第五章 返戻
「見たのなら、仕方がないの」
ハルヴァンさんは振り向きもせずに言った。扉の隙間からのぞいていた私に、とうに気づいていたらしい。
「入れ。戸を閉めろ。風が入る」
私は書記室に入って後ろ手に扉を閉めた。
床いっぱいに赤い札が散らばっていた。箱の縁からこぼれて机の脚にからまり、ハルヴァンさんの草履の下にまで入り込んでいる。数えるまでもなかった。何百どころではない。千を超えているかもしれない。
「女神さまからの手紙じゃ」
ハルヴァンさんは酒の瓶を傾けた。中身はほとんど残っていなかった。
「毎月届く。二十年、届き続けておる」
「読ませてもらってもいいですか」
「読んでどうする」
「わかりません。でも、読みたいんです」
ハルヴァンさんは鼻を鳴らした。止めはしなかった。
私は床に膝をついて一枚を拾った。
表に二文字。返戻。裏を返すと細かい文字がびっしり並んでいた。施療院の名。月。番号。そして一行だけ、ほかより濃い墨の字。
返戻事由 資格不一致。
二枚目を拾う。同じだった。三枚目。資格不一致。四枚目は摘要不備。五枚目は、また資格不一致。
「ハルヴァンさん。この札は何を返されたんですか」
「施療明細じゃ」
ハルヴァンさんは机の上の帳面を一冊、こちらへ押してよこした。
「施療院はの、毎月これを書く。その月に誰をどんな施しで癒したか。加護をどれだけ使うたか。それを十日の終の鐘までに祈りの部屋の受領台に納める」
帳面を開いた。
息が止まった。
縦に並んだ升目。左の列に患者の名前と年。その右に施しの種類。腹の熱・胸の咳・骨の継ぎ・傷の塞ぎ。その右に数字。加護の点数、とハルヴァンさんは言った。いちばん右に癒し手の署名。そして升目の外に広い余白。
ページの頭には施療院の名と月と合計の点数。
見間違えようがなかった。
これは、レセプトだ。
様式も紙も文字も違う。それでも骨組みが同じだった。患者の資格を示す名前。行った医療の種類。その点数。医師の署名。摘要欄。毎月一度、締め切りまでにまとめて提出する。そして審査を受けて、認められれば支払いがある。
「納めたあと、どうなるんですか」
「天秤院が、量る」
「天秤院」
「女神さまのお膝元で施しの帳簿を量るところじゃ。誰も見たことはない。ただ、量られた結果が来る」
ハルヴァンさんは天井を指さした。
「通れば加護が満ちる。癒し手の手が温うなる。光が太うなる。わしら書記は入金と呼んどる」
「通らなければ」
「この札が落ちてくる」
ハルヴァンさんは草履の先で床の赤い札をつついた。
「通らなんだ明細のぶんの加護は戻ってこん。前借りした加護を返せんまま、次の月もまた前借りする。癒し手の光は月ごとに細うなる」
だから、ヤルナさんの光は弱いのだ。
加護は女神からの前借りで、施療院はそれを毎月の明細で精算する。病院が患者さんを診てその費用を毎月のレセプトで請求するのと同じだ。請求が通らなければ病院の金庫は空になる。ここでは癒し手の手が空になる。
「それから、ときどきこういうのも来る」
ハルヴァンさんは箱の底から、別の札を一枚抜き出した。
赤い札だった。けれど表の二文字の上に、太い黒い線が一本引かれていた。
「黒線の札じゃ。これが来た明細の加護は二度と戻らん。量られて、削られたんじゃ」
「……査定」
思わず口から出た。
「サテイ?」
「私の、前にいた……ところでは、そう呼んでいました。量られて認められなかったぶんを削られること」
ハルヴァンさんは眼鏡をかけ直して私を見た。
私は赤い札と黒線の札を両手に一枚ずつ持った。
「ハルヴァンさん。この赤い札と黒い線の札は、まったく違うものです」
「どちらも女神さまのお怒りじゃ」
「違います」
自分の声が思ったより強く出た。
「黒い線の札は査定です。これは認めない、という意味です。削られたら戻らない。でも、赤い札は違います。返戻は、書類に不備があるから直して出し直しなさいという意味なんです」
「出し直す?」
「はい。直してもう一度納めれば、もう一度量ってもらえます。通れば、そのぶんの加護は戻ってくるはずです」
ハルヴァンさんの手から、瓶が落ちた。
床の札の上で空の瓶がごろりと転がった。
「……そんなことは、誰も言わなんだ」
声がかすれていた。
「司祭さまは、赤い札は女神さまに見放されたしるしじゃと言うた。オルドの民が罪深いから施しが量りに合わんのじゃと。わしはそれを信じた。信じて、黙って、札を箱にしもうた」
「どうして、しまったんですか」
「見せれば司祭さまはもっと怒る。オルドの施療院が二十年も女神さまに突き返されておると知れたら、ここは潰される。癒し手もおらんようになる。そう思うたら誰にも見せられなんだ」
ハルヴァンさんは両手で顔を覆った。墨に染まった指の間からくぐもった声がした。
「わしは二十年、黙っておった」
私は何も言えなかった。
その気持ちを、私は知っている。黙っているほうが波は立たない。誰も責められない。誰も困らない。困るのは黙っている自分だけだ。そう信じていられるあいだは。
私はもう一度、赤い札の裏を見た。
資格不一致。
「ハルヴァンさん。返戻は、終わりじゃありません」
顔を覆った指が少しだけ開いた。
「直して出し直せばいいんです。直し方はこの札の裏に書いてあります。資格不一致。名前が合っていないんです」
「名前が」
「明細に書いた名前と女神さまの帳簿にある名前が、違うんです。だから返されている」
「わしは教会の名を書いておる。洗礼名簿の名じゃ。間違えてはおらん」
「教会の名簿の名前は合っています。でも女神さまの帳簿には、別の名前が載っているんだと思います」
ハルヴァンさんが顔を上げた。
「別の名」
「お母さんがつけた名前です」
ヤルナさんの言葉が頭の中で鳴った。教会の名前と、母ちゃんがつけた名前。オルドじゃみんなそう。
「ウルラさんは、教会ではマルガレタ。ミラさんはマリア。ベルンさんはベルナルド。女神さまの帳簿には、たぶん短いほうの名前が書いてあります」
「なぜお前さんに、そんなことがわかる」
私は答えに迷った。
窓が見えると言えば、信じてもらえるだろうか。空札で、戻り人のなりそこないかもしれないと言われた娘が、人の頭の上に女神の帳簿が見えると言って。
「……受付ですから」
それしか言えなかった。
「名前を聞くのが、仕事ですから」
ハルヴァンさんは長いこと私を見ていた。それから長いため息をついた。酒の匂いがした。
「二十年前に、改名令というものが出た」
「改名令?」
「この土地が王国のものになった年じゃ。教会はオルドの民に聖なる名を名乗れと命じた。古い名は異教の名、田舎の名じゃと言うてな。役場の古い戸籍も村の祭りの名簿も、みんな焼かれた。それからは洗礼名簿に書かれた聖名だけが、正しい名ということになった」
「でも、みんなまだ古い名前で呼び合っていますよね」
「呼び合うのは止められん。母親が子をなんと呼ぶかまで、教会は見張れんからの」
ハルヴァンさんは苦く笑った。
「じゃが、帳簿に古い名を書けば改名令に背くことになる。司祭さまに知れれば異端の疑いじゃ。わしにそれは、書けん」
異端。
私は札の束を見下ろした。
二十年分の赤い札。直せば戻るはずの加護。それを直す方法は、教会の決まりに逆らうことだった。
◇
翌朝、施療院に馬が来た。
栗毛の馬から降りたのは、灰色の外套を着た四十がらみの男だった。腰に剣はなく、代わりに革の書類鞄を下げている。辺境伯さまの代官でハルトに詰めているリーベルさまだと、トマが教えてくれた。灰咳の様子を見て回っているのだという。
代官さまは門の前で足を止めた。
扉の机の前に人が並んでいた。昨日ほどではないが、二十人ほど。けれど押し合ってはいない。木札を手に塀際の日陰に座っている。トマが水桶を運び、私は机で一人ずつ名前を聞いていた。
「これは何だ」
代官さまが私に聞いた。
「受付です」
「受付」
「来た方のお名前とご様子を伺って、札をお渡ししています。具合の悪い方から順に癒し手さまのところへご案内しています」
代官さまは列を眺め、私の手元の受付簿をのぞき込んだ。ページの上で目が止まる。名前が二つずつ並んでいるところで。
「教会の名と、古い名か」
「はい」
「なぜ両方書く」
私が口を開くより先に、背後から声がした。
「その娘の申すことを、聞いてやってくだされ」
ハルヴァンさんだった。腕にあの箱の札を一束抱えていた。
私は唾を飲み込んだ。
それから代官さまに説明した。施療明細のこと。赤い札と黒い線の札の違い。返戻事由の資格不一致。名簿と台帳の名が違えば請求は通らないこと。直して出し直せば加護は戻るかもしれないこと。
代官さまは最後まで黙って聞いていた。几帳面な人らしく、途中で一度も口を挟まなかった。聞き終えると赤い札を一枚手に取り、裏の字を指でなぞった。
「つまり、オルドに加護が届かぬのはオルドの民が罪深いからではなく」
「書類の不備です」
代官さまの口の端がわずかに動いた。笑ったのか呆れたのか、わからなかった。
「面白い。教会が聞けば顔を赤くするだろうな」
代官さまは札をハルヴァンさんに返した。
「次の締めは、霧の月の十日だな」
「さようで」
「その締めでこの施療院の赤い札をなくしてみろ。一枚でも減らせたら、話を聞く価値がある。全部なくせたら」
代官さまは私を見た。
「辺境伯さまに申し上げてやる。教会に掛け合ってお前の資格証を出させるよう願い出てもらう。空札のままでは、何かと不便だろう」
資格証。
銀の札だとトマが言っていた。名前を刻んだ手のひらほどの銀の札。それを持っていれば、どこの施療院でも施しを受けられる。どこの町でも自分が誰かを示せる。
その銀の札にどの名前が刻まれるのだろう。ニナか、ニーナ・セラフか。それとも。
私は考えるのをやめた。
「やります」
代官さまはうなずき、馬に戻っていった。
ハルヴァンさんが私の隣に立った。抱えていた札の束を扉の机の上に置いた。
「明細は、お前さんに任せる」
「いいんですか」
「好きにせい。わしはもう、二十年ぶんの札を一人で抱えるのに疲れた」
ぶっきらぼうな声だった。けれど眼鏡の奥の目が、少し赤かった。
◇
その夜から、私は赤い札を並べ始めた。
書記室の床に月ごとの山を作る。札の裏には月と番号が書いてある。古い順に並べれば、何がいつ起きたのかが見えるはずだった。
レセプトの返戻は、まず傾向を見る。どの事由が多いか。いつから増えたか。どの診療科に偏っているか。それがわかれば直す順番が決まる。
獣脂の蝋燭がぱちぱちとはぜた。煤で指が黒くなる。トマは壁にもたれて眠っていた。
夜半を過ぎたころ、いちばん古い札の山ができた。
私はその一枚目を灯りにかざした。
日付は、二十年前の灰の月。
その月の前の束を探した。箱の底から出てきたのは色の褪せた明細の控えだけだった。赤い札は一枚もない。その前の月も、そのまた前の月も。
灰の月から、突然、赤くなっている。
二十年前の、ある一月を境に。オルドの施療院から納めた明細が、一斉に。
私は札を握ったまま、しばらく動けなかった。




