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第四章 受付

 その朝、施療院の門の前には六十二人が並んでいた。

 並んでいた、というのは正しくない。押し合っていた。門の扉を叩く拳。赤ん坊の泣き声。誰かが倒れ、誰かが踏まれかけて悲鳴を上げる。咳の音が波のように寄せては引いた。

 私は箒を持ったまま門の内側に立ち尽くしていた。

 床を掃け、とハルヴァンさんに言われたのだ。けれど掃くそばから門の隙間をすり抜けて人が入ってくる。泥のついた足が掃いたばかりの石畳に跡を残していく。

「順番だよ、順番!」

 ヤルナさんの声がした。入口の土間で両手を咳き込む男の胸にかざしている。光は昨夜と同じく消えかけた蛍のように弱い。

「あたし一人なんだ。押さないで。押したって早くならない」

 誰も聞いていなかった。

 門のすぐ外で老人がよろめいて膝をついた。後ろの若い男がそれを避けて前に出る。その男の後ろからまた別の母親が子どもを抱えて割り込む。


 どこかで見た景色だった。

 インフルエンザが流行った冬の、休日明けの外来だ。自動受付機が壊れて番号札が出なくなった朝。待合室があふれ、受付の前に人の壁ができた。あのとき私は何をしたか。

 体のほうが先に動いた。

 門の脇の壁に外れた古い扉が立てかけてあった。蝶番がもげて蜘蛛の巣が張っている。

「トマ、手伝って」

「え、なに?」

「この扉、門の前まで運ぶの。それから空いた樽を二つ」

 トマは目を丸くしたが、すぐに走った。二人で扉を引きずり、門の内側に横たえる。樽を二つ立ててその上に扉を渡した。


 即席の机ができた。

 それが門と施療院の入口の間に一本の線を引いた。ここから先は机の前を通らないと入れない。

「トマ、木の切れ端と小刀、ある?」

「親方の作業場から持ってきたのなら」

「その切れ端に数字を彫って。一から順に。できるだけ早く」

「数字?」

「番号札。並んだ順に一枚ずつ渡すの」

 トマは何か言いかけて、やめた。腰の袋から小刀を出し、木っ端に刃を当てる。彫り目は細く、まっすぐだった。徒弟の手だった。

 私はハルヴァンさんの書記室に走った。

「紙をください。裏が白ければ何でもいいです。それとペンを」

 ハルヴァンさんは眼鏡をずらして私を見上げた。何も聞かずに棚の下から古い帳面の束を出してきた。裏の白い、書き損じの紙だった。

 机に戻り、扉の板の上に紙を並べる。インク壺のふたを開ける。息を一つ吸う。


 受付は病院の入口だ。入口が詰まれば中は動かない。

「皆さん」

 声を張った。少女の喉は細くて、思ったほど大きな声は出なかった。

「ここで受付をします。お一人ずつお名前を伺って、札をお渡しします。札の番号の順に、癒し手さまのところへご案内します」

 押し合う人々が一瞬だけ静まった。

 誰かが言った。

「なんだ、その札は」

「順番の札です。持っていれば、いったん列を離れてもかまいません。日陰で座って待っていてください。番号を呼びます」

「そんなもんで早くなるのか」

「早くはなりません」

 正直に言った。

「でも、苦しい人が先に診てもらえるようになります。それから、誰も踏まれなくなります」

 ざわめきが少しだけ形を変えた。


 最初に机の前に来たのは子どもを抱いた若い母親だった。

「お名前を」

「……マリア。いや、ミラ。ミラです」

 母親の頭の上に枠が浮かぶ。名簿の名はマリア・セラフ。台帳の名はミラ。資格、不一致。

 私は紙に二つ書いた。マリア・セラフ。その横に、ミラ。

「お子さんのお名前と、お年を」

「ペト。三つ」

「どうなさいましたか」

「三日前から熱が。咳も」

「咳の色は。透明ですか、灰色ですか」

「灰色……」

「息は苦しそうですか。呼んだら返事をしますか」

「します。泣いて、乳も少し飲む」

「塗り薬や草で、かぶれたことはありますか」

 母親は目を瞬かせた。そんなことを聞かれたのは初めてだという顔だった。

「ありません」

「ありがとうございます。一番の札です。あちらの木の下でお待ちください」

 トマが彫ったばかりの木札を渡す。「一」の字の溝にまだ木屑が残っていた。


 二番、三番、四番。

 名前・年・症状・熱・咳の色・息・意識・かぶれ。同じ問いを、同じ順番で繰り返す。問診票の項目は何年も前に暗記していた。紙がないなら、口で聞けばいい。

 十一番の男の前で、手が止まった。

 五十がらみの、大柄な男だった。妻らしい女に肩を支えられている。唇の色が紫がかっていた。名前を聞くと、少し遅れて答えた。

「……ゴ、ル……」

 言葉の終わりがずれている。目の焦点が合っていない。浅い息が喉の奥でひゅうひゅうと鳴っていた。

 私は札を渡さず、立ち上がった。

「この方、先に入っていただきます」

 後ろの列から文句の声が上がった。

「なんでだ、おれが先に並んだ」

「すみません。この方は今すぐ癒し手さまに見ていただかないと危ないんです」

 私は男の妻に支えを代わってもらい、門の中へ走った。土間のヤルナさんの袖をつかむ。

「ヤルナさん、十一番の方を先に。唇が紫で、呼吸が浅くて、返事がずれます」

「なんで? 順番は」

「順番より、そちらが先です。お願いします」

 ヤルナさんは私の顔を見た。それから門の外の男を見た。

 何も言わずに駆け出した。男の胸に両手を当てる。弱い光が、それでも男の胸にじわりと沈んでいく。男は激しく咳き込み、灰色の痰を吐いた。吐いたあとで大きく息を吸った。唇に少しだけ赤みが戻った。

 ヤルナさんがこちらを振り返った。額に汗が光っていた。

「……あと半刻遅かったら、たぶん間に合わなかった」

 列の後ろの文句は、いつの間にか止んでいた。


 受付で患者さんの具合を診断することはできない。事務にそんな資格はない。けれど、危ない人に気づくことはできる。顔色、呼吸、返事。おかしいと思ったらすぐに看護師さんを呼ぶ。それだけで救える人がいる。それが受付の仕事だと外来の先輩に教わった。

 事務的トリアージ、と先輩は呼んでいた。

 大げさな名前だと、あのころは思っていた。


   ◇


 昼過ぎ、二十八番の母娘が机の前に来た。

 六つの女の子だった。熱は軽いが、咳が続いている。

「塗り薬や草で、かぶれたことはありますか」

 母親が「あっ」と声を上げた。

「あります。去年の冬、胸に月下草の膏薬を塗ったら赤くぶつぶつになって。三日痒がって」

「月下草ですね」

 私は札の裏に小さく書きつけた。月下草でかぶれ。それから札を母親に渡した。

「癒し手さまの前でこの札をお見せください」

 一刻ほどして、その子の番が来た。私は机を離れられなかったので、トマに札を持って一緒に行ってもらった。

 しばらくしてトマが走って戻ってきた。

「姉ちゃん、ヤルナさんが呼んでる」

 土間に行くとヤルナさんが壺を手に立っていた。中には緑の膏薬がたっぷり入っていた。女の子は寝床に寝かされ、胸をはだけていた。

「札の裏、あんたが書いたの」

「はい」

「これ、月下草だよ。咳には一番効く。うちで使ってる膏薬は、ほとんどこれ」

 ヤルナさんは壺を床に置いた。

「塗るところだった。見なかったら、塗ってた」

 母親が両手で口を覆った。女の子はきょとんとして天井を見ていた。


 ヤルナさんは別の棚から黄色い膏薬の小さな壺を出した。蜂蜜と蜜蝋を練ったものだと言った。それを女の子の胸に薄く伸ばしながら、私のほうを見ずに言った。

「あんた、医者の娘だったっけ」

「違います」

「じゃあ何なの。昨日まで、ニナは数も数えられなかったでしょ」

 私は答えられなかった。

 ヤルナさんは手を止め、ようやくこちらを向いた。黒い目がまっすぐ私を射抜いた。

「なんで、聞こうと思ったの。かぶれたことがあるかなんて」

「……前に、聞かずに塗ってひどいことになった人を知っているので」

 嘘ではなかった。外来の先輩がまだ新人だった私に話してくれた事故の話だ。アレルギーの確認が漏れて患者さんが救急に回った。だから問診票のその欄だけは絶対に空欄で通すな、と。

「ふうん」

 ヤルナさんはそれ以上聞かなかった。


   ◇


 日が傾くころには門の前の人の壁は消えていた。

 木札を握った人々が施療院の前の木陰や塀際に座っている。トマの友だちの小さな男の子が桶で水を汲んで回っていた。私が頼んだわけではない。誰かが「水を」と言い、それをトマが聞いて友だちに頼んだのだ。

 咳はまだ聞こえる。けれど、悲鳴は聞こえない。

「静かだねえ」

 列に並んでいた老婆がぽつりと言った。腰が曲がり、杖をついていた。

「何十年もこの施療院に通ってるけど、待ってる間に座れたのは初めてだよ」

「お名前を伺ってもいいですか」

「ウルラ。……ああ、教会じゃマルガレタって呼ばれるんだったね。どっちでもいいよ」

 老婆の頭の上に枠が浮かんだ。名簿の名はマルガレタ・セラフ。台帳の名はウルラ。不一致。


 ウルラさんのすぐ後ろには灰色の人影が一つ、寄り添うように立っていた。輪郭のぼやけた、背の高い人の形だった。ウルラさんはそれに気づいているのかいないのか、杖の先で地面をとんとんと叩いていた。

 私は紙にマルガレタ・セラフとウルラを並べて書いた。

「ニナ」

 背後から声がした。ヤルナさんだった。手を前掛けで拭きながら机の上の紙をのぞき込んでいる。

「なんで、名前を二つも書かせるの?」

「……みんな、名乗るときに二つの名前を言うので」

「そりゃそうだよ。教会の名前と、母ちゃんがつけた名前。オルドじゃみんなそう。でも書くのは教会の名前だけでいいんだよ。ハルヴァンじいちゃんだって、明細には教会の名前しか書かない」

「それでも、書いておきたいんです」

「なんで?」

 答えに詰まった。

 窓が見えるから、とは言えない。台帳の名前と名簿の名前が違うから、とも言えない。それが何を意味するのか、私自身まだわかっていなかった。

「間違えないためです」

 ヤルナさんは、ふうん、とまた言った。納得していない顔だった。それでも紙を取り上げはしなかった。


 夕方、最後の一人を中へ送ってから、私は扉の机に突っ伏した。指が墨で黒い。腕が重い。首の後ろがずきずきと脈打っていた。

 トマが隣に座り、小刀の刃を服の裾で拭いた。手のひらにまめが一つできていた。

「姉ちゃん。番号札さ、毎回作り直すの大変だよ。名前も彫っておけば、次に来たときそれ見せるだけで済むんじゃない?」

 私は顔を上げた。

「……診察券」

「しんさつけん?」

「お名前と番号を書いた札を、患者さん一人ずつに持ってもらうの。次に来たときはその札を見せる。そうすれば、名前を取り違えない」

 トマは少し考えて、うなずいた。

「じゃあ、名前は二つとも彫る? 教会のと、母ちゃんのと」

「……うん。二つとも」

 トマは笑って、もう新しい木っ端に刃を当てていた。


 ハルヴァンさんがいつの間にか門の内側に立っていた。腕を組み、机と木陰で待つ人々と私の墨まみれの指とを、順番に見た。

 何も言わなかった。代わりに脇に抱えていた帳面を一冊、扉の上に置いた。新しい帳面だった。表紙の革がまだ硬く、紙は一枚も汚れていない。

「明日から、それに書け」

 それだけ言って、背を向けた。

 受付簿。私は表紙をそっと撫でた。


   ◇


 その夜、水を飲みに起きた。

 廊下の突き当たり、書記室の扉が細く開いていた。蝋燭の明かりが床に一本の黄色い線を引いている。

 何気なく隙間をのぞいた。

 ハルヴァンさんが机に肘をついて座っていた。手元に酒の瓶。眼鏡を外して目頭を指で押さえている。

 足元で、あの箱の蓋が開いていた。

 錆びた錠前が床に転がっている。箱の縁から紙があふれていた。手のひらほどの、細長い紙。蝋燭の火に照らされて、どれも同じ色に光っていた。


 赤い。

 何百枚もの赤い札が、箱いっぱいに詰まっていた。


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