」
「すみません」
「褒めてんだよ」
ガルドさんは私の手を放してヤルナさんのほうを向いた。
「癒し手さま、恩に着る。牙だって最初に言ってりゃ、二度も縫わせずに済んだな」
ヤルナさんは黙って針を片づけていた。けれど、その耳の先が少しだけ赤くなっていた。
夕方、ガルドさんは仲間の肩を借りて帰っていった。門を出るとき、塀際で木札を握って待つ人たちに向かって大声で言った。
「おい、お前ら。ここの受付のお嬢ちゃんに嘘ついても無駄だぞ。傷を見ただけで猪だって当てやがった」
何人かが笑った。笑い声に混じって誰かが言った。
「うちの亭主の腰の痛みも本当は酒樽を担いだせいなんだよ。転んだって言い張ってるけど」
「言うなって」
また笑いが起きた。咳の合間の乾いた笑いだった。けれど施療院の門の前で人が笑うのを、私はここへ来て初めて聞いた。
トマが私の袖を引いて得意そうに鼻をこすった。
「姉ちゃん、有名人だ」
「やめて。恥ずかしい」
言いながら頬が熱かった。前の病院で受付の誰かの話が待合室で笑われていたことなど、一度もなかった。
◇
その夜、ヤルナさんが書記室に来た。
私は机で明細を書いていた。ハルヴァンさんは目が疲れたと言って先に休んでいた。トマは隅の藁の上で膝を抱えて木を彫っていた。名前を二つ刻んだ小さな札。診察券だ。もう三十枚を超えていた。
ヤルナさんは戸口に立ったまま、しばらく黙っていた。
「さっきの」
「はい」
「ガルドのやつ。あんたが聞かなかったら、あたし縫って終わりにしてた。三日後に熱を出してまた運ばれてきたと思う。そのときはもっとひどくなってた」
ヤルナさんは机の端に腰を下ろした。燭台の灯りがこけた頬の影を濃くした。
「書けば、そういうのも女神さまに伝わるの?」
「伝わると思います。何を見て、どうしてその施しを選んだのか。それが書いてあれば、量るほうもこの施しは必要だったとわかる」
「あたしの言葉で?」
「ヤルナさんの言葉で」
ヤルナさんは帳面をのぞき込んだ。私が書いたガルドさんの行がある。名前の欄にゲルハルト・セラフ。施しの欄に傷の塞ぎ。点数。その右の余白が、空いていた。
「なんて書けばいいの」
「見たままを。たとえば左腿に牙による刺し傷二か所。深く、汚れの残るおそれあり。酢で洗い、縫い、光で塞ぐ」
「長い」
「長くていいんです。でも、本当のことだけ」
ヤルナさんはペンを取った。持ち方がぎこちなかった。羽根の先がインクを吸いすぎて、最初の一文字が黒く滲んだ。
「……字、下手なんだよ。教会の字は子どものときに習っただけ」
「読めれば大丈夫です」
「なんでそんなにはっきり言えるの」
「下手な字の書類を、何千枚も読んできたので」
ヤルナさんがこちらを見た。それから、ふっと笑った。初めて見る笑い顔だった。目尻に思ったより深い皺ができた。
「あんた、ほんとに変だ」
ヤルナさんは書いた。一文字ずつ、舌の先を唇の間に挟んで。左腿、牙の傷、二つ。深い。洗う。縫う。光。最後にゆっくりと署名をした。
その名前を見て、私は手を止めた。
セラフィナ。
「ヤルナさんの、教会の名前ですか」
ヤルナさんの顔から笑みが消えた。
「そう。洗礼のときに司祭さまがつけた名前。あたしが四つのとき。改名令ってやつ」
ペンを置いた。指先についたインクを親指でこすっている。
「母ちゃんも癒し手だった。あたしのことをヤルナって呼んでた。熱を出すとヤルナ、ヤルナってひと晩じゅう呼んでくれた。司祭さまはそれを田舎の名前だって言った。異教の名前だから捨てろって」
ヤルナさんは顔を上げて私をまっすぐに見た。
「だから、あたしはヤルナだよ。セラフィナなんて呼んだら、ぶつからね」
ヤルナさんの頭の上に窓が浮かんだ。
『氏名(名簿):セラフィナ・ドール
氏名(台帳):ヤルナ
資格:不一致――返戻中』
癒し手その人も、不一致だった。
私は窓の中身を黙って胸の内で読んだ。
書記室の棚の隅に、私は新しい帳面を一冊置いていた。受付簿とは別の小さな帳面だ。赤い札の事由と窓に見えた二つの名前を、組にして書き留めている。マリア・セラフとミラ。マルガレタ・セラフとウルラ。ゲルハルト・セラフとガルド。
返戻台帳。前の病院で私がつけていたものと同じ名前をつけた。
その帳面を開いて新しい行を足した。セラフィナ・ドール。ヤルナ。
行はもう四十を超えていた。どの組も長い聖名と短い古い名の組み合わせだった。セラフ、ドール、グラン。名簿の側の姓は驚くほど種類が少ない。まるで誰かが、決められた箱にオルドの人々を順に詰めていったかのようだった。
ページの端に小さく書き添えた。名簿の姓、三種のみ。理由、未確認。
「何書いてるの」
「……覚え書きです」
「ふうん」
ヤルナさんは立ち上がって伸びをした。肩の骨がぽきりと鳴った。
「明日からは自分で書く。あんたがいちいち横で読み上げなくていいように」
「ありがとうございます」
「礼はいいよ。あんたのためじゃない。光が太くなるなら、あたしのためだ」
ヤルナさんは戸口まで行き、振り返った。
「ねえ」
「はい」
「あんたの名前は?」
息が止まった。
ヤルナさんの目はからかってはいなかった。ただ、まっすぐに聞いていた。
「あたしはヤルナ。あんたは? 教会の名前じゃなくて」
トマが彫る手を止めて、こちらを見ていた。
灯りの芯が小さく音を立てた。机の上で、インクの染みがゆっくり乾いていった。
水無瀬、と言えばいい。水無瀬詩織と、私の声で言えばいい。
喉の奥で言葉が引っかかった。言えば、トマの前でこの体の持ち主を否定することになる。ニナはもう死んでいて、ここにいるのは知らない誰かだと。トマの姉は戻らないのだと。
それを言う資格が、空札の私にあるのだろうか。
「……ニナです」
ヤルナさんは少しだけ首をかしげた。それから「そう」とだけ言って出ていった。
トマがまた木を彫り始めた。小刀の先が新しい札に二つ目の名前を刻んでいく。
刃の擦れる音が、狭い部屋に細く響いていた。




